手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

東京国立博物館 東洋館

ガンダーラの釈迦像 2-3世紀

ガンダーラ釈迦三尊像である。

両脇にあるのは仏道に帰依した梵天帝釈天であり、日本でよく見る釈迦三尊像(釈迦如来普賢菩薩勢至菩薩)と異なる。

地方と時代から、大乗仏教のものか。

 

菩薩交脚像

如来が簡素な僧衣をまとうに対して、菩薩は王侯の衣装を着て表される。

弥勒菩薩と推定される。

 

イラン、食器

フロアが変わって、15世紀ころのイランの食器である。

他にもトルコのものも見られる。

知らなかったが、イランなどではこうした人を描くことが許されていたようである。

アラブの文化圏では、肖像描写は偶像崇拝につながるとして忌避され、アラベスクなどの抽象的文様が大成した。

トルコも、ある程度具象的な表現が行われていたようである。実際に、スルタンの肖像画もある。

トルコやイランなどは、一般的に抱かれる政教一致体制などと違い、ある程度世俗と宗教の折り合いをつけて社会が営まれていたようで、非ムスリムでも政治や軍事に参画している。特にオスマントルコ帝国は、「たまたまスルタンがイスラームに帰依するトルコ系」というだけで、イェニチュリや後宮キリスト教徒など雑多にいたようである。

 

ガルダ

再びフロアが変わって、東南アジアの文明である。

頭人身の神ガルダが蛇神を食べる姿とのことである。

釈迦三尊像

南伝仏教、総じてパーリ語で伝えられたことからパーリ仏教、においては、どうも釈迦三尊は、釈迦、観音菩薩般若波羅蜜多菩薩というものらしい。

白毫がない。

カンボジアのものという。

大日如来頭部

タイのもので、これも白毫はない。

ガンダーラには螺髪ではないウェーブした髪をまとめたスタイルのものも多い。螺髪が表現されるようになったのは、インドでも2-3世紀以降とのことという。

日本の仏像が時代によって表現に幅があるといえども、ここまで大きな変化はなく、この国の文化が、受容したままの状態を相当程度墨守してきたといえる。換言すれば、非線型的なまでのレベルでのクリエイティビテイには乏しいといえるかもしれない。

東洋館

 

東京出張二日目

 

 

1.国立西洋美術館

二日目に研修講義が昼からあったが、午前中は上野の国立西洋美術館にいた。

館内の作品は写真撮影可で、日本の美術館では珍しい。

しかし知らなかったためカメラはロッカーにおいてきた。

ティツィアーノエル・グレコ、ムリーリョなどルネサンス~近世の画家のものや、ルーベンスの小品、フェルメールのものと思われる習作、クラーナハブリューゲル、ファン・ダイクなど、さらにラファエル前派のミレイなど、各時代の有名どころの、代表作ではないが小品や秀作が多い。

川崎造船の松方幸次郎の個人コレクションを基にしているのだから、これが限界ともいえよう。しかし個人で、それも東洋人が西洋絵画を、ここまで集めたのは、十分驚異的である。

モネやルノワールが多かった。モネは、睡蓮と並び蓮の頻繁に描いた植物、柳の作品が多かった。

ルノワールは、私の印象では、かなり「萌え」要素のあるかわいい女の子を描く印象だが、まったくかわいくない肖像画が難点何点かあった。

よくわからないが、やはり各画家の完全な第一線のマスターピースではないものが多いということか。

 

2.ホテルは八重洲と上野の間=秋葉原

ホテルをここに取るのは初めてだったように思う。

www.resol-akihabara.com

まだできて日の浅い、新しいホテルである。内外装ともに気をあしらったビンテージ風のもので、おしゃれにできている。ビンテージ風は、古くなっても古びた感じがしにくいこともあって、アパート投資などでも注目される手法である。

アメニティはフロント横においてあるものを自分で部屋にもっていくセルフサービスで、星野リゾートや共立グループ(ラビスタやドーミー・イン)のリーズナブルグレードでも見られる手法だ。

ここを含めて最近のホテルは、アロマなどできちんとフロアを演出している。一泊目の宿は、結婚式場も兼ねているため、香水のようなフレーバーが強かった。しかし、近年のフレーバーのトレンドはリラクゼーションで、どちらかというと弱めのシトラス系とハーブを合わせたアロマが好まれる。

コーヒーやティーバッグなどフロントでもらい放題なのはありがたい。

部屋もシングルでクイーンサイズベッドのため、寝心地もよかった。

エアコンがセントラル空調ではなく、個別空調で家庭用エアコンがついているのも、部屋の快適性に大きく寄与している。

 

万世橋

夜9時過ぎにアキバを歩いてみた。

ヲタクのための電気とアニメの街だったのだが、最近はどうもメイドコスで性的サービスを提供する店が増えているっぽい。看板を見る限り、だが。

なんか、街の雰囲気がちょっといかがわしくなったような、というか、治安が悪くなったような気がする。

アニメ自体がコンテンツとして成長し、特に近年の配信プラットフォームのおかげでサブカルチャーからポピュラーカルチャーになりつつある。

こうしたマンガ・アニメ・ゲーム(MAG)という文化の変化も、徐々にその聖地としての秋葉原の存在を必要としなくなってきた、あるいはMAGのウンカ的中心地としての求心力を相対的に低下させてきたのかもしれない。

特にゲーム系では、中国資本のスマホゲームの広告興行が拡大している。「原神」や「アズールレーン」などで、視聴率のボリュームゾーンの時間帯のテレビでもよくCMを出稿している。

安くこき使われる日本のアニメーターを高額でヘッドハントしていっているともいう。

マンガの分野では、スマホの縦長画面をスクロールしながら読める「ウェブトゥーン」の分野で韓国が先行している。日本でアニメ化された「神の塔」などが代表作だ。

日本の漫画と制作体制が全く違い、原作者の作家性に依存せず、原画、ストーリー、プロモーションなどを徹底的に分業して作るのが強みという。

潰しあう敵ではなく、マーケットを拡大させる互恵的な関係になることはできるだろう。パリがヨーロッパ中から芸術家を集めた(フィンセント・ファン・ゴッホも、アルフォンス・ミュシャも、パブロ・ピカソもみな異邦人である)ように、日本のMAG文化がそうした求心力を保てるかがカギだ。

そのためには、仕事の価値を適正に評価する市場システム(アニメーターの搾取はやめなければならない)、表現の自由、リスクをとれるプロモーター、多様な投資スキームが必要だろう。製作委員会方式はリスク分散にはよいが、リスクを恐れる玉虫色の投資をしがちである。配信プラットフォームという大口投資家を駆使した単独スポンサーによる大型投資や、倒産隔離など、知恵を絞る必要がある。

 

ディスク販売に依存する「負け筋」ビジネスモデルしか打ち出せなかった日本のアニメは近年、アマプラやネトフリといった配信プラットフォームに、「期せずして」救われた感がある。果たして、自分の足で歩く構想力があるかどうか。

デンキ街(手振れが・・・)

神田川

 

東京出張2022.08

 

1.チェーンの居酒屋の方が安全か

去年の11月以来の東京出張だった。

自分が所属する同業者団体の東京にある本部で、研修講師をする仕事だった。

前回の東京出張は、帰ってきて写真のRAW現像をしている最中に調子が悪くなり、みるみる下痢に苛まれ食中毒になったことを悟った。

今回は、新橋の変な焼き鳥屋などには入らず、懇親会も八重洲地下の日本海庄屋だったので、今のところ無事である。

ちなみに、いままでこの団体の懇親会で毎回来ていた日本海庄やも、なんと来月で閉店という。

賃貸の契約が切れて撤退というだけなのかもしれないが、「庄や」はチェーン店としてはマシな方だし、今までもよく来ていたので、やや寂しいところはある。

ところで、こういったチェーンの居酒屋的な飲食店も、やはりピンからキリである。

個人的に最悪どころは、ワタミ千年の宴などという印象。

店員も悪いし、店もそこはかとなく不潔な印象がある。食べ物などギトギトで毒としか思えないような劣悪なものであった。

つぼ八もよい印象はない。

そういえば、どちらも旧イトマングループだったように思う。

そこへ来れば、日本海庄やを始めとする「庄や」グループ(場所によって「京都庄や」だったり「琵琶湖庄や」だったりして、各地ごとに合った素材を使った料理や酒を出しているらしい)はかなりまともである。

居酒屋よりもグレードが高いコンセプトのチェーンで、まず間違いがないのは「がんこ」だろう。

お酒も料理も出て、夜中心の店が多いため懇親会用途などが中心で、居酒屋と選択肢として被るが、料理の質は確実にここが上である。値段も高いが。

 

2.宿泊

金曜日の夜8時半に千歳から羽田に飛び、浜松町のホテルに泊まった。前回来て食中毒になった時と同じホテルだった(偶然予約したら同じだった)。

www.hotel-azur.com

 

部屋は14平米で、東京ならばまぁこんなものだろう。

会議室運営会社のTKPが母体のようだ。

大塚家具の長女の方が創業者である父親に反乱を起こした後業績が傾いた時に、彼女に手を差し伸べて(?)家具屋のフロアの一部を貸会議室にするなど迷走するという、助力を与えたのかとどめを刺しに来たのかよくわからない立ち回りをした企業だったような気がする。

部屋の水回り設備は古い。

14平米の部屋に、小さなシングルベッドを無理矢理二つ入れたタイプのなんちゃってツインである。

シングル用にも提供できる、よくある部屋だ。

それゆえに部屋は狭い。

通常、例えば相模鉄道グループの「ホテルリソル」札幌や、同じく中島公園近くの老舗「札幌パークホテル」、あるいは大通り沿いの、新庄ビッグボスが住まいにしている「ロイトン札幌」などのグレードのホテルは、ツインを単身者に貸す場合でもアメニティは各二つずつである。去年春に宿泊した京都の新阪急ホテルも、今回のホテルと同じようにケチな部屋だったが、アメニティは二つずつであった。

しかし、ベイサイドアジュールはわざわざ一つにしている。

宿泊客に合わせてアメニティを増減させる手間=コストと、一人の宿泊者にアメニティを二つ用意するコストのどちらが高いかはわからない。しかし、ここら辺に各ホテルのコストの削り方が出ていて面白い。

しかし、部屋にはドリップコーヒーとミネラルウォーターが用意されており、これは悪くなかった。

風呂の混合栓のハンドルも新しいものだった。古いものだと、水の栓と湯の栓が別々で、湯は熱湯が出るため水で薄めるのだが、シャワーの温度がいい塩梅になるまで調節するのがめんどくさい。このホテルは、最近の住宅と同じく、温度調節のハンドルと水勢のハンドルだけなので、操作がしやすい。

こうした一つずつが、全体の点数に影響すると思う。

ベッドは小さいものを二つつなげて並べたところで、真ん中に寝ようとすれば隙間が空いて落ちるわけで、どちらか一個のベッドを使わざるを得ない。これはまったく無意味である。

部屋には無駄に大型の50インチクラスのテレビが壁掛けされていた。ネットテレビというわけではなく、こうした備品に金をかけるよりほかに回した方が良いのではないかとも思う。

竹芝桟橋近くから。去年もここ撮った。

今回は新入生のAF-S NIKKOR mm f1.8デビュー戦である。

朝、すぐ横の竹芝桟橋のコンビニに出ると、早速人混みである。

伊豆大島行の船

伊豆大島行の船に多くの家族連れが乗っていた。

子供は夏休み。土曜日だあら当然か。どこへ行くにもこれだけ人が多いのは、慣れてし待った人には当然なのかもしれないが、私にはもはや相当なストレスだ。

近くの緑化しているビル

曇っていて、しかも海沿いのため、湿度はあるものの気温30度少しだった。

暑すぎず助かった。京都市内の酷暑への耐熱仕様も備えている私であれば、割と楽に過ごせた。

AF-S NIKKOR 35mm F1.8やっぱええわ

札幌の新善光寺

札幌で納涼会があったので泊りがけでいってきた。

翌朝起きて、人の一番少ないすすきのを散歩してみた。

札幌なのにかなり暑いが、同じ時期の東京大阪はこんなもんではない。

湿度と気温の責め苦のレベルが違う。

札幌も、ヒートアイランドなどで全く快適な朝ではないが、圧倒的にマシ。

 

すすきの

前日の夜のすすきのは、コロナなどもどこ吹く風という感じで、完全に盛期に戻っている様子。

ワクチン接種で重症化率が低下している(特に若年層)ことからも、こうしてうやむやなまま何となく元の生活に戻っていくのが、良くも悪くもいかにも日本らしい。

 

解体現場のモノクロ写真

朝で陰が長いので、モノクロがよく合う。

Z6がモノクロを強みとするうえに、スキっとクリアーな35mm単焦点で陰影が克明に描ける。

 

朝日の半逆光のコンディション

光が当たっている部分の明るさに負けて、画像がつぶれたりしやすいが、難なくきちんとデータを記録してくれている。

レンズフィルター付けていてここまで掬い取れるのはなかなか。

特に書くこともないので

 

マスコミが病原ではないか。

立憲主義・民主主義という制度を壊疽させる犯人探しの話だ。

今回の安倍暗殺事件で、この疑念というより随分前から得ていた確信を思い出した。

 

1)暗殺事件のその後まとめ

まず、本事件の理解に関して、私が第一報を聞いて2−3分で感じた所感、そして予測が全くと言っていいほど間違っていなかったことがわかった。

慧眼などではなく、冷静に重要な情報を観察し、論理的推測をすれば簡単にわかることだ。

maitreyakaruna.hatenablog.com

民主主義は、冒涜される価値すらもなく、ただ私怨による殺人のために跨ぎ越されただけだった。

その後の言説の中で、珍しく2ちゃんねる創設者のひろゆきの言説が目をひいたので引用しておく。

president.jp

民主主義に失望していられるのはまだ暮らし向きがいい方で、本当に追い詰められていれば民主主義などハナから注意の埒外だろう。

ISに共感してフランスでテロを起こす若者なども、宗教的大義などは二の次だろう。

タリバーンとてイスラームの戦士ではなく、食い詰めたのらくら者の寄せ集めである。

もっと言えば、新撰組のような秘密警察的組織も、地方の食い詰め者の寄せ集めである。

暴力というプリミティブな結果をもたらす原因もまた、その多くはやはりプリミティブだ。

結論、本事件を民主主義に対する冒涜であるとか、あまっさえ安倍の保守思想に対する攻撃などと妄言することは、もはやそれ自体が陰謀論であり、語るに落ちると言うほかない。

単刀直入に言うと、アホである。

 

2)で、カスゴミ、あ間違えたマスゴミ、いや違うマスコミ

大きい事件が起こるたびに、必ず絶対に外さず共通してやらかす連中がいる。

報道機関である。

今回も、やった。

統一教会の名を伏せた件だ。

毎回やっているが、個人的に記憶に新しいのは京都アニメーション放火事件の際の、被害者報道についてである。

あれは、警察側が被害者側京都アニメーションの意向に基づき、報道発表の際に亡くなった方の氏名を非公表としたことが発端であった。

一部のマスコミが、その対応を批判、また亡くなったとされた方の親族に取材スクラムを組んで、やはり批判された。

こういうことをすることがわかっていたから、京都アニメーション側も公表を控えたのである。

つまり、報道機関のやることなすことに信頼性が全くないということだ。

マスコミは自分達の方が力が強いと認識できる対象の意向は、報道の自由を盾に無視して踏み躙る。

他方、安倍暗殺事件は被害者側の意向が働いたわけではなかろうが、警察発表なのか報道各社の勝手な談合の結果なのか、統一教会の名が伏せられた。

宗教団体側から無用なクレームが来るのを恐れたか?

また、参院選後に統一教会の名が(それも団体側から自ら記者会見をやるという、本来報道機関の調査報道能力からすれば最悪のだし抜かれ方という形で)出たのも、選挙に(特に自民党の有利不利に)影響を与えないようにという忖度が働いたと見られてもいる。

報道各社は、自分達が後で絡まれそうな面倒臭そうな相手については、勝手に忖度をして報道の自由(=報道すべき義務)を投げ捨てるのである。

彼らは、自分達がある情報を公表すべきか否かの判断基準を「公益的重要性」と「プライバシー権(これは京アニのような取材対象者による情報のコントロール権という意味である)」の衡量の中においていない。

ただ単に、「自分達が取材対象者より強いか弱いか」と「ネタとして盛り上がれるか否か」のみにおいているのではないか。

こうした、情報の公表基準の一貫した非常識さ、というよりもはや破廉恥さという一点において、報道機関が大事件の際に決まってやらかす醜態の全てが説明がつくように思う。

 

3)コイツらはなんなのか

日本人には、他人の足を引っ張るのが好きだという性質があるようだ。

jp.sputniknews.com

実に愉快だ。

他社にすっぱ抜かれる前に、記者クラブ連で情報を押さえ込んで互いに村八分的監視を行い、談合し、強い者には靡き、弱いものは徹底的に痛めつける。

吐き気がするほどおぞましい。

こういうことをしているから信頼を失うし、ちょうどいいところにYouTubeなどのプラットフォームが現れ、ProSumerと呼ばれる個人消費者たちが自ら情報発信の担い手となる、情報発信のフラット化が生じてきた。

マスコミが信頼を失う中で個人の発信者の一部に、厨二病を拗らせた「子ども大人」の集まりである参政党のような、トンデモ陰謀論者が沸いてくる。

ニートになって部屋に引きこもって中年にまで至った人のことを「子供部屋おじさん」などと揶揄する必要はない。参政党その他「なんちゃってニワカバカ右翼」連中の頭の中が、酸えた臭いのする子供部屋である。

こういうアホは常に沸いてくるものだが、こういったスキを作ったのは明らかに公共の議論の場をしっかりと形成してこなかったマスコミでもある。

マスコミの愚劣な自主規制が、最終的に報道の自由どころか表現の自由そのものの抑圧につながる第一歩であることを、よく思い返さねばなるまい。

 

早くNetFlixのような規模のサブスク業界の巨大報道機関が、何社も出て互いに競争する時代がきてくれれば、現状の日本の報道環境は変わるかもしれない。

 

 

パリピ孔明視聴完了レビュー(辛口)

paripikoumei-anime.com

 

1.採点表

1.アニメーション技術面 50 60  
1)キャラクター造形(造形の独自性・キャラ間の描き分け) 8 10  
2)作り込みの精緻さ(髪の毛、目の虹彩、陰影など) 7 10  
3)表情のつけやすさ 7 10  
4)人物作画の安定性 9 10  
5)背景作画の精緻さ 10 10  
6)色彩 9 10  
       
2.演出・演技      
声優 153 170  
1)せりふ回し・テンポ 8 10  
2)主役の役者の芝居(表現が作品と調和的か・訴求力) 8 10  
3)脇役の役者の芝居(表現が作品と調和的か・訴求力) 8 10  
映像      
4)意義(寓意性やスリル)のある表現・コマ割り 8 10  
5)カメラアングル・画角・ボケ・カメラワーク 8 10  
6)人物表情 7 10  
7)オープニング映像 10 10  
8)エンディング映像 8 10  
音楽      
9)オープニング音楽      
作品世界観と調和的か 10 10  
メロディ 10 10  
サウンド(ヴォーカル含む) 8 10  
10)エンディング音楽      
作品世界観と調和的か 10 10  
メロディ 10 10  
サウンド(ヴォーカル含む) 10 10  
11)劇中曲      
作品世界観と調和的か 10 10  
メロディ 10 10  
サウンド(ヴォーカル含む) 10 10  
       
3.ストーリー構成面 27 70  
1)全体のストーリー進捗のバランス 5 10  
2)時間軸のコントロール 3 10  
3)ストーリーのテンションの保ち方のうまさ(ストーリーラインの本数等の工夫等) 3 10  
4)語り口や掛け合いによるテンポの良さの工夫 4 10  
5)各話脚本(起承転結、引き、つなぎ) 4 10  
6)全体のコンセプトの明確性 5 10  
7)各話エピソードと全体構造の相互作用 3 10  
       
  230 300 0.766667

総合評価・・・Aランク

 

SSランク・・・95%以上

Sランク・・・90%以上95%未満

Aランク・・・75%以上90%未満

Bランク・・・60%以上75%未満

Cランク・・・45%以上60%未満

Dランク・・・30%以上45%未満

Fランク・・・30%未満

 

2.分析

1)語りの視点

英子・孔明・KABEの、各人のストーリーラインごとに各人の1人称視点で語られる。

三人称視点ではない。

 

2)ストーリーラインの本数

序盤は英子が見出される1本のストーリーライン。

代々木公園のライブを経てKABE太人が登場後、彼がラッパーとして復帰するまではKABEのストーリーライン1本。

KABE合流後、再びほとんど英子のストーリーライン1本。

英子が七海と決別後に、英子・KABEのストーリーライン2本。

さらに七海のストーリーラインを追加して最終話へ。

 

3)時間軸の流れ

ミメーシス一本。

ミメーシスとディーエーゲーシスの往還や、過去現在の時間軸操作なし。

 

4)語りの技法

上記の通り一人称での描写のみ・時間軸操作なく、セリフで多くを語らせている。

 

3.総評

総じていえば、「P.A.Worksって、こんなにお話作るのヘタだったっけ?!」となる。

いや、確かにAランクなので悪くはないんだわ(ただしギリギリAランク)。

採点表見ればわかるが、点数を稼いでいるのは音楽。まぁ音楽をテーマにした作品だから当然っちゃ当然なんだけど。

他方、点数ボロボロなのが「3.ストーリー構成」である。

よくこんな点数で、Aランクに踏みとどまったと思う。

細かくみていこう。

1)孔明の登場回数が減るのが悪いのか?

ネット上でも、本作品は中盤以降テンポが悪くなったと言われている。原因として、「孔明の登場回数が減ったから」という意見が出ているようだが、本質はそこではない。以下、中盤以降テンポ感が悪くなった原因を見ていく。

 

2)無駄なトピックの多さ~第4話から第6話を中心に~

英子が代々木公園のフェスで小さな成功をおさめ、大物プロデューサーに見初められるところまではよかった。そのあとの、大型フェス出場をかけた「10万イイね!」獲得企画への参加が決まって以降、一気にストーリーバランスが崩れた。

原因の一つとして挙げられるのは、無駄なトピックの多さだ。

第4話冒頭で「10万イイね!」企画を言い渡されてから、英子の新曲づくりが始まり、同時に彼女の相方となる新しい力を孔明は探し始める。相方になるのが、KABE太人という、心が折れてラッパーをやめたもう一人の主人公だ。

しかしこの第4話、後に英子が大ブレイクする発端となる「DREAMER」の原曲となる自作曲「六本木うどん屋(仮)」が披露されはするものの、KABEの登場はお預け。タメを作られる。

「KABEの話に入る前に、第4話で英子側の布石を打ちたい」という意図なのだろう。しかし、そのストーリー構成上の都合が先に来てしまい、第4話で語るべきことが少なくなりすぎた。このため、第4話がただの「溜め回」となって、内容的に薄いものとなってしまった。

英子が楽曲づくりに精を出す姿が「止め画」などで描かれ、孔明は六本木のクラブなどに足繁く出入りする姿が描かれるが、これらはあくまで「振り」でしかない。

無駄に「止め画」で英子の楽曲作成の努力を描く割には、楽曲制作の経験がほとんどない彼女が、いきなり将来的にスマッシュヒットとなる曲をものしてしまうという展開にも、やや無理がある。本来であれば、複数のストーリーラインを組んで、その中の一本として、トータルでは2話以上かけつつ、彼女の作曲の苦闘と成長を描きこんでいった方が説得力があった。

そう、楽曲作成の場面において、彼女の成長がいまいち描かれていないのである。

以上のように、大事な部分をきちんと描かず、他方「シリーズ設計の都合上」KABE登場までに英子側の「カタをつけておく必要があった」としか思えない。

KABE登場後はどうか?

第5話で彼の心理的葛藤が描かれる。しかしこれも、通りいっぺんをなぞるような描写が何度も繰り返されるのみで、一度でパシッと描いてメリハリをつけてしまった方がよかったように思う。

有名実力派ラッパーでKABEの復帰を願うライバル、赤兎馬カンフーに絡まれるシーンや、母親からの贈り物のシーンなどで、うだうだと何度も彼の逡巡を描く必要はない。他方で、KABEがラップの世界に戻ることをこれほど頑なに拒んでいるにもかかわらず、第5話後半から第6話にかけて、孔明にホイホイ乗せられてステージに上がり、ラッパーとしての復活を果たす。公明の何が彼の心の壁を崩したのか、いまいち理解しにくい。

総じていえば、「無駄なことは延々描く一方で、大事なことをすっ飛ばして描く」というバランスの悪さがある。これは、この作品の序盤以外のすべてに言えることだ*1

 

3)話のつなぎの悪さ~第7話から第9話を中心に~

4-5話の時点で、KABE登場を4話終盤の引きとして使い(4話後半を孔明によるKABE探索と邂逅に充てる)、5話でKABEの葛藤と英子の作曲の苦闘を、それぞれシンクロさせて描写する2本のストーリーラインを組んだ方が、物語として意義があったように思う。

ストーリーラインが英子に戻って来た第7話で、彼女のライバルとなる七海と出会う展開以降も同様だ。

第7話は二人でストリートで歌い始めたところで終わり、第8話前半で、七海が実は新進気鋭のガールズバンド「AZALEA」のボーカルであることが示唆される。本来であれば、第7話末の引きで使う方が効果的だろう。

第8話では、ここでも無駄な話が延々と続く展開が用意される。

英子と七海が風呂屋で歌うシーンや、KABEが地元に戻って駅前で後輩に声をかけられるシーンは、およそなくてもストーリーの進行に支障はなかったはずだ。一見あってもよさそうに見えるが、こうした無駄の積み重ねが、ストーリーのぜい肉となって、ひいてはテンポの悪さになるという好例だ。

 

4)楽曲の使いどころの悪さ(第8話)

なんといっても、音楽をテーマにした作品でこれは致命的だ。

英子と七海をつなぐ曲として、作中に登場するアメリカの有名シンガー「マリア・ディーゼル」の"I'm Still Alive Today"という曲がフィーチャーされる(フューチャーではない。念のため)。

二人をつなぐ大事な楽曲で、第7話から第9話にかけて何度も何度も歌われる。これが問題である。

私が数えたところ、第8話でこの曲は4回も歌われる。歌いすぎなのである。

歌いすぎると聞き飽きる。聞き飽きると感情移入できなくなる。特に第8話冒頭でストリートでデュエットするシーン、お風呂屋で二人で歌うシーンは削ることができたはずだ(デュエットは第7話末に繰り越しできたはず)。

何度も無駄遣いされたために、この曲のここ一番でのパワーがかなり減殺されるのである。

KABEの登場などに無駄な溜めを作った割に、こうした楽曲使用に溜めを作れていないのは、全体の設計を俯瞰してみられていないためではないだろうか?

 

5)KABEと英子の試練を乗り越えるシークエンスのバランスの悪さ(第10話)

第9話の、七海が友達とAZALEAを結成してから現在までの来し方の語りは悪くはなかった。さらに渋谷ヒカリエ空中庭園で、英子が七海にささげた"I'm Still Alive Today"も、きちんと意味のある展開だったと思う(英子が何のために自分は歌うのか?という問いに答えを出した瞬間でもあるから)。

先述のように、このカギになる曲の使用を前話でもう少し抑制していたなら、ここでの一発が強く効いただろうと思うとややもったいない。

再びバランスが崩れたのは、第10話だ。

KABEは赤兎馬とのMCバトルに臨み、英子は有名DJ(プロデューサー?)スティーブ・キドに編曲・レコーディングを認めさせる。

4話以降長く長くため込んできた溜めを、一気に乗り越えるフェーズだ。

本来、このシークエンスは、無駄を削っていけば第8話くらいに持ってこられたはずだ。さらに、第4話以降第8話までの間に、「英子の楽曲完成」「七海との邂逅と決別」「DJキッドとの作曲の完成」という英子のストーリーラインと、「KABEのラッパー復帰」「赤兎馬とのリターンマッチ」というトピックを、互いに呼応させつつリズミカルに展開できれば、ここまでだらだらとなることはなかっただろう。

さらに悪いことに、肝心の二人による「山を乗り越える」シークエンスが、けっこうおざなりであった。

KABEはいきなりMCバトルに挑み、ラップバトルは編集版のように一部だけの描写(KABEのラッパー復帰戦では孔明とのバトルを丁寧にノーカットで描いたのに、である)で、しかも結末はオーディエンスの支持ではなく、赤兎馬がKABEを勝者と認める、という、どうも尻のすわりの悪い終わり方である。MCバトル中は両者互角のいい勝負をしていたように見えるわけで、それならば赤兎馬があくまで個人的に「かなわないなこりゃ」と思った何かがあるか、でなければ両者接戦の末引き分けもやむなし、というストーリー選択をするかしかなかったのではないか。これではせっかくのライバル、赤兎馬カンフーが、タダのKABEの成長のステップ=ストーリー上の道具に成り下がっており、互いに高めあうライバルとしてのキャラクターの価値が毀損されている。

英子のレコーディングについても、ここで使えばいいものの、答えを見つけた彼女が歌うべき"I'm Still Alive Today"が聞こえてこない。無駄遣いし続けた挙句、肝心なところで使わない。さらに、彼女の完成した楽曲"DREAMER"のイントロの使い方、孔明の過去を回顧するシーンとの組み合わせ方の順番も、やや疑問が残る。

 

6)クライマックスの違和感

第12話のクライマックスは、評価が高かったため安心してみられると思ったが、期待したほどではなかった。

ライバルAZALEAは、大手レーベルの金に物を言わせる興行で、ゲリラライブ中にイイねした人に抽選で、100名様に100万円という企画をぶち上げる。

英子とKABEは孔明の計略で、AZALEAがゲリラライブをする予定の渋谷109前に先に乗り込み、AZALEAの曲のイントロを歌い上げ、偽のQRコードを大型スクリーンに映して、AZALEA(の100万円)を目当てにやって来たオーディエンスから7万ものイイねをかすめ取る。

そこに本物のAZALEAが登場し、偽物であるとバレるのであるが、さらにそのあともKABEがあAZALEAを挑発するラップを展開、炎上したところに英子が"DREAMER"を鳴り響かせ聴衆は一気に英子にイイねを送る。

非常に無理がある。

現地で英子側が炎上して、KAMEが火に油を注いだ状況で、それをいくら英子が素晴らしい才能を持った歌姫といえど、一気に消して英子への支持に転じさせる(しかも現地にいないSNS上のオーディエンス込みで)というのは、展開として視聴者の承認を得にくいのではないか?

現実の世界でなら駆け出しの英子ならば歌手生命が終わるくらい炎上してしまうだろうに、という強い違和感が、頭をよぎった。要は、ここが妙にご都合主義的展開なのである。

せめて、オーディエンスには「あらかじめ仕込まれた対バン(バンド同士のパフォーマンスバトル)込みのゲリラライブだ!」と思わせるギミックを用意して、KABEのラップも対バンでお決まりの程度の挑発にとどめ、「シナリオがないはずなのにシナリオがあるかのように魅せる」「ショーアップされた闘い」というプロレス的な展開として、観客を誤認させるという展開であれば、「さすがは孔明」となったであろう。

さらに、このせっかくの対バンという状況下で、七海と英子をつないだマリア・ディーゼルの曲が一度も使われなかったのもやや物足りなかった。

流れとして、

英子がAZALEAの曲のイントロをうたいイイねを「欺罔とは言えないぎりぎりの線で」かすめとりつつ(霧で見えにくい中で「煽るため」という名目でAZALEAイントロをうたい、やや紛らわしい感じで自分たちのQRコード出しつつ、霧が少し晴れたところで対バンを申し込むぎりぎりの綱渡り的ストーリー展開を要するが。。。*2)、KABEが「AZALEA出てこい!対バンしろ!」などと煽る

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(偶然ではあるが孔明の読み通りのタイミングで)AZALEA登場、パフォーマンスでオーディエンスを惹きつける

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英子、満を持して"DREAMER"でAZALEAを食う→先にかすめた分と合わせて10万イイね達成

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自身の仮面をつけた音楽活動に我慢しきれなくなった七海らAZALEAメンバーが、仮面をとり、昔の自分たちの曲を歌い、オーディエンスの支持を得る

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対バンチーム同士でマリア・ディーゼルをうたい、大団円。

例えば、こんな感じにはできなかったのだろうか?

 

7)一般的視聴方法との違い

動画配信などで、消費的流し見をするのであれば、以上のテンポの悪さは十分許容できる。しかし私のような変態は、力を入れている作品は各話2回見ることにしている。すると、テンポの悪さ、構成の悪さがより苛立たしく、粗がよく見えてしまう。

以上、非常に長文になったが、これほど一作品の問題点・改善点を突っ込んで分析したこともない。

駄作であれば批評するにも値しないが、この作品は駄作として放置するにはもったいないレベルの作品であった。それゆえに、以上のように問題点もまざまざと見えてきたのである。

 

4.最近のP.A.Works作品

もともとP.A.Works作品は、作画もストーリーも丁寧な作品が多い。

母親が夜逃げをしたため祖母の経営する金沢の旅館で仲居仕事をすることになった高校生を描いた「花咲くいろは」、アニメ制作会社の仕事のリアルをポップにかつスリリングに描いた「SHIROBAKO」などの代表作の他にも、「レッドデータ・ガール」「クロムクロ」「サクラクエスト」などの佳作も多い。「TARI TARI」、「凪のあすから」や「色づく世界の明日から」などは、知名度は低いものの傑作といって差し支えない。

他方、アクションやサスペンスになると、どうもコンセプトがあいまいだったり、テンポが悪かったりする作品がよく見受けられる。「Fairy Gone」「Sirius the Jaeger」などだ。

他にも、「グラスリップ」のように観念的な性質の強い作品(私小説系や純文学の作家が習作として書く作品に近い匂いがある。観念的に言いたいことはあるのだが、ドラマとしての目鼻のつけ方がまだ定まっていないような。)などもあったが、本作の問題点に一番近いのは、直近の作品である「白い砂のアクアトープ」だろう。

 

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この作品も、ストーリーテリングの技術における練磨が足りなかったように思う。

全体の物語構成として、本作ならば12話でどこまでを映像化するのか?そのためにどのようなテンポで薦める必要があるのか?ということは、いわゆる「シリーズ構成」という、脚本家の花形の仕事であろう。

また、本作においては、楽曲の使いどころや引きと溜めの使い方という、監督や演出の担当分野に及ぶ物足りなさもあった。

こうした点では、何度も言及するが、やはり吉田玲子の脚本術は秀逸といわざるを得ない。

 

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また、作品のテンポ感やストーリーラインの本数という意味では、以前「86」についても同様の言及をした。

 

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しかし、86は原作のしっかりした熱量を映像化してはいた。あの作品において問題は、「小説作品」と「映像作品」では語りに求められる手法やテンポ感が異なるのであり、小説から映像に表現媒体を転換するにあたって、映像としての最適化、というよりもはやプラスアルファをどうやって付加するか、という、かなり高度な問題点であった。

しかし、本作パリピ孔明では、そうしたプラスアルファを付加するための挑戦のレベルではなく、作品の基本として、きちんと勘所を抑えて描き切るという点が未熟であったように思われ、この点が先の「アクアトープ」と共通する問題点なのである。

京アニMAPPAあたりは、それぞれ制作体制は違う*3とはいえ、こうした点を外すことは少ないように思う。

P.A.Worksは、もともとあまり外すことのなかったドラマツルギー的なレベルで、特に最近躓きが見られ、今後の改善が期待される。

 

 

 

*1:ほかにも前の記事で述べたが、ラッパー復帰戦も彼が再びステージに上がる強いきっかけに欠ける展開だった

 

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*2:こうした綱渡り的ストーリー展開は時として必要となる。例えば「SPY×FAMILY」でロイドとヨルがお互いの秘密を隠しつつ、仮面夫婦として同居することを決める展開(そう、あの手りゅう弾のピンを結婚指輪に見立ててはめつつ、後ろで祝福の花火よろしく手りゅう弾が炸裂するあのシーンだ)などは、これを見事にやってのけた。

*3:京アニはP.A.Workの手本ともなった、脚本・音響以外ほぼ全て内製で完結できる体制であり、いわば兄貴分的先行者だ。MAPPAは体制としてはフリーランス外注が多い一般的な制作体制に近いとされる。

Rally Kamuy 2022 Leg 1

 

二日間開催されるRally Kamuyの一日目。

(ちなみに今日は二日目だが、疲れてだるいので観戦中止することに)

 

1.リエゾン区間

今年は、最上級クラスのJN1クラス*1に、去年まではJN2クラスだった元F1レーサーのヘイッキ・コヴァライネンが参戦。去年までFRのトヨタ86で四駆勢を相手にボロ勝ちしていた男が、世界中のラリーレースで勝ちまくるシュコダ・ファビアR5に乗って参戦。鬼に金棒で、今シーズンは2位以下に倍近いポイント差をつけている。

ファビアR5は、F1と同じ主催団体・国際自動車連盟FIAの定めるR5(現Rally2)規定の改造車両で、実質的に日本のJN1クラスよりも戦闘力が高い。このため、JN1クラスのGRヤリスやWRXを擁する他チームからは、R5車両はカテゴリーを別にすべきだとまで言われている。

実際それくらい、速い。

シュコダ・ファビアR5(コヴァライネン・北川組)と、GRヤリス(勝田・木村組)

ファビアはもともと日本に輸入されていないクルマで、型式認定されていないため、ラリーの時だけ走れる仮ナンバー付きという何とも怪しいクルマである。よって、ラリー会場から家まで自走で帰れない。まぁ帰らんだろうが。

HQ、あるいはパルク・フェルメから出走してSS*2までの移動区間は一般道で、これをリエゾン区間という。

リエゾンの途中の黒松内のパン屋とピザ屋がおいしいことで評判の道の駅で、パン買って喰いながら車の通過待ちをして、撮っていった。

横着をして三脚なし手持ち撮影で撮ったが、歩留まりがひどいものでほとんど使い物にならなかった。

路上には私の他にもむさくるしい格好の「おまいら」*3がいたが、9割がた手持ち撮影である。

まともに撮れるものだろうか?

WRX鎌田車、手振ってくれてますな。拡大すると結構ブレてる

基本、絞り値を絞って被写界深度を深くして、かつピント固定で高速連写の三要件をそろえないと撮れない。明るさが足りなければISO感度上げて何とかする。最近のイメージセンサーは好感度ノイズ出にくいから、ここは全面的にこの高性能に頼る。これ、去年のRally Kamuyで試行錯誤して得た教訓だが、一年たったら忘れてた・・・(汗

 

GRヤリス リエゾン区間での一番まともな一枚か

手持ち撮影で、被写体が突然来て通り過ぎるので、水平がいい加減な状態で撮った一枚。

しかし、動体撮影で傾きもこの程度ならば、意図的な水平崩しとして、一応構図が成立している範疇かなと思う。

水平が崩れてても写真構図として成立しているように見える珍しい例かと。

GR86

昆布温泉の益の近くまで戻って張っていた時の一枚。今度はきちんと三脚たてました。

動体は、左から右に向かって動いている方が、逆向きより構図上おさまりがいいっぽい。

 

2.パルク・フェルメ

車検場に戻ってきて、協議から帰ってきた車を撮影。

動いていない方が撮りやすい( ^ω^)

ファビアR5、コヴァライネン

現在最強のマシン。

チームは、愛知県豊橋市石巻町に拠点を置く。通ってた幼稚園と中学校の近くやん・・・

ファビアR5福永車(左)とコヴァライネン車(右)

世界中のラリーレースでは、名門のフォード勢のフィエスタより、シュコダファビアの方が速いらしい。時代が変わったもんですな。

コヴァライネン車、車検中

相手が誰だろうが車検係は容赦しない

パルク・フェルメの働くおっさんたち撮ってるのもそれはそれでおもろいです。

パドック内で整備中

現場でジャッキアップして、下に潜り込んで整備。午後のステージに備えております。

ライバル同士

カーナンバー2勝田GRヤリス(後ろ)と、同3の福永ファビアですな。

お互い何してるのか丸見えという

JN2クラス勢

50代以上のおじさんおばさんも元気に現役でレースに参戦しとります。

平均年齢高くないか?

GR86、市販車よりかっこええな

WRX整備中。光の当たり具合などから、個人的お気に入りの一枚

ラリー会場(アンヌプリスキー場)と、遠くの蹄山麓の風景

レース自体は、走る前からだいたい結果わかる(笑)*4ので刺激はないが、会場の雰囲気やラリーに参戦するおっちゃんおばちゃんらの楽しそうな姿も含めて、こうしたお祭り自体がいいもんです。

自転車レースとともに、ラリーももっと盛り上がってほしいですな。

 

*1:最上位クラスという意味では、オープンホイールでいう「スーパーフォーミュラ」、市販車改造サーキットレースでいう「スーパーGT」みたいなもんですな

*2:スペシャル・ステージ、タイムを競うコース

*3:むさくるしいヲタクを指すネットスラング。語源「お前ら」が転じたもの。

*4:コヴァライネン速すぎ問題、兼、コヴァライネンミスしなさすぎ問題