手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

出張@京都

 

クソじめじめしていた。

8月末日の京都である。

最近、コロナの第7波の感染者数が今までの比ではない。

そのため、出張で近畿地方に帰るにもかかわらず、実家に戻るのは控えて、京都市内でホテルに2泊した。

 

1.ホテル

前回は、京都駅のグランヴィアだった。値段もそれなりに高いが、ロビーから室内まですべて高級ホテルのレベルで、客室も豪華だった。

グランヴィア京都は、今まで泊ったシティホテルの中では、間違いなくシャングリ・ラ東京の次だった(この間にだいぶ差があるのだが)。

 

今回泊ったのは、ホテルモントレ京都。

www.hotelmonterey.co.jp

御池通から烏丸通を少し下がったところにある、やたらと派手なデザインのホテルだ。

大坂の福島あたりにあるモントレ大阪も、電車から見るとかなり派手だ。

大阪に本拠のあるホテル運営企業で、もとは丸糸呉服店、より分かりやすくは消費者金融アコムを母体とする企業だったらしい。

ja.wikipedia.org

内外装は豪華で、室内も広い(広い部屋を選って取ったのだが)。

悪くはなかった。

寝巻もツーピースで上下別れているのは好感が持てる。

が、他のアメニティは普通である。

浴室は洗面台が小さく、シャワーヘッドはミストと通常と切り替えができるが、かなり安いものだとわかる。

加湿空気清浄機は、多くのホテルでは水槽を空にしておいておくものだ。しかし、一部少数のホテルでは、水槽に水が入れてある、あるいは入れっぱなしになっている。

モントレ京都は後者で、水槽を空気清浄機から取り外すと、水槽の接続部分が真っ黒くカビていた。

これはいただけない。

水槽を満たすなら、ルームクリーニング時に毎回入れ替えるべきで、それができないのなら、多数派のホテルのように「空気清浄機の水は空です」などと書いたシールを貼っておくべきだ。

不衛生な気がしたので空気清浄機は使わなかった。

先日泊った富良野のホテルムニンは、小さいながらも富良野駅前のラビスタ富良野とそん色のない装備・サービスで、しかも少し安かったので、非常に好感が持てた。

空気清浄機などもきれいに維持され、テレビのリモコンもビニール製のカバーをつけて直接リモコンに手が触れないようにするなど、配慮が行き届いていた。

 

モントレは、ハードは豪壮だがサービス面などソフトは、あまり気が利かないホテル、高級ホテルと比べるならば全く気の利かないホテル、という印象だ。

ハードの豪華さに対してサービスが追い付いていないという点では、ダイワハウスグループの札幌の旗艦ホテル「ロイトン札幌」と似たところがある。

ロイトンよりも、同じ値段なら伝統のあるパークホテルの方がよい。

 

2.写真

京都市内で用事があって、北区の北大路のさらに来たまで行った。

あちらの方はいくことがほとんどなく地理がわからないが、東山と北山が迫ってくるため、徐々に街の東西の幅が狭くなってくる。北山で隔てられる西側の端から10分も歩かないうちに、すぐ賀茂川上賀茂神社の表に出てしまう。

夕暮れ直前、東山の入道雲

北海道は秋の気配で、夜も最低気温が10度などになってきたが、京都の夏休み最終日はまだまだ夏だった。

上賀茂から南東を望んで写真のような雲が出ていた。ということは、山科や西大津は雨でも降っていたのだろうか。

御薗橋から

すぐ近くの別の場所からのショット。

2枚とも約50mmの画角だ。

雲を主題にしているため、下側は露出をアンダーにしている。

光を反射する川面強調するため、シャープネスやコントラストを強めにしている。

賀茂社

神社も拝観時間があるようで、4時半を過ぎたら上賀茂神社は境内が封鎖されていた。

ここら辺は、閉鎖されない伏見の稲荷大社とは違うようだ。

上賀茂神社境内

境内を外から撮った。

曇っていたが、空がイイ感じだったので撮影し、さらにRAW現像でモノクロ処理にしてみた。

Z6のモノクロはなかなか渋い。

日本の伝統建築がよく合うように思う。

上賀茂神社から外側を望む

広角24mmでパースを効かせた。

毎年笠懸をやっているところ、だと思う。

直接見たことないけど。

三井ビル

で、四条烏丸で戻って来た。

昔220円だったバスの値段が230円だったが、消費税と一緒に上がったのかね。

三井ビルは存在感があり、前からデザインは目を引くなと思っていた。

あえて露出をかなりアンダーにして、ライトアップされたところだけが浮かび上がるように撮影・処理してみた。

AF-S NIKKOR単焦点画角比較

 

1.AF-S NIKKOR 35mm F1.8 G ED

まずは、広角の入り口である35mmから。

シャドーをかなりギシギシさせた

雲から光条が少しだけ出ているが、モニターの再生能力的にほとんど見えないと思われる。

こちらも1枚目と同様、露出アンダー

近景が雲の下のため、影になっている。

こちらも、光条はかなり見えにくい。

しかし光の再現度や繊細さはある。

35mmはパースが強く聞きすぎないので端正さを失わないぎりぎりの画角。

 

2.AF-S NIKKOR 20mm F1.8 G ED

続いて、明確に違いがわかる広角、20mm。

こちらも露出は低めに

別の写真:テレビ画面と同じ9:16アスペクトにクロップ

20mmのパノラマ感が、9:16にすることでより強くなる。

この画角になると、割り切ってパースペクティブの強さを強調した写真にしていく糸で行くのが吉。

 

3.AF-S NIKKOR 85mm F1.8 G

あえてわかりやすく、一期に望遠に振って85mm。

尻別岳、一期に望遠感が出る

色の出方などがややマイルドに思える。

35mm、20mmの方が、空の色がビビッドに出ていたように感じる。

また、広角の方が光を鋭く描写している(前述の光条の残影のようなものもそう)。

横に広い広大な風景だが、あえて望遠で撮る

 

4.AF-S NIKKOR 50mm F1.8 G

最後に、中庸、標準、50mm。

中庸

拡大しても荒れておらず、コントラストもしっかりしてる。

縦構図でもよかったか

こうした風景では、よほどの意図があるか、被写体の位置関係がハマるかしたら50mmでもよいだろうが、そうでない限りなかなか難しい。

5.最後に

RAW現像時に当てるパラメーターはすべて違うため、写真をすべて同列に見ることはできない。

しかし、パラメーターを操作した際の色や明るさの動き方は、どれもかなり共通している。85mmだけややコントラスト・あるいは光の鋭さが弱い感があるが、これは焦点距離ゆえのものもあると思われる。

 

夏の空の写真

2回続けてアニメ時評だったので、写真の記事も少しだけ。

今回は、85mm単焦点と、35mm単焦点の二つで撮った写真。

まず一つ目。

Z6/AF-S NIKKOR 85mm G

雲の質感をメインにした。

85mmで圧縮効果が出るので、雲の大きさと山の相対的な小ささを意識した。

下の風景が単調なのがやや難点。

 

二枚目はこちら。

Z6/AF-S NIKKOR 35mm G ED

とにかく空の色合いをメインにしたかった。

視線誘導があいまいなのが難点。

 

続いて最後。

Z6/AF-S NIKKOR 35mm G ED

右端に焼けていく空を暗示した。

しかし色を少しねじりすぎたか。

雲の流れは、夕焼けの方に視線誘導を加えてくれているが。

いろいろ考えれば考えるほど難しい。

 

「サマータイムレンダ」中間評(ネタバレ)

第一期3か月分が終了し、期待通り、どころか期待以上に、どんどんアクセルふかしている。

summertime-anime.com

 

Summertime Rendering

1.概要

 

maitreyakaruna.hatenablog.com

以前も書いたが、前期=4月放映開始作品で、2期連続、合計半年にわたって放映される予定のこの作品。

前半3か月が終わったが、素晴らしいの一言。

和歌山県紀淡海峡に浮かぶ小さな島「日都ヶ島」(友ヶ島がモデル)に古くから存在する「影の病」(自分と同じ姿をした「影」殺され、存在を乗っ取られる)の元凶と戦うためにタイムリープ能力を与えられた主人公の、謎の敵との熾烈な攻防を描く、スリラー作品。

高度な知能を持った敵との戦いという点で、いわゆるゾンビものとは一線を画する。作品の呼び起こすセンス・オブ・ワンダーとしては、原作者の師匠にあたる荒木飛呂彦ジョジョ第4部「ダイヤモンドは砕けない」や、小野不由美の小説「屍鬼」などに近い。

 

2.何がええって、紀州弁や

本作品は、原作者が和歌山出身ということもあり、その舞台設定が作品に大きな意味を与えている。

紀州弁には専門の方言監修が入っている。

紀州弁は、「~でよぉ」など、近江の方言にもあるような、近畿地方の田舎の方ののんびりした響きがある。

「~したってくれ」が「~しちゃってくれ」となるように、京都・滋賀などとは異なった独特の語形変化があり、当地の雰囲気をよく表している。また、和歌山の方ではどうも、摂津や北河内では「せぇへん」やったり、京都滋賀では「しぃひん」やったりする言い回しが「しやん」という、大阪南部以南(?)によくある表現に置き換わるようで、これもしばしば登場する表現である。

(ほかにも、「ある」と「おる」の用法が逆だったり、「ゆうれい」が「ゆうれん」になるなどいろいろあるらしいが、詳しくは知らん)

演者も、和歌山出身の声優その他関西出身者が多い。非関西弁話者も多いが、彼らも相当頑張っていると思う。

特徴的なのは、紀州弁と共通語(東京弁)の往還だ。

主人公の慎平の心の中での独白は共通語、会話は紀州弁と、激しく行き来する演出だ。

死地を潜り抜け、タイムリープした直後の茫然とした慎平

心の中に死んだ弟の人格を宿す作家・南雲龍之介も、姉・ひづるの人格と弟・龍之介の人格で共通語と紀州弁を行き来する。

作家・南雲龍之介(本名 南方ひづる)

影の病について多くの秘密を知る菱形朱鷺子は、外向けの声は共通語、本心や感情は和歌山弁と、複雑に往還する。

島の秘密を知るキーパーソン、朱鷺子

本作の主役級で、唯一地元和歌山出身の白砂沙帆が演じる澪と、その姉で影に殺されたヒロイン潮は、全編和歌山弁だ。

影の謎を追い始める澪

オリジナルの潮と影の潮

共通語と和歌山弁の往還は、感情と理性、外面と本心といった人間の各側面を表現する際に用いられる演出で、非常に細かい*1

これは、「オリジナルと影」という陰陽の対比、さらにはオリジナルの本人が気づかない負の感情を影が体現するなどといった側面とも連動している。

その中にあって、ヒロイン・潮は、唯一自らの影と共闘し、影の病に立ち向かおうとしていた存在だ。彼女の影、「影潮」には負の感情が見られず、ただただ慎平や澪たちが生きることを願っている。影としてはイレギュラーな存在だ。

彼女の天真爛漫さと裏表のない人間性があるからこそ、こうしたイレギュラーな影となったと説明できるかもしれない。

このように、本作品は「紀州弁」一つとっても、それを演出上必要な道具としてきちんと活用している。ただ単に「聖地巡礼喚起のため」に和歌山を舞台にしました、とはワケが違う。その舞台設定、その文化風俗に意味がある。

 

3.舞台の臨場感、レンダリング

サマータイムレンダ」のレンダは、「レンダリング」のことだ。海外配信の際の本作のタイトルは、"Summertime Rendering"である。

この作品の、通常のご当地アニメを超えた凄さは、その土地の温度、湿度、匂い、空気感まで、まさにレンダリングしたようにアニメーションに投影していることだ。

エアコンの結露、心の涙

ヒロイン、潮の葬儀のために東京から帰って来た幼馴染の慎平は、自分の部屋に戻って初めて潮の死を実感する。その際の心象表現の一つとして用いられるのが、エアコンの結露だ。

心の涙を表す方法はほかにいくらでもあるだろう。しかし、この地の空気感の中でそれを表すのには、エアコンが結露するほどの充満した湿気、高温というが最適だったということだろう。こうした一つ一つの描写が、その地の匂いまで写し取ったように視聴者に伝えてくれる。

坂の焼けたアスファルト、熱く光る海面

こうしたひとつずつのシーンが、まさに「ある夏のレンダリング」として画面に立ち上がってくる。

「影」たちは、オリジナルの人の光情報をスキャンし、立体を再構築して、本物に成りすます。まさにレンダリングだ。慎平には、無限にありうる並行世界の中で、自らがその目で観測し実体験した世界を、体験し続ける限り真実の世界線として確定する能力(難しい)を誰かから与えられている(これは第2シーズンに入る前後で開示される情報)。

視覚情報をスキャンし再構築する。それによって出来上がったものの真贋は、見分けがつくのか?そもそも真贋を区別する意味はあるのか?

こうした外形情報や記憶(影は記憶もスキャンする)だけが、人の存在のすべてなのか?そこまですべて同じでもなお、「心」に違いはありうるのか?これが、この作品が通奏低音として持ち、問い続けているテーマであると思われる。

こうしたテーマ性を持った作品ゆえに、その舞台、人物を、温度や湿度、匂いまですべて写し取ろうという、作り手の動機づけになっているのだろう。

 

4.最後に

本作は、作品に確固としたテーマがあり、それに基づいて映像表現や芝居の演出をコントロールして制作している、非常に意欲で完成度の高い作品だ。

スタジオも、老舗のOLM, Incで、監督は「恋は雨上がりのように」など出色の演出の先行作品を持つ渡辺歩。脚本は「呪術廻戦」や「進撃の巨人」の脚本を担当する瀬古浩司

先行作品から見ても間違いなく実力に申し分のないメンバーだ。

役者も、慣れぬ紀州弁に苦労しているようなところも見受けられるが、実力者がそろっている。特に驚いたのは、物語の黒幕ともいうべき小早川しおりを演じる釘宮理恵で、大阪出身だけあって見事にテンポの良い紀州弁を繰り出す。

小早川しおり

物語は現在後半に入り、より多くの秘密が暴かれ、闘いはますます苛烈になってきた。

最近は珍しくなってきた連続2期、合計半年間にわたるマラソンだが、作画もきれいなまま推移している。

このまま、クライマックスまで、慎平が潮と再び出会える「いま」まで、走り抜けてほしい。

慎平は、潮を救う世界線にたどり着けるか

 

*1:そこら辺の、ただ関西が舞台なだけの、ロクな方言指導もせずにOKテイクを出すがために、聞くに堪えない関西弁まがいのなにかでセリフを吐いている低劣なドラマとは、演出に入れる力の度合いが全く違う。

リコリス・リコイルしか勝たん!

 

おっちゃん久しぶりに深夜アニメらしい深夜アニメ見たわ(誰や

 

lycoris-recoil.com

 

1.オリジナル・アニメ作品

最近は配信プラットフォームの急成長のおかげもあって、アニメという「負け筋」の産業も少し収益性が改善してきている、ように感じる。

その中で、ヲタク向けの深夜帯ではなく、呪術廻戦やSPY×FAMILYのように、ジャンプ原作の全世帯向け作品が増えてきた。

同時に深夜帯は、小説投稿サイト発の無個性な「異世界転生モノ」が溢れる焦土と化していた。

 

特に、原作がないオリジナルのアニメ作品は、世に出てみないと面白いか否かもわからないため、ヒットするか否かのリスクが大きい。

ただでさえ分が悪い「アニメ製作」という事業の中で、さらにハイリスクなオリジナルタイトルのプロジェクトは、近年細ってきていたように思う。

しかし、日本のアニメ産業の拡大・成長を支えてきたものがこうしたオリジナル作品群であることは間違いがなく、それが存在しなくなることは今後を占ううえでネガティブな要素であると思われる。

バブル崩壊後だけを見渡しても、1995年のエヴァンゲリオン、2002年のガンダムSEED攻殻機動隊SAC、2006年のコードギアス、2008年のマクロスF、2011年のまどか☆マギカシュタインズ・ゲート、2014年のガールズ・アンド・パンツァーなど、エポックメイキングな作品が数年に一度生まれ続け、引いては寄せる波のように、その度ごとに国内外のアニメ・ファナティック層を拡大させてきた。

オリジナルアニメは、ビジネス的には分が悪いが、これを作ることこそがその文化の存在を世に知らしめる、いわばフラッグシップ、フラッグキャリアーというべき存在だと思う。

自動車に例えるならば、売るためだけならばヤリスやフリード、エクストレイルのような車ばかり作り続ければよいのかもしれない。しかし、そのメーカーのブランドを世に知らしめ、価値を向上させることを担うのはハイパフォーマンス・スポーツカーなのである。それが、LEXUS LF-Aであり、NISSAN GT-Rであり、またACURA NSXなのだ。

こうした、ハイリスクだが当たればデカイ(ハイリターン)、アニメという文化のためにも誰かがやらねばならない仕事が、オリジナル作品である。

 

2.リコリス・リコイル

繰り返すが、近年はこうしたオリジナル作品が減っている印象があり、あったとしても小粒の作品が多かった。

本ブログでも過去に取り上げた、「海賊王女」や「白い砂のアクアトープ」などはオリジナル作品だったが、当該記事の通り「もう一つ足りない」という評価にならざるをえなかった。

 

maitreyakaruna.hatenablog.com

 

maitreyakaruna.hatenablog.com

 

オリジナルアニメ作品で、完成度が高く秀逸だったものは、"vivy fluorite eye's song"で、昨年の4月まで遡ることになる。まぁ、昨年4月くらいに1作品あったのなら上出来な頻度ではあるが。

 

しばらくの時間を経て現れ、さらに数年ぶり、いや、ほぼ10年ぶりくらいに、オリジナルアニメ作品で大きなムーブメントを起こしそうな作品(起こさないかもしれない)が、「リコリス・リコイル」だ。

日本語にすると「反動の彼岸花」という、意味が分からないような、物騒なような名前だ。

孤児として政府に保護され、極秘裏に秘密警察組織の暗殺者として育て上げられる子供たちという、深夜アニメ的には王道の舞台設定を用意する。

大人=社会に使い潰される若者たち―こうしたテーマ設定は、深夜帯オリジナルアニメの多くが背骨に持ってきた、一つのプリンシプルともいえる。

エヴァンゲリオンでは、エヴァ初号機パイロット・シンジは父にして特務機関ネルフのトップ・ゲンドウに潰された。

コードギアスで、ルルーシュはその怒りと知略で大帝国に反攻を挑み、世界を壊し、世界を創った。

まどか☆マギカでは、まどかは理不尽な世界を「慈悲」により包摂したが、ほむらの持つ「愛憎」との相克はいまだに続いている*1

日本の治安を守るための汚れ役、暗殺者として育てられたリコリスたちは、果たしていかに世界に立ち向かうのか?

作品は、冒頭から特殊工作員リコリス」を擁する秘密組織Direct Attack(通称DA、非常に物騒な名前・・・)の胡散臭さをにおわせながら展開する。

おそらく、メインヒロインの一人、千束(ちさと)のキャラクターからしても、彼女らの作品上の位置づけからしても、彼らは「しなやかに」こうした社会のゆがみと対峙し、スマートにいなし、技をかけて、ひっくり返していくのではないか、と予想する。

 

3.ストーリーにおける表現

注目すべきところは数多くあるが、キリがないので一つだけ。

第2話の終盤で、Wヒロインの一人、たきなが髪留めのゴムで千束を背後から狙い撃つが、千束が偶然よけて、その向こうにいたハッカーのくるみにヒットするシーンがある。

たきな、千束を狙い撃つ

この段階でたきなは、DAのエリートコースを外され左遷されたことを受け入れられず、憂さを晴らすためにもお節介な千束に「銃口」を向けた。千束とたきなには、バディとしての信頼関係はまだない。

その次の第三話が、千束とたきなが本当の意味でバディになるエピソードである。

この話数では、千束の天才的な戦闘センスが強調される。敵の視線、銃口などから正確に射線を予測、狙いの正確な敵の弾ほど身を翻して避けてしまう。当てようとすればするほど、彼女に弾は当たらない。

模擬戦闘でたきなは、初めて千束を信頼し、彼女の後ろにいる敵を打つためにあえて彼女を「狙い撃った」。千束は見事にたきなの射撃の射線上から離脱し、敵チームのリーダーにヒットさせる。

狙い撃つたきな

避ける千束

そしてヒット

第二話で、たきなは千束を信頼せず、ゆえに狙い撃っても当たらないことをもってバディになり切れない二人を描く。それを伏線として、次の第三話では信頼するからこそ狙い撃ち、二人で勝利を掴み取り、バディが誕生する。

舞台上の小道具などだけではなく、アクションシーンや一見無駄に見えるシーンも含めて、ひとつづつにドラマとしての役割が凝縮されている。作劇論の鑑のような濃密なシナリオ、場面設計である。

 

4.制作陣

1)監督

この作品は、制作陣もかなり珍しい。

監督の足立慎吾は、過去には絵コンテなども担当していたアニメーター出身の人で、なんとこの作品が初監督作品という。監督のみならず、脚本の構成も彼である。

見る前は初監督の作品ということで若干不安があったが、冒頭の朝焼けていく外の光の差し込む部屋でコーヒーを淹れるシーンが始まった時点で、「これならイケる」と不安がすべて払拭された。大げさではない。物語の語り初めにこそ、作り手の思考の深さ、作品に対する哲学の有無がすべて凝縮されていると思う。

冒頭シーン

大阪出身、大阪芸大卒ということで、いろんな意味で相当鍛えられている御仁なのだろう。

 

2)ストーリー原案

ストーリー原案はライトノベル作家アサウラ。彼が描いた作品で、閉店前のスーパーで半額シールの貼られた弁当をめぐって毎夜繰り広げられる熾烈なバトルを描いたバカバカしいラノベ、「ベン・トー」(「ベン・ハー」のパロディである)は、非常に楽しい作品であった。

本作品では、その深夜アニメ的シリアスさと、その理不尽と軽やかに身を翻しながら対峙するリコリスたちの持つコミカルさをバランスよく表現している。

 

3)キャラデザ

キャラクターデザインを担当したのは漫画家のいみぎむるで、過去作品に「この美術部には問題がある!」などがある。

近年は、一人の才能に頼るのではなく、こうした各分野の人材を組み合わせて触媒反応を起こす作品が多い*2。最近は、これに味をしめた無能なプロデューサーが、各分野のビッグネームだけ集めれば何とかなるだろうと投げやりな仕事をして大爆死する作品も散見される。

本作品の凄さは、まだトップコンテンダーではない才能たちを見事につないでいる点だ。

 

4)表現イディオム

最後に、このキャラクターデザインに注目してみておく。

本作品の制作スタジオは、ソニーグループが設立した大手アニメ制作スタジオ、A-1 Picturesである。資本力があり、制作基盤は強いらしい。

足立監督自身が総作画監督として参加している別作品「ソード・アート・オンライン」シリーズ(SAO)と同じスタジオだ。

この作品のキャラクターデザインは、そのスタイリングの部分で、このSAOと共通するものがある。

大きいが大きすぎない、たれ目でも釣り目でもバランスよく見える瞳。

額から顎にかけて、しもぶくれになりつつ、逆三角形に収束していく輪郭。

目の周辺では凹面が意識され、頬のあたりでふっくらと膨らむ造形。

これは、SAOであれば主人公のキリトやアスナなど全員に見られる共通の表現イディオムで、本作品では千束とたきなのキャラクター造形に援用されている。

本作品で特徴的なのは、この他にこうしたイディオムを共有するのは、くるみとミズキくらいだという点だ。他の男性や、脇役の女性陣はそれぞれ個性的な造形を与えられている。

主人公二人が持つ造形的特徴は、A-1 Picturesの作品の中の比較的多くが持つ特徴でもある。これには、理由があると思われる。

一つは、顔を様々な角度から描いても、常にキレイに、かわいく描きやすいだろうという点だ。つまり、どんなアングルからでもツブシがきくということだ。

千束、戦闘シーン

千束とくるみ

もう一つは、表情を豊かに魅せやすい、画にうまく芝居をさせやすい、という点だ。

明るく表情がよく変わる千束の芝居には、必須である。

千束、困惑の表情

一方、寡黙で表情が読みにくいたきなの、微妙な心情表現にこそ、こうした「芝居のできるキャラ造形」は重要となる。

懇願するたきな

挫折

模擬戦の勝利の後で、ライバルに見せるしたり顔

千束と少し打ち解け、バディとしてやっていくことを決意した表情

A-1 Pictures得意のこうした表現イディオムを、今回も十分に活かし切っている、というか、今までにないくらい活かしているように思う。

声優も人気や歌手活動の多さなどの興行的実力ではなく、どちらかというと芝居の上手さと役への理解度の高さで人選されているように思う*3。絵の表現の芝居の上手さと、実力重視の声優起用で、非常に質の高い映像になっていることがわかる。

 

5.終わりに

基本的に、アニメ作品の批評は視聴完了後にするつもりだが、この作品は中盤に差し掛かった時点で、「期待買い」込みでの中間評だ。

オリジナル作品のため今後どうなるかは不明だが、この若手中堅離れした安定感と緻密な作りこみを見せてくれる制作陣であれば、おそらくこのペースで最後まで走り切ってくれるのではないか。

*1:慈悲と愛憎は仏教における概念で、前者は後者を超越した先にある、涅槃の境地である。まどか☆マギカで、原作者新房昭之虚淵玄は、二人のヒロインそれぞれにこの二つの概念を象徴させた。

*2:新房・虚淵蒼樹うめ梶浦由記まどか☆マギカや、超平和バスターズこと長井龍雪岡田麿里田中将賀の「あの花」及び秩父三部作など

*3:たきな役は、以前紹介した「ハコヅメ」で「署内きってのアホ」の新人警官・川合を演じた若山詩音。

 

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千束役は、京都アニメーション響け!ユーフォニアム」の主人公の一人・高坂麗奈を好演する安済知佳

東京国立博物館 本館

四天王像

東京国立博物館は、5棟ほどの建物があり、午前中の3時間ほどではごく一部しか廻ることができない。

今回は、ひとまず本館1階と、東洋館の一部だけを見た。

館内の収蔵品は、外部からの寄託品の一部を除いて撮影可で、そこは西洋美術館と同じだ。

欧州の美術館は撮影も模写も当然OKのため、こうした流れはもっと、特に国公立の美術館には広がらなければならない。

写真は、博物館収蔵の四天王の一角である。

仏像の収蔵に関しては、京都と奈良の博物館の方が圧倒的に豊富である。とはいえ、一つずつの寺に行くのではなく、いくつもの時代の仏像を並べて見られることで、時代ごとのトレンドの変遷がわかってありがたい。

写真のものは平安中期から後期の作とされる。同じ展示室内の撮影禁止であった鎌倉時代の四天王像と比べて、表情が穏やかである。鎌倉期に入ると、表情が激しく、よりエンターテインメント性が増した=ケレン味が増したような感じがある。

 

ヤコウガイ象嵌を施した鞍で、江戸期のものとされる。

漆塗に剥離が見られる。

精緻な手仕事で、鞍掛で見えなくなる部分にも装飾が施されている。

 

蒔絵文箱

これも江戸期のもの。蒔絵の装飾が金と銀の二色刷りとなっており、また引出しと枠の隙間、ズレなどもほとんどなく、精密で高品質なのがよくわかる。

 

山伏が修行時に、中に仏像を安置してこれを背負ったという。

頑丈にできているようだがそれゆえに重量もありそうにみえる。これを背負って、現代的な装備もなく、戸隠や熊野のナイフリッジのような馬の背を渡るのだから、安全性は全く担保されていない、命がけの修行とわかる。

 

小桜黄返威

平安末期の甲冑の昭和の復元品。

原品は12世紀のもののため、ちょうど保元・平治の乱から治承・寿永の大乱に到る動乱の時代のものらしい。

帷子をつなぐ紐を縅(威とも、おどし)という。この柄が、黄色地に小さい桜をかたどったもので、これをもって小桜黄返威(こざくらきがえしおどし)という。

平家物語など軍記物では、よく登場人物のまとった装束に言及し、人物描写のための小道具として用いられる。義経の甲冑はこれを真紅に染めた紅縅、義仲は萌黄色に白、深紫をあしらった唐綾縅をまとったとされる。

 

太刀 長船兼光

備前、相模、山城、大和、これに美濃を加えて、五つの名刀の生産拠点を五ヶ伝と呼ぶとのことである。

写真はその一角、備前長船の銘・兼光である。南北朝期の作とされる。

平安末期から南北朝期などの中世中期までは、騎兵は馬上での戦闘が中心であったとされる。

太刀は馬上からの斬撃を念頭に作られるもののため、刀より刀身が長い。

太刀は鞘に入れ、刃を下に向けて帯で吊るす。これを太刀を佩く(はく)という。

後世の中世末期から織豊政権期には、太刀より短い「刀」が主流となる。刀は、歩兵戦闘で敵のとどめを刺す(首級を切り取る、あるいは携帯品を略奪する)ため、他には槍が折れた際の予備の武器としての使用が主だったようである。

刀は、予備的武装のため、刃を上に向けて鞘に入れて腰帯に「差して」持つ。

少数兵力による馬上戦闘から、大規模兵力による歩兵戦闘に移っていく中で生じた変化である。

 

アイヌの装束

江戸期以降のアイヌ琉球の装束や生活用品もある。

樺太ウィルタチョウザメ皮の巾着

ここら辺の展示はかなり駆け足で、日本列島の北方南方の自然環境及び文化の多様性、それを勘案した歴史理解というには惜しい。

東京国立博物館本館

本館の展示を見るにつけ、東京という都市の、もはや江戸を継承する都市というよりも、大日本帝国の帝都であった都市としての側面を強く印象付けられる。

仏像彫刻なども、寄託品ではない収蔵品は、明治政変(よく言えば明治新政)の後の少数派の勝利者たちが、暴力的あるいは非暴力的に日本国内外から収奪したようなきらいがある。

山県、伊藤、大久保などの名も解説文の中にちらほらみられる。

こうしたストーリー、その博物館がなぜそれを収蔵し、陳列しているのか、という経緯をどう扱い、どう見せるのか。

これは、博物館の自己認識の問題でもあり、さらにはその博物館が存在する都市の性質をどう捉えるかに関するものでもある。

展示された客体を鑑賞させるにとどまらず、展示する主体である博物館が、その客体にいかに関与し、来場者にどのような文脈を見せるのか、という点は大事であろう。

展示物という単なる客体と鑑賞者の対話だけであれば、展示物は博物館における展示に到る経緯という文脈から切り離され、一個独立のものとして存在するに過ぎない。しかし、展示されているからには展示者の存在とその意図が働いているわけである。

なぜそこにそのものが収蔵され展示されるのかという、展示者、展示物、鑑賞者の三者の対話がなされることが、現代的な博物館の意義といえるのではないか。

展示者側の自己認識、自己規定は、唯一でなくともよいだろう。一人の展示者=博物館の中にも、様々な側面と性質がある。その一つに、かつての帝国主義の遺物としての19世紀的な博物陳列というものもあろう。同時に、それに対する批判的認識もあろう。

こうしたものをより前面に押し出して、博物館自身が自らをどう認識し、それの基づいていかに展示するのか、というストーリーを、より分かりやすく、詳しく見せるべきであろう。

それはすなわち、歴史全体を、博物館が置かれた都市自体を、どのように捉えるのかという、より高次元の問いに応じることである。

本館出口から見る上野公園、東京の遠景、曇り