手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

APS-C vs マイクロフォーサーズ

今回はNikonAPS-C、D7500とOlympusの比較。

D7500

今回は画角がきれいにそろってはいないが、同じ被写体の撮影ではある。

E-M5 Mark III

まず、比較してどうというより、やはりE-M5の方は、露出をオーバー気味にして撮ったものを暗くする編集をした方が相性が良いようだ。

というか、露出オーバー気味で撮っても、白飛びに見える部分にきちんとデータが残っている。

続いて、両者の比較としては、雲の質感が克明なのは後者の方だ。

Lightroomでは、「テクスチャ―」「明瞭度」「かすみ除去」ともにほぼ同じくらいの強さであてている。

昨日知ったけど、パーマ「あてる」とかアイロン「あてる」って、関西弁なのね。共通語では「かける」というそうで。であればここも「かける」か?まぁ言い直すつもりもないけど。

話を戻すと、同じパラメーターでも、マイクロフォーサーズの方がより効果が出やすい=耐性が低いということではある。しかし、簡単にザラっとした質感を出せるともいえるので、これはこれで「特性」として使える。

D7500

今日は雨上がりで非常に霞んでいる一日なので、羊蹄山もこんな感じだ。

しかし、ズームレンズといえども、しっかり雲の質感が解像する。

APS-Cでも、白飛び耐性は相当強い。安心して使える。

E-M5 Mark III

こちらも、明るめに撮っても、雲の質感などしっかり粘ってくれる。

APS-Cに比べると、かすみ除去等の体制が弱いので、デリケートではあるが(効果を当てすぎるとノイズがひどくなる)。

リコリス・リコイル最終話直前、ニワカ哲学的中間評(絶賛大ネタバレ注意)

 

ここまで一作品について、いちいち何度もしつこく記事を書くのも珍しい。

それほどの奥行きと広がりを持った、かつバランスの取れた傑作となる可能性が高い。

完全オリジナル作品ということで、結末は制作者以外知らないが、おそらくハッピーエンドになると思われる。

総合スコアリングはその後にするとして、今回は登場人物の在り様、人物や設定についてのメモである。

 

1.「反逆者」真島と「抵抗者」千束

千束と真島

1)真島という人物

12話までの話の中で、テロリスト真島は、新電波塔「延空木」を占拠しつつ、自らが入手した1000丁の銃を東京都内にバラ撒く。犯罪を未然に闇に葬る秘密組織DAのエージェント、リコリスの存在を白日の下に晒す。

彼は、そうした超法規的かつパターナリステックな権力者への反攻を呼びかけるのではなく、ただただバラ撒かれた銃を手にした人にリコリスが何をするのか、手にした各人がリコリスにいかに対峙するのかを、皆にゆだね、傍観する。

誰かの傲慢なパターナリズムの下に恥部を隠された平和を否定したうえで、自らの力で切り開く未来か否か、それ自体を人々にゆだねようとする。

ニーチェの「超人」のような人間のみが生き残る、ある種のアナーキズムを志向しているかの如くである。

そうした意味で、既存秩序の破壊を志向し、それに同調するか否かも、強い自我を持つべき各人にゆだねるという、「自己決定と自律」という意味での自由の極北を愛するのが彼の立ち位置なのであろう。

そう、彼が立つのは善悪の「彼岸」なのである。

本作品のタイトル「跳ねっ返りの彼岸花」と、意味がかかっているのだろうか?

ここでは彼を、反逆者と呼びたい。

反逆者・真島

 

2)千束という人物

千束は違う。

彼女は、先天性の心臓疾患を、未来の才能を支援する財団である「アラン機関」から供与された特殊な人工心臓への置換手術によって克服した。しかしその「与えられた」命には対価があった。彼女はアラン機関から天才的な殺しの才能を見出されたからこそ支援されたのであり、DA史上最強のリコリスとして、悪人(※DAにとっての)の抹殺をすることが求められていた。

しかし、育ての親でありDAの指揮官でもあったミカ、お姉さん格のミズキたちに大切に育てられ、「人のために役に立つ」人間でありたいと望むように成長した彼女は、不殺生を貫く異端のリコリスとして生きてきた。だからこそ、殺しのライセンスを持つエージェントにもかかわらず、日本語学校の助っ人講師をやったり、やくざのおっさんの面倒を見たり、迷いネコを探したりと便利屋家業に勤しんでもいたのである。

不殺を貫く彼女に業を煮やした、彼女への心臓置換手術を行ったアラン機関の一味、吉松は、彼女の人工心臓の電源供給をダウンさせ余命を2か月としたうえで、「リコリスとして悪人を殺せ」と迫る。

ラスボス?吉松シンジ

12話で千束は、スペアの人工心臓を自らに移植した(と主張する)吉松に「このスペアを使って生き残りたければ私を殺せ」と、悪魔の取引を迫られる。

人を殺すことを絶対的に拒む千束は、自らの命と引き換えにしてでも、心臓手術の恩人・吉松が生きることを願う。

とここまでは、なかなか残酷なストーリーである。果たして最終話でどう決着をつけるのか。

それはさておき、ここまでの千束を見てわかるのは、彼女は天真爛漫な存在ではあるが、決して従順ではないことだ。自らに課せられた使命や運命に、自らの命を懸けてでも逆らい、「やりたいこと、最優先」(第四話)で、自らの信じた道を歩む。

アラン機関は、人間には神に与えられた役割があり、機関が支援する「天才」たちは、それを行使する義務=ミッション(神との契約上の使命)がある、と説く。

しかし、彼女はそれに逆らい、真島風に言えばその「才能を枯らして」人助けに勤しむ。

自らの命は自らが決めたように使う。人工心臓を得たとはいえ、吉松の細工がなくとも余命は20歳まで持つか、という限られた時間を生きてきた彼女は、この哲学に基づき生きてきた。

彼女の在り様は、非常に実存主義的である。そう、サルトルの主張したあれだ。

第9話、心臓の電源供給を破壊された後で、それぞれの道を歩むことを誓う千束とたきな。問いかけたたきなに、千束は言う。

たきな:「世の中は理不尽なことばかりです…そうは思いませんか?」

千束:「自分でどうにもならないことに悩んでもしょうがない!

    受け入れて~全力っ!

    だいたいそれでいいことが起こるんだ」

千束とたきな

千束の言葉は、決して状況を受け入れ諦めた者の言葉ではない。状況に屈して駒にされた人間の、都合のいい言い訳でもない。

力の限り自らの在り様を貫こうとする者の言葉である。

ここに、超人というものを克服した、実存としての自分を生きる人の姿がある*1

社会をひっくり返すことをいとわない真島と、社会がどうなろうと、人がいかに自分を傷つけようと、決して自らの存在を曲げない千束。

真島を「反逆者」とするならば、ヒロイン・千束はまさに、押し潰そうとする力をいなし、身を翻し、つまり銃の撃発にリコイルする遊底のようにしなやかに己の在り様を貫徹する「抵抗者」である。

こうした、幾分哲学的説明すらも可能なほどの奥行きのあるヒロイズム、その対照性が、この物語の最大の魅力だ。

 

2.千束とたきな

監督の足立氏は、この二人の人間に、かつて氏が関わった大作「ソードアート・オンライン アリシゼーション」のキリトとユージンを重ねる瞬間もあったのではないだろうか?

sao-alicization.net

互いに手を取り合う陽と陰の二人の主人公。日の光のような一人に導かれて変わり成長していくもう一人。

本作のOP曲Claris"ALIVE"は千束を主題にした歌詞で、ED曲さユり「花の塔」はたきなを主題にしたものであることは、よくわかる。

これは、ちょうどアリシゼーション第一期の楽曲構成において、OP曲LiSA"ADAMAS"がキリトを、ED曲Eir「アイリス」がキリトに感化されて変化してゆくユージンを表しているのに相似する。

足立監督は、映画マニアとして多くの作劇場のヒロイズムに触れてきたと思われる。こうしたバディモノでかつ成長譚でもある「いいとこどり」の物語に、先行作品の血も通っているかと思うと、感慨深いものがある。

 

3.最終話・千束たちの勝利条件

以上から、最終話における千束の勝利条件は二つである。

一つ目は、自らの生き様=不殺生と人助けを貫くこと。

二つ目は、上記を達したうえで生き残ること。

YouTubeなどで、熱心なファナティックたちの考察により、吉松の「自分の胸に人工心臓を埋め込んだ」というのは、千束に人殺しを迫るための方便で、本当はアタッシェケース人工心臓を画しているのでは、と言われている。

あとは、たきな、チームリコリコ、真島、DA、それぞれがどう絡んで、どのように吉松から人工心臓を「手渡させるか」だろう。

ポイントは、吉松から心臓を奪い取るのではなく、彼の意志で供出させることができるかだと予想している(予想を裏切る展開が続いているので、思いっきり外れるかも知らんが)。

真摯で懸命な跳ねっ返り娘たちに、良い展望が開けてくれるといいが。

 

※※以上、最終話視聴前の期待と予測は、それを上回る形で裏切られた。

全話終了後の詳細な評価検討は、以下記事において行った。

 

maitreyakaruna.hatenablog.com

 

maitreyakaruna.hatenablog.com

 

 

*1:サルトルニーチェを継承し、ニーチェを克服した、と評される哲学者でもある

 

 

マイクロフォーサーズvsフルサイズ 比較(Olympus v.s. Nikon)

 

わざわざ出張などの用事で遠方に出るだけなのににフルサイズ(1.4kg)を持っていかなけれならない(訳ではないのだが)のに疲れ果てたので、行楽以外での外出用のマイクロフォーサーズを買ってしまった。

 

Olympus OM-D E-M5 Mark III

 

センサーサイズの小ささからボディもレンズも等比級数的にコンパクト化する優れたシステム、「マイクロフォーサーズ」OM-D E-M5 Mark IIIとニコンの「フルサイズ」Z6のセンサー性能比較をしてみた。

※レンズ性能比較ではない。

 

1.RAWを無調整のままJPEG変換したものの比較

Olympus: 35mm, ss 1/250, F/10.0, ISO 200

Nikon: 70mm, ss 1/250, F/10.0, ISO 100

ISO感度以外はすべて同じ条件にした。

ISO感度はMFTが200に対してフルサイズは100と、倍半分の差である。

しかし、それぞれのカメラの露出計はEV+0.3と、ほぼ同じ値を示していた。

マイクロフォーサーズ(MFT)のセンサーはフルサイズのほぼ半分である。

よって、センサーに当たる光の量はフルサイズの半分になる。

よって、フルサイズのセンサー感度(ISO)と同等の露出にするには、MFTの場合ISO200(フルサイズの2倍=EV1段分の感度増大)をさせることとなる。理屈上は。

しかし実際にとってみると、MFTの方が明るく撮れているように見える。

カメラ内露出計の値に頼ったことで、メーカーごとの露出基準の差が顕在化したのだろう。

また、Olympusの方は高輝度側階調優先設定のため、RAWデータでありながら、撮影した後で自動的に露出を引き上げる(ISO感度をデータ処理で引き上げる)処理をしているともいわれる。

こうしたデジタルデバイスとしてのデータ処理によって、理論上の露光量を同等にしても、かなり明るさに違いが出ることが分かった。

次の二枚は、最初に挙げたOlympusの写真と、Z6で撮った写真をLightroom CCでEV+0.98≒1.0引き上げた写真である。

1枚目のOlympus

Z6で撮影した写真をEV+0.98引き上げ

かなり近い露出になったように見える。今度は、少し後者の方が明るい。

Olympusは、RAWデータをカメラ内で自動的にEV+0.5~+0.7引き上げているようだ。

 

拡大してみるとわかるが、フルサイズの方は、たとえ暗く撮ったものでも、黒い岩陰の部分がつぶれずに、きちんと岩肌の質感が記録されている。ダイナミックレンジが大きい、ということである。

この点、MFTは少し潰れている感がある。(これはレンズ性能の差もあるかもしれないが)

 

また、MFTの方がノイズが乗っているのもわかる。もともと、Z6に搭載されるSONYのセンサーはノイズが非常に少なく、フルサイズ=低ノイズセンサーというもともとのセンサー特性以上にきめが細かい。

他方、MFTはセンサーサーズがフルサイズの半分であり、ノイズの乗り方は感覚的に2倍といわれる。つまり、MFTのISO200はフルサイズのISO400相当である。加えて、Olympusは同じMFT勢でもLUMIXよりハイノイズであるといわれていて、これは先述のEVを引き上げるメーカー特性も関係している。Olympus特有の事情によってさらにEV+0.5とされるのであれば、概ねフルサイズのISO600前後と同等といえる。

ノイズ自体は、必ずしも悪いとは思わない。

繊細美麗をコンセプトにする写真ならばノイズは邪魔にもなろうが、スナップなどであればむしろ味わいにもなる。

 

2.MFTで複数の露出で撮った写真同士の比較

では、Olympus露出オーバーで撮ってハイライト補正をかけるべきか、露出アンダーで撮ってシャドウ補正をかけるべきか?

35mm, SS1/400, F/10.0, ISO200

35mm, SS1/160, F/10.0, ISO200

上の2枚は、異なるシャッタースピードで撮った写真を、Lightroom CCで、ヒストグラムがだいたい同じになるように補正した2枚である。

前者は暗く撮って明るく補正したもので、後者は明るく撮って暗く補正したものである。

ほぼ違いはないのだは、こころもち、後者=明るく撮って暗く補正したほうの方がノイズが少ない。

前者は、暗く撮った後で、カメラ内で自動的に明るく補正をかける(=ここでノイズが乗る)処理がされ、それをさらにLightroomで明るくしているから、二重にノイズが乗る。後者はカメラ内処理でノイズが乗るが、Lightroomの処理ではノイズを載せていないため、少し、本当にほんの少しだが、ノイズがましになる。

OlympusのMFTは、明るめにとって暗めに補正するのが、今のところの使い方の方針である。

 

3.MFTとフルサイズの色味等の違い

 

Olympus: 30mm, SS 1/100, f/9.0, ISO 200

NIKON: 49mm, SS 1/100, f/9.0, ISO 100

ホワイトバランスはオートのため、各メーカーのホワイトバランス設定がもろに出ている。

ニコンはクールな青と赤強めに、オリンパスは緑強めに出ているように見える。露出も3分の2段近く違うため一概には言えないが。

概して、フルサイズの方が階調が豊かでしっとりしたカラー表現になっているように見える。また、画角が一致していないため誤差はあるが、フルサイズの方が相対的に後景のボケが大きい。これはフルサイズの大きいレンズの特徴である。

 

4.その他MFTの特徴

Olympus

曇っていて霞も出ていたが、その霞をきちんと解像させる力のあるセンサーとレンズである。

Olympusの12-45mm F4.0のレンズは歪曲なども少なくきちんと移る良いレンズだと思う。(尤もNIKKOR Zレンズがバケモノ級に高性能なので、これと比較するとやや劣るが)。

Olympus

MFTの特徴として、フルサイズに比べてダイナミックレンジが狭い分、コントラストが強くなる。陰影の強い写真を撮るならば、MFTはむしろ得意分野といえる。

Olympus

微妙な陰影も、きちんと写し取っている。

SS 1/15

また、MFTの特徴として、とにかく手振れ補正が強い、というものがある。特にOlympusは手振れ補正が強力なことで知られており、E-M5 Mark IIIは手振れ補正機能では上から2-3番目のはずだが、十分に強力である。

 

いろいろと試し撮りをしてみて、MFTの強み・弱みと同時に、翻ってフルサイズの長所短所も整理しなおすことができた。

次に機会があれば、APS-CのD7500の比較検証もしていきたい。

 

姫路城

で、姫路城についた。

姫路城

重い曇天で、行楽日和とは全く言えなかった。

曇りの日の場合、全体に陰影がなくなるので影を強調した絵作りはできないので、光の方向を意識せずに形状だけを映すような写真になりがちだ。またカラーの画にしても、陰影がなく色が単調で面白くないので、モノクロにするのもありだ。

モノクロにして、シャープネスをギチギチ強めにしていくと、石垣、瓦、漆喰などハードな素材が多い城は被写体としてマッチする。

定石通り、姫路城西の丸の三十間櫓から入っていくが、中に展示パネルが置かれている。昔こんなものあったっけか?

三の丸、堀

羽柴が居城としていた時期から、池田輝政が現在の城郭に大改修し、江戸期に親藩・譜代が入れ替わった流れなども解説されていた。

池田時代ですら、輝政直営の与えられた領土は、50万石クラスだったそうだ。その封土でこの大城郭は、やややりすぎの感がなくもない。池田氏は、もとは織田家臣団であった。しかし山崎の合戦後は秀吉と緊密な関係を保って豊臣政権期に豊臣氏に次ぐ家格、直参で最高の厚遇を得て、さらに徳川とも姻戚を通じて密接な関係を築き、外様でもトップクラスの封土を得ていた。

つまり池田は、もともと織田家臣団のため、秀吉よりは上の家格、家康とは別の家門の人間であった。しかも秀吉・家康からすれば、織田の全国征服戦争の最中で軍門に降った、本当の意味での「外様」ともいえないでもある「身内」でもある。こうした絶妙な立ち位置のうえに、外様の毛利や上杉、秀吉子飼いの福島などのように出過ぎず、細川などよろしく機を見るに敏に徹したことが、動乱期を生き長らえた所以と思われる。

なお、大坂の陣が発生したのは、豊臣と徳川双方の与力に対して抑えが利き、相応の軍事力を持っていた姫路の輝政が死去したことが、きっかけの一つともいわれている。バランサーとしての存在感は大きかったのであろう。

池田は、大城郭の編成とともに高砂川の河川改修など、多くの開発事業も行っている。

二の丸から

戦国期には、農村の端境期の口減らしなどとして、都市に浮浪者が流入し、それらが兵として戦場に駆り出されていた。

戦場は失業者達を吸収し、死ぬものはその分口が減り、侵略戦争を仕掛ければ隣国の食料を略奪、糊口をしのげた。戦争は、もはやシステムとして社会の人口の調整弁と化していた。こうした戦乱の時代の、戦争に代わる雇用対策として登場したのが、城郭を始めとした都市建設事業だ。信長を経て秀吉の時代に、ますます大規模化していった。

おそらく池田の築城、河川改修などの工事は、こうした領内の経済振興としての役割も大きかったものとみられる。

二の丸からその2

しかし、大阪の陣の後輝政の長男利隆が没すると、三代目光政は要衝を理由に鳥取に減俸=左遷される。その後、姫路領主は譜代と親藩が続く。要衝を理由に左遷というのも、額面通りに取れば理不尽な話である。関ヶ原大坂の陣の二度のゲームチェンジを経て、徳川の専制政治が成立したが故の強権の発動とも見える。その後、池田家は岡山池田家、鳥取池田家の二藩各35万石で推移する。

譜代や親藩の大名は、大企業の転勤族のように頻繁に転封される。さらに、福山藩の歴代藩主が有名だが、幕政や江戸での権力闘争にばかり血道を上げ、藩領経営はずさんにするか、苛政を敷いて領民の反発を招くかがパターンである。三河吉田藩などもそうした時期があったようだ。

姫路藩も例に漏れず、官僚的な親藩・譜代の凡庸あるいは過酷な治世が短からず続いたようである。

天守閣2階

本丸直下

本丸から西の丸化粧櫓を望む

姫路の藩領は、その後15万石クラスのまま推移する。親藩・譜代としては大藩、である。親藩では特殊な地位にあった福井や会津がおおよそ20-25万石で最大クラスであったことを考えると、小さくはない。しかし、わずか15万石の藩領と、姫路の港の通行税などので大城郭を維持するのは相当な負担であったと思われる。明治期には傾いていたとも聞く。

姫路城夜景

 

姫路出張

8月24日から26日まで富良野に出張し、8月31日から9月2日まで京都に出張をし、北海道に帰り、翌週9月7日から再び大阪→京都→姫路出張である。

全く「基地外」の沙汰である。

 

姫路にはある団体の全国研修会の講師として行った。

他の多くの参加者は、「前乗り」したりして日程に余裕があるにもかかわらず、姫路城に行かない人が多かったようだ。

全く持ってもったいない。

私はもちろん行った。というか、姫路城に行くのがメインの目的で、講演はついでである(コラ

姫路市、そして姫路城に行くのは、これで5回目。内天守登閣(天守閣に登ることをこういう。専門用語である。また一つ教養を披露してしまった)は3回目である。

姫路駅につき、冴えないホテルに荷物を置いて城に直行した。

 

 

1.駅前通

天守に登った2回の来訪は、もう20年以上前である。

1回目、2回目ともに電車で行って、駅から姫路城まで歩いたはずだ。

当時の記憶は姫路城内のもの以外ほぼないが、駅前が驚くほどきれいに整備されていた。

4・5年前に2度車で姫路まで行った(確か2016年くらいの秋と、その翌年開けて晩冬)が、その際には駅前をほとんど通らなかったので気づかなかった。

姫路駅から大通り

歩道はすべて石畳、広場や芝生のコモンスペースなどが豊富で、休日には地元のバンドの演奏など催されている。

駅前通りの歩道

草花も植えられ、きちんと世話がされている。

かなり費用が掛かるはずだが、無論姫路市が負担しているのだろう。

歩道

歩道の真ん中に、歩道に面したカフェ等のオープン席が置かれている。

市が、オープンスペースへの客席の設置を公認しているようだ。

ふつうはやれ看板をはみ出さ砂などとどうでもいい注意をするものだが、ここでは店舗と町が一体となって街づくりをしているのだろうか。

レトロな商店街

一方で、大通りから東西に幾筋も、さらに大通りと並行して幾筋も、アーケード商店街が続く。

商店街の中には山陽百貨店ヤマトヤシキ、駅直結のピオーレなどの複合商業ビル、ジャンカラジュンク堂などの全国チェーンの店舗も多く入っているが、写真スタジオやクラッシックなカフェなどバラエティに富む。

駅前のピオーレなどには立体駐車場があり、また姫路城近くにも公共駐車場があるなど、車社会に適応した駅前商業地区が形成されているのがわかる。

 

2.街くらべ

生活の場としては滋賀県、愛知県や石川県などしか比較対象を知らないが、これらの地域と比べて、駅前商業地区に活気があり「機能している」のが印象的だった。

私が大学生になるまで住んでいた豊橋市や、その周辺の豊川市豊田市岡崎市などは、2000年代初めころには、全て郊外のロードサイドストア中心の街に変貌していた。

これは、1990年代に、それまで小規模零細小売店を守ってきた「大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律大店法)」が大幅改正、規制緩和されて、大型ショッピングセンターの呼応外への誘致が進んだことで生じた。さらに2000年には法例自体が「大型小売店舗立地法」という新法にリニューアルされ、一層の規制緩和が進んだ。

戦後直後の経済の混乱、復員兵の失業などのなかで、元手が少なくても始められる小売業は爆発的に増えたが、玉石混交だった。

こうした事業者が昭和末期にもまだ数多く残り、自民党支持母体でもあったため規制が続いたが、90年代に入ってこうした「聖域」にも徐々にメスが入れられていったらしい。

https://youtu.be/hOwdFcq7fns?si=O5RPKAgqV5Bslhc6

いつも素晴らしいか解説をしてくれるカカチャンネルさんの該当動画を貼っておく。

そんなわけで、愛知県は言わずもがな、滋賀県とて状況は同じであった。駅前は駅以外ない、つまり駅「前」は無。な官寺の街が多く、せいぜいJR草津駅前が比較的マシなレベルである。思い返せば、JR草津駅前が栄えているのも、駅東側の近鉄百貨店(近鉄通ってもないのに地元の人気店という謎勢力図)の立体駐車場、駅西側=琵琶湖側のA-Squareの駅前にしては非常識な広大さの平面駐車場があったおかげともいえる。商業的中心地は、イオンモール草津フォレオ里山、そして鳴り物入りで完成後に華々しく爆散して賜った「明るい廃墟」の汚名を見事返上した「ピエリ守山」などに移った。

ちなみに金沢市は駅前から香林坊、片町、竪町までの市街地に商業施設等が集中しているが、これは大型店舗の建設を市の条例で規制してきたという特殊事情がある。

これに対して、大阪より西の地域、中国四国地方は、駅前商業地区の活気がいまだに衰えないように見える。

広島や岡山などの政令指定都市は人口規模も、周辺に抱える衛星都市も規模が大きいため除外する。姫路くらいの、人口35万から50万のいわゆる中核市クラスで、姫路以外にも、旅先で印象に残るのは福山市高松市松山市などだ。

いずれも駅前商業地区が消費経済の中心であり、商店街などもシャッター外にならずに残っている。

高松市の丸亀商店街などは、アーケード商店街の店舗所有者たち全員を説得して、商店街一帯を大型の区分建物(分譲のオフィスや住居の複合施設)に再開発して、元の店舗オーナーに各区分建物所有権を与えるという形をとったらしい。ここは、商店街でありながら現代のアウトレットモールのような作りで、賑わいのある商店街だ。商店街再開発の一つの理想形として全国でも注目された方式らしい。

愛知県や滋賀県、さらにはおそらく静岡県やその東もそうなのだろうが、ロードサイドが駅前から消費経済の比重を吸引しているように見える。一方、西日本では古くからの商店街中心の商業地区がいまだに存在感を持っている。

この差が何に起因するのかは容易にはわかりえないが、愛知・滋賀や関東の郊外型・衛星都市(千葉や埼玉)などに共通するのは、人口が増えている点だ。

西日本はもともと経済的基盤は強固ではあったが、人口は減少している。このことと関連があるかもしれない。

3.おまけ

ベーカリー灯(ランプ)

数年前に姫路に行った際に見つけた地元の人気のパン屋、ランプで名物のハンバーガーを昼食に買った。

リコリス・リコイル第10話まで中間評~「真島」に見るリコリコの社会派的側面について~

第4話くらいで中間評を入れたが、本作、やはりすごい。

近年稀に見る傑作だ。

 

非常に重層的、多面的な魅力を持つ作品だが、ここでは本作品の社会は作品としての側面と、キャラクターの持つヒロイズムの点に注目していきたい。

今までの作品評では、作中のテーマを表す寓意的表現*1に注目して読み解こうとしてきた。本作でもそうしたいところだが、なにぶん情報の奔流のような作品で、かつ他に講ずべき魅力が多すぎるため、こうした「落ち着いて」見るべき論点は後に措く。

 

1.社会派の作品として

世界的名作であるゲーム、メタルギアソリッドの監督である小島秀夫氏が本作品にはまっているというのが、ツイッターなどで話題になった。

かねてから硬派な作風、社会的・政治的な発信も多い氏が惹かれたというのもわかる気がする。

この作品は、以前も述べたように、深夜帯オリジナルアニメーションの骨法に従って、なかなかに社会派の、羊の皮を被った狼よろしく硬派な作品だ。

第一話の、千束の自宅のシーンの後に続くのが、テロリストや暴力犯罪者たちを人知れず闇から闇に葬っていく「リコリス」たちの暗躍だ。

彼女たち(あるいは男性版リコリスである「リリベル」たち)の私刑的即決処分のおかげで、社会は偽りの平和を保っている。

犯罪を未然に防ぐ、というより未然に闇に葬る、リコリスたち

これはちょうど、10年前の傑作オリジナルアニメ"PSYCHO-PASS"の、ドミネーターという「考える銃」を使って、精神的に犯罪性向のある人間を未然に処分していくシステムと似ている。ユートピアに見えるディストピア、SFの鉄板の一つでもある。

作中で千束がたきなに語る「事件は事故になるし、悲劇は美談になる」偽りの世界が、彼らが生きる日本社会だ*2

そうした社会の欺瞞を暴き、独善と強権で社会を偽ろうとするDAやアラン機関の存在を白日の下に晒そうとするのが、千束とたきなが対峙する敵、歴戦のテロリストにして「戦争屋」の真島だ。

千束と真島は差し向かいで語り合う

そして最新話である10話に至って、真島は新しいテレビ塔の電波をジャックして、全ての人に語り掛ける。

愚民どもに語りかける真島

「他の国がテロやら戦争やらでドンパチやってるのにこの国だけは平和そのもの。気持ち悪いくらいにな」

民度の高い国民だから?日本人ってすごーい!ってか?」

「ハッ。取り柄のない奴に限ってカテゴリに誇りを持ちやがる。テロは何度も起こっているのさ。隠蔽されてしまうだけだ」

「虚偽と誇張にまみれた平和の押し売り、汚点には蓋をしてしまう」

「この国にはそんな薄汚い平和に執着する連中がいるんだよ。俺はそれが気にくわない」

 

無粋な話をしているのはわかっている。

ある物語作品を語るのに、それの現実社会に対して持つメッセージ性などにフォーカスするなど・・・

しかし、真島がその真骨頂を表したこの10話を見るにつけて、私は制作者たちが持つであろう社会に対する対峙の仕方、世の中の捉え方に強く反応してしまった。

上の真島のセリフとして語られたメッセージは、ある者が読めば戦後日本の偽りのごとき平和を指すと読むかもしれないし、別の者が読めば都合の悪いことをひた隠しにする現在の(そしてつい先日鬼籍に入ったとある)為政者たちを思い浮かべるかもしれない(私は後者だ)。

この作品は「偽りと真」を、いくつもある物語の支柱の一つとしていて、それの中心を担うのが、この真島という男であろう。

こうしたテーマ性を持つに至ったのは、トランピズムのようなフェイクニュースによる扇動で米国連邦議会が略奪され、ゴミが大量に地中から見つかったことにして大幅に値引きした土地を売買した森友学園問題をなかったことにしたり、検察の公訴権すらも恣意的に歪めようとしたりして、「丁寧に説明する」という何の説明にもならない言葉を吐いてごり押ししたうえ臭いものに無理矢理蓋をしたことにすることがまかり通ってきた世情と、まったく無関係とはいえないだろう。

さらに言えば、これまでのアニメ制作者の、微温的とはいえ有してきた思想傾向の現在地を見るようでもあって、興味深い。すなわち、「ヒューマニスト手塚治虫環境主義者・宮崎駿を経て、エヴァンゲリオン庵野秀明攻殻機動隊士郎正宗以降、表面的なレベルに過ぎないがやや右傾化の見られたマンガ・アニメ制作者のメッセージ傾向は、デスノートなど左右対立と無関係な暴力革命志向に行きつつ「進撃の巨人」などのように一言で語りえぬほどに多様化し、方向感覚を失ってきた。

「進撃」は別格だったかもしれないが、基本的には社会的メッセージ性には背を向けてきたように思う。社会という中間レイヤーをすっ飛ばした「個人対個人」が世界の命運を決してしまう「セカイ系」や、世界を右でも左でもなく「壊すか壊さないか」で分類する「決断主義」などは、全て社会のあるべき姿を語ることを避けてきたように思う。そうした意味では、「コードギアス」もセカイ系決断主義への一種の超克を試みてはいるように思うが、目指す社会の在り方は「人は未来をこそ希う(こいねがう)」という極めて牧歌的なものであった。制作者なりの普遍的に受け入れられる社会のビジョンを、より具体的に語ることはなかった。

しかしここにきて、本作は権力の恣意性や独善性に対する嫌悪を表明している。これは本来極めて正常な感覚であるにも関わらず、昨今の日本においてはそれを主張することすなわち「左翼」であるかの如き歪んだ言論が「正常」であるかのような位置に居座ってきたように思われる。

本作品で驚いたのは、近年の唾棄すべき愚劣なネット右翼が見たならば「左翼の妄言」ということになるであろう、権力の欺瞞・偽善の告発と掣肘という国際的に見れば現代社会の「センター」にあるべき感覚を、賞味期限切れの左派の軽薄な「ヒューマニズム」など行きがけの駄賃よろしく蹴とばしつつ、暴力によって求めるという形での表明を見たからである。

まさに第10話のサブタイトル"Repay evil with evil" (毒を以て毒を制す)である。

ここまで清々しく、権力の掣肘というものを表明した作品が近年あっただろうか?

真島は、あるいは「コードギアス」など10年以上前の作品が担った「決断主義」残滓なのか?

続きは改めよう。

*1:エイティシックスであれば、「声」の力と「視角情報」の信頼性のなさ、など

*2:ウソのために声をかき消され、左遷されたのがヒロインの一人、たきなである。

神戸空港

 

1.写真

神戸飛行場空港に数年ぶりに行った。

北海道に帰国するためである。

三ノ宮から20分で着く便利のいい空港で、さらにエントランス即手荷物検査場というコンパクトさである。

富山空港といい勝負である。

このどこにも行く余地のなさが、千歳・羽田・伊丹の大きさに辟易してきた私にはありがたい。

滑走路の先の大阪湾を望む

大阪湾側、南の方面は快晴で、遠く見える山並みは、おそらく生駒山系、金剛山、さらには和歌山にかけての各地だ。

山麓は、吉野から泉州に到る地域、小栗街道などそれぞれ多くの歴史を持つ。

紀淡海峡を望む

持参したレンズが24-70mmの標準ズームのため、最大望遠でも70mmである。

それでも何とか、紀淡海峡をおさめることができた。

地平線上、右手にいえる陸地が淡路島(おそらく洲本近辺)、左手のそれが和歌山の加太である。

夏空の下の紀淡海峡、北海道に住んでいるとそそられる。

そして、写真を拡大していくと何とか判別できるのだが、淡路と加太の間に小島が浮かんでいるのもわかる。

そう、友ヶ島だ。

現在放映中のアニメ「サマータイムレンダ」の聖地だ。

夏場は、内陸は暑いが海沿いはそれほどでもない。事実、先日夏の最中に東京出張した際も、宿泊した芝のあたりはそれほど暑くはなかった。風が吹くのもありがたい。昔住んでいた豊橋も、風の強い海沿いの街ゆえに、さほど酷暑を経験した記憶がない。

機会があれば、淡路や友ヶ島などにちょうどこの季節、まさにサマータイムレンダの物語が展開された7月22日から、訪れてみたい。酷暑というわけではないと期待して。

北東方向、六甲山系、摩耶山

雨上がりのような、コントラストの強い雲があった。

湿気が強かったのか、山肌に映る雲の影は薄かった。

 

北西方向、須磨方面

徐々に、高層にも薄雲がかかってきて、夏から秋に映っていく兆しが見られる。

 

2.カメラ

どうでもいいのだが、フルサイズを出張にもっていくのがつらくなってきた。

1.2キロくらいあるのだから、持っていく方がどうかしている。

では、カメラ持参をやめる方向に行くか。

そうはならない。

軽い高性能のカメラが欲しいという方向に動く、物欲の奴隷である。

OlympusE-P1は、さすがに手振れ補正が利かないのがつらい。

であれば、同じOlympusのコンパクト高性能・OM-D E-M5 Mark IIIなどか・・・。

レンズも24-90mm相当の画角であれば、悪くはないし。

うーん。。。