手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

本の寸評をやろうとしたら思考が捩れた

本の寸評

 

ゴールデンウィーク前後から、バタバタしていた身の回りの状況が沈静化し、多少は本を読もうと思えるような落ち着きを取り戻した。

と言って、いちいち詳細な書評をするほどの暇も能力もないので、備忘録的寸評を載せておく。

 

ゴールデンウィーク以降に読了したものは以下の通り。

 

1.「戦争と平和1」レフ・トルストイ著、望月哲男訳、光文社(古典新訳文庫)

2.「天皇の歴史5 天皇と天下人」藤井譲治著、講談社(学術文庫)

3.「ハリー・オーガスト 15回目の人生」クレア・ノース著、雨海弘美訳、角川文庫

4.「熱源」川越宗一著、文藝春秋

5.「現代日本外交史」宮城大蔵著、中公新書

 

一冊ずつ寸評を書こうと思ったが、書いているうちに戦争と平和だけで終わってしまった(汗

他は次回以降となる。次回があるかはわからないが。

 

 

1.戦争と平和の新訳

 

 

待望の新訳である。

月氏の翻訳によって、ようやく日本語という言語が、「トルストイ」という人類の遺産を手に入れたのかもしれない。

今まで、工藤精一郎版は一巻の途中で本を閉じ、藤沼貴版で一巻ようやく読み切ってそれ以上読む気がせずに放擲し、多少の期待を込めて開いた米川正夫版は本屋でパラパラと見て本棚に返した。

どれも逐語訳という古典的な訳法に忠実なのだろう。しかし、原作を文学的価値の高い日本語版に「改変」する、という作業としては不十分であったと思う。

私が楽しく読めないと思ったのがその証左である(オイ

要は読みにくくつまらず味気ないのである。

「苦行本を読みきった俺すげー」、とマゾヒスティックな満足感に浸り、読み切ったこと自体を自慢の種にしたい方は勝手にすればいい。

そんなことをやったところで、千日回峰行の何万分の一の徳すらも積めないであろうが。

 

望月訳は、絶賛されている新訳である。アマゾンのレビューを見て貰えばわかるが、これほど称賛しかされていない新訳も珍しいのではないか。

同じ光文社古典新訳文庫から出された同じロシア文学でも、400箇所以上の誤訳が指摘され、酷評以外された試しがない亀山郁夫ドストエフスキー「悪霊」とは大違いである。

(ちなみに悪霊「事件」は私の光文社古典新訳文庫シリーズへの信頼を失墜させるに十分すぎる破壊力であったが、今回の望月訳でその偏見は雪がれた)

 

だいたいどんな翻訳版も、学者崩れあるいは学者と思しき原典厨が腐しにくる(アニメ化された作品を腐しにくる原作漫画ファン、いわゆる「原作厨」と同じである)。

この新訳版にはそれがない。事実、めちゃくちゃ自然で、ものすごく読みやすい(小並感

 

藤沼版で指摘されていた象徴的な珍訳が、ある女性の風貌を表現する際の「上唇の産毛」である。

上唇に、産毛は生えない(苦笑

産毛が生えるのは通常、上唇と鼻の間の、すけべオヤジが伸ばす「鼻の下」という部分である。

望月版は、藤沼がのたうちまわってかあるいは特に考えなしにかで訳出したこの部分を、こともなげに、如才なくソツなく「鼻下の産毛」と訳した。

これでイイじゃん(笑

私は本作品の翻訳が良訳たるや否やの判断基準に、この一語を用いてきたが、今までになく素直な訳出である。

 

上記はほんの一例であるが、全体に文章を相当咀嚼し、わかりやすく読みやすくと心を砕いて、意訳などのひねりも適宜効かせながら書かれているのがわかる。

 

1巻の終盤にあるバグラチオンのロシア軍とミュラのフランス軍の戦闘(本作で初めての本格的戦闘シーン)は、非常に臨場感がある。

ニコライ・ロストフの狼狽も、アンドレイ・ボルコンスキイの鬱屈感も、手に取るように伝わる。硝煙が匂う中に敵軍の派手な色の軍服が見え、榴弾が眼前に炸裂するのではと言う緊迫感が横溢する。

これは、2巻以降も読んでいこうと思える作品である。

 

 

2.翻訳に関する議論

 

翻訳論や文学論には疎いが、翻訳文学は、原作者の創作という第一の創作と、翻訳者の翻訳という第二の創作の共同作業だと思う。これは比較的新しい時代の翻訳観なのだろう。古い時代の翻訳観は、原作が主で、翻訳は黒子。翻訳は原作を崩さないために逐語訳であるべき、という考え方になるのだろう。多分。

しかし、後者の古い考え方は、貫徹するのがどだい無理であることがすぐにわかる。文芸作品とは、「意味さえあっていれば良い」などというものではないからである。その意味をどのような文章で表現するか、韻律はどうか、その言語を操るものにとって心地が良いか、まで問われるべきはずからである。

そういった部分まで含めて翻訳が原作の良さを保つためには、やはり翻訳者のセンスが前に出てきて、第二の創作ともいうべき創意工夫が凝らされざるを得ない。

重ねていうが、私は翻訳や文学については基礎的知識がない、しかしその浅学を承知で言うならば、翻訳者の主体性を肯定する姿勢は、米文学の翻訳に取り組む村上春樹などの世代から、特に顕著なようである。

いわゆる逐語訳から、より自由な翻訳(その極端なものが「超訳」というやつであろう)への移行である。

それ以前の世代だろうが、ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」や「フィネガンズ・ウェイク」の天才的な翻訳を世に残した柳瀬尚紀なども有名である。

読みやすく、原作の持つ「雰囲気」を伝えられるように、文章を組み換え、意訳を積極的に用いる「非逐語訳」の傾向は、好ましいと思う。逐語訳でこそ原典の素晴らしさが伝わる、という考えより俄然謙虚ですらある。

 

翻訳者が自らの責任で、原典の本質的な「意味」を理解し解釈するからこそ、大胆な意訳などができるのである。それは創作者としての苦しみであろう。そういった苦心の末出来上がったものにこそ、翻訳された先の言語での生命が宿るのだと、読み手として強く感じる。

逐語訳とて大変な労力を要するものであろうが、さらにその上で、自ら責任を引き受けて、「本質的な意味」を原典から抽出し、それを壊さないように美しい日本語に仕立て上げる、と言う作業は想像を絶する難業である。

そういった言語に絶する努力をしてくれる翻訳者の方々がいるからこそ、我々の日本語は、多くの世界文学を、本当の意味で「我が言語のもの」とすることができるのであろう。

この新訳は、トルストイという遺産を、我々日本語話者にもたらしてくれたので有る。

 

 

3.翻訳観から見える言語観

 

古典的な考え方は、言語は置換可能なものであり、原典が持つ唯一の「意味」は逐語訳によってこそ保存される、というものなのかもしれない。しかし、言語は置き換え可能ではない。言語ごとに、世界の切り取り方は異なるのである。日本語では温かい水を「湯」と言うが、英語には一語で表す単語はなく、hot waterとなる。逆に日本語には厳格な複数形も、冠詞もない。これほどの違いがあって、一対一置き換え型の逐語訳など、できると考える方がどうかしている。

「言語の普遍性」という近代的な考え方と、それへの疑義というポストモダン的な考え方の相克が底流にあるように思う。

言語が、形而上にある「唯一の意味」(プラトンの言うイデア)を表す、単語は違えども互いに100%置き換え可能な表現の体系である、と考えるのであれば、近代的な翻訳が志向されよう。逐語訳することこそが忠実な訳、ということになる。

しかし、言語表現は常に解釈の余地があり、唯一の意味を常に表すことは不可能であると言う考え方(モダニズムに対する反省でもある)からは、「忠実な翻訳」のためにより高度なアプローチが求められることになる。翻訳者なりに可能な限り原作者に寄り添う努力をした上で、その意味をできるだけ保ったままより良い表現を見つけ出すことである。翻訳者自身による意味の解釈(翻訳者が自らの責任で引き受けなければならない)と、表現の研磨がもとめられる。

 

 

4.大風呂敷的な与太話−哲学における認識の話−

 

話が逸れるが、言語にまつわる思索の分野は、常に普遍性と相対性の相克にさらされているようである。

文法学の観点から、言語の普遍性(どの言語にも普遍的に共通する文法法則があり、そこからなんとなくこの世界には絶対不変の真理が存在するっぽいんでないの?という見方)を志向するのは、そのもの「普遍文法」を掲げるチョムスキーの文法学である。

他方、言語というのは世界を切り取る手段であり、モノの見方は人それぞれで世界の切り取り方も人それぞれ。言語によって単語の意味の区切り方は違う。

日本語では温水・熱水は湯、冷水は水

英語では湯も水も同じwater

このように、各言語の育まれた状況によってそのありようは区々様々である、とする考えもある。

文法学ではなく音素学(発音)に関する研究がメインであるが、ソシュール言語学などがこれに親しい考えであろう。

どちらも結論としては間違ってはいないと思う。ただ、普遍文法の志向者の中に、仮に「だから世界には絶対不変の真理がある」と思考する者がいるとすれば(大いにいるように思われるが)、それは言い過ぎ、論理の飛躍、としか言いようがない。

普遍文法に詳しいわけではなく、生成文法の初歩の初歩を聞きかじったことがある程度なので偉そうなことは言えない。が、本質的に言わんとするところは、おおよそ「全ての言語には主体と客体の区別があり、主語と述語によって記述されると言う普遍性がある」ということのようである。

「主語と述語により記述される」というのは、換言すれば「原因に基づき結果が起こる」という「時間の不可遡及性に依拠する因果律の認識」ともいえる。

確かにそう言う意味で、言語に普遍性、というより一定の共通性はある。だからと言って、この普遍性が神によってもたらされたとか、人類は無意識下で全てつながっている、という考えに行くのは、根拠薄弱でどこか迷信じみている。

ちなみに以上のようなアイデアエヴァンゲリオン大好きな方はご存知、集合無意識ってやつです。あるいは大乗仏教での唯識学派が言う阿頼耶識的なやつともいえる。

私は、少し違う考えである。すべての言語が主客分別的で、主述により編成されるのは、単に言語を編み出した人間なる存在が、その動物としての存在性、肉体性などといったものに規定・制約され、そうならざるを得なかったに過ぎないからではないか。

つまりこうである。人間は、その多くが左右対象な肉体を持ち、上は頭部、下は脚部であり、前面に顔があり後ろは背中がある。そして動くことができ、五感は各個体ごとに独立して存在し、その共有がなされない。こういった人間という「動物」としてのあり方が、すべての人間に世界を「主客分別的、主述的」にしか認識させないのではないか。

例えば、植物が「意識」をもったとしよう。

植物には根から花に至る「上下」の構造はあるが、同心円状に茎が存在してランダムに枝葉が生える形状から、人間のような「前後・左右」という区別は生まれないはずである。

つまり、植物の認識する世界には「前後・左右」がないはずなのである。

人間は目の受光器に緑赤青に反応する受容体を持つから、世界を三原色で認識するのである。受容体がキャッチする周波数帯が違う他の動物は世界を全く別の色で見ている。

 

人間は、

1,動物として主体と客体が峻別された存在である=知覚は互いに独立している。ここから、人間は主客を峻別して認識せざるを得ない。

2,時間的存在である。よって人間は、時間の流れに従い原因と結果を認識せざるをえない

このように、人間が進化の中で獲得し、概ねほとんどの人間が有している身体的共通性に制約されるから、言語はすべての人間に共通の因子を持つのである。共通の因子(主客・主述という分別のあり方)は、普遍的な真理や絶対の法則に起因するのでもなく、単に人間存在に共通するあり方の制約を受けるが故に、複数言語間で同じ法則、あるいは制約を抱えざるを得ないというだけである。

さらに話を広げるならば、哲学的な存在の「有無」の問題なども、人間が動物としてモノが有るか無いかという二分法的認識をしながら生存してきたことに起因しているのであろう。「絶対有、絶対無のどちらが真か」となどいう議論は、人間という観測者自身の存在に内在する制約(肉体性、動物性)というものを忘れている。

世界の真理などということに関係なく、人間は狩をして物を食べ、糞をして寝る生活をする中で、便宜上物事を「有るか無いか」という二分法で分別しなければ不都合であったし、故にそう認識して生きてきたのである。目の前の木に果物がなって「有る」のか鳥に食べられて「無い」のかという認識をできるからこそ、別の食べ物を探すか否かを決められるのである。そういった進化の過程で獲得されてきた認識方法という文脈を無視して、哲学や存在論などと話をこじらせるから、やれ「絶対有」やら「絶対無」はたまた「価値相対主義の極北」だのと迷子になるのである。

生活上、あるいは生存戦略上の便宜としての認識方法である「有るか無いか」という識別方法を一旦脇に置いて世界を微細に観察すると、どうやら見て赤く噛めばしゃりしゃりといい匂いは爽やかで味が甘く触れると皮がツルツルするリンゴなる物体は、素粒子がえげつない数集まった物らしいことがわかる。素粒子は、観察の仕方によって振る舞い方が物質なのか波動なのかよくわからん、ということになる。

結局人間にとって世界は、人間自身によって認識した情報の総体なのであって、それは認識するものとされるものなどの相互の依存関係の中で構築される相互作用の体系である。それが、認識論として人間が到達している、一番妥当な落としどころではないだろうか。

いわゆる仏教哲学の空思想でいう「相依性(そうえしょう)」的なアイデアである。

 そして、彼ら哲学者たちの云いによれば、所詮世界など人間が認識できる限りにおいてしか認識し得ないのだから、世界の始まりと終わりだの有限と無限だの死後の世界だの、考えるだけ無駄というものである。実に醒めたものの見方である。

 

もう十分深みにハマってはいるが、これ以上深みにハマりに行くのも疲れるので、今日はこのくらいにする。

結局、本の寸評とはかけ離れたものになったなぁ。