手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

洛中スナップ その2

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御池通木屋町付近

4月1日には、だいぶ暖かくなっていました。

まずは、ホテルオークラの付近で一枚目。

 

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三条通りを新京極から少し西に行ったところ、縦はどの通りか忘れました

どこに行こうか迷った末、とりあえず御池通りから寺町商店街を南下、すき焼きの三嶋亭の前を通って三条通へ。

三条通りは、石造りの建物が多い。これも、前からあったけどまじまじと見たことはなかった。

図形的な面白さを強調しようとモノクロに。

長秒露光すると自転車とかが動いてくれてなんとなくかっこよかったので、味をしめてしまいました。

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川端通りを五条方面へ

富小路あたりで錦小路、四条通りに南下して、東に戻り川端へ。

さらに南の団栗通りから、祇園界隈に入っていきます。

 

 

 

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建仁寺塔頭

建仁寺さんの中、桜が満開にもかかわらず誰もいない。

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建仁寺の外、花見小路近く

夕日が西山に落ちていきました。

建仁寺の食堂(じきどう)と思しきものの大屋根の向こうに茜色が残っています。

ちなみにこの近くには、金毘羅さんの分社があるのですが、以前友人とぶらついた時にはその境内のすぐ隣に非常にいい感じのラブホテルがありました。以下の写真です。

 

 

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数年前にあったいい感じのラブホ

ラブホの俗っぽさと、外観のレトロさ、隣が神社のミスマッチさが印象に残っていて、今回はきちんと構図を考えて取り直そうと血眼になって探したのですが(←変質者)、残念ながら更地になっていました・・・

 

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花見小路

で、気を取り直して花見小路を北上。

すっかり動体ブレの味をしめて、馬鹿の一つ覚えみたいにやっております。シャッタースピード1/4秒くらい。

 

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円山公園

いつもなら花見客でいっぱいで、大学のサークルが花見をやるといえば高い確率でここなわけですが、人っ子一人おらず。

しかし猫一匹いない、というわけではなく、猫が少なくとも五匹はいました。

円山公園は猫天国と化していた・・・

コイツら、近づいても逃げねぇ(笑

猫に「邪魔せんのやったら、まぁ写真くらいかまへんで」と言われたような気分でした。

猫様の寛大な措置により、丸山公園では全国民に岩合光昭ごっこが可能ですw

それにしてもずーっと動かないこいつらは、隣の芋棒の棒鱈のきれっぱしでも狙っとるんだろうか?

 

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祇園社(八坂神社)

円山公園から知恩院さんに行くか祇園さんに行くか迷って、結局初詣に行けなかった祇園さんへ

相変わらず、お神楽舞台(?)の提灯がきれいです。

 

 

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祇園さんの門から望む四条通

締めの一枚はこちら。

長秒露光のため、手振れがだいぶキテますが、そこはスナップとしてご愛敬。

ちなみに、写真見たらわかる通り、祇園さんの入り口って、神社なのに鳥居じゃなくて寺門でしょう?

これって変だと思いません?

八坂神社は明治維新時の廃仏毀釈前は、祇園社という名前の神仏習合の施設であり、本山は比叡山延暦寺でした。比叡山の京都における在外公館、あるいは出先機関みたいなものです。朝廷や六波羅などに対して強訴(ごうそ)という暴力的なデモ、あるいは示威行動をする際の出撃拠点でもありました。

寺門が入り口なのは、昔の名残です。八坂神社という名前も、祇園社や地域住民は嫌がったのに、明治政府が無理矢理変えさせたとか。

明治の廃仏毀釈が、いかにそれまでの日本の伝統文化に対して異質な、いびつなものであったかということです。

尤も、廃仏毀釈明治維新(同時代にこの言葉はなく、単に「ご新政」と呼ばれたようです)に始まったものではなく、その胎動は江戸時代からあったといわれます。

五代将軍綱吉の時代の儒学者新井白石は、仏教をはじめとした寺社勢力を目の敵にしていたようです。

また、儒学者と対立する立場になりうる国学者たちも、寺院に対しては対抗意識が強かった。

こういったものが明治の暴力革命の思想的バックボーンとなる水戸学などに濃縮されて、暴発したとみることもできるかもしれません。

しかし、こうなった原因として、仏教勢力側にも江戸期を通じて大きな問題があったといえます。

檀家制度などを通じた、幕府権力との一体化です。

仏教、あるいは広く寺社勢力は、中世にかけて独自の暴力装置統治権をもち、その呪力を以って天皇武家勢力にも対抗しうる勢力となっていました。

これらは、日本中世史における黒川俊雄の権門体制論や、網野善彦が導入したアジール論にあらわれます。

しかし、それが織豊政権期を通じての一向一揆の鎮圧と武家の支配への組み込みが行われます。豊臣政権五奉行の一人、前田玄以は寺社勢力対策のエキスパートだったことからも、彼らが寺社勢力をいかに体制に取り込むかを重視していたことはよくわかります。

そして徳川政権の時代になり、島原の乱という最後の内戦を収束させて厳格な管理貿易体制(古い言葉でいう「鎖国」)の確立と同時に、寺社勢力を武士による支配体制に同一化させることになります。

この癒着、ともいうべき共犯関係に対して、朱子学などによる中国における儒・仏対立をそのまま日本に持ち込むようにして反発が生じ、後の神仏習合の伝統から廃仏毀釈へ、というムーブメントにつながっていくようです。

それにしても、現代でもトランプによる差別主義を、勝手に日本における過激な排外主義の助力としたりということが見受けられます。

外国における思想的な対立や論争を、そのまま型どおり律儀に持ち込んで、検証もせずに炎上させるのが好きなのは、日本人のある意味伝統的特質なのかもしれません。

 

寺社勢力の話は、非常に面白いのですが、話が長くなるのでまた今度。