手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

有珠善光寺

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有珠善光寺、2020年12月

かやぶき屋根の寺がある。

伊達市の海辺、有珠湾に面する有珠善光寺である。

寺の説明書きによると、第三代天台座主・慈覚大師円仁が、9世紀に有珠湾の岩窟に仏像を安置したのが始まりという。

その後中世を通じて徐々にお堂のようなものができ、戦国末期、キリシタン禁令で弾圧されたキリシタンたちが、松前氏の迫害を逃れここに身を隠した、とされる碑がある。

 江戸末期には、幕府による本格的な蝦夷支配のための足掛かりとして、蝦夷三官寺の一つに数えられた。

蝦夷三官寺は、他には日高の様似町、厚岸にあり、いずれも太平洋側である。

 

私がここに初めて行ったのは、北海道に越してきてすぐのゴールデンウィークだった。

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有珠善行寺、庫裡本堂の中にある生け花、2019年5月

倶知安町ニセコ町には、欧米風のエッジの効いたデザインのコンドミニアムが立ち並ぶ。町の外に出ても丸屋根の北海道らしい家、広い道という、本州の人間からしたら異国のような風景が広がる。

幾分植物の植生や家の構えも本州に近づくのが、噴火湾から渡島半島にかけての道南地方である。

その道南北部、伊達の町はずれに忽然とあらわれるのが、この寺であった。

本堂の生け花に、言い知れぬ安心感と懐かしさを覚えたのは今でもよく覚えている。

 

そして、この寺が背負っている歴史である。

真偽のほどは不明だろうが、寺の淵源を9世紀にまで遡らせる(円仁は、他にも中尊寺や山形の立石寺の開基が伝えられ、東北には伝説を多く残している人物である)。

有珠湾は古来風待ち港であったようで、和人の商人やアイヌの行きかう場所であったらしい。

寺の開基が9世紀ではないとしても、相当古くから現地の住民と和人の文化的な交流があったと思われる。

中世の諏訪大明神絵詞で、蝦夷の太平洋側に人々を日ノ本、日本海側のそれを唐子、渡島半島を渡党(わたりとう)と区別した。

以下の「アイヌの歴史」などの近年の考古学(歴史学ではなく考古学である点は留意されたい)の成果を反映した著作では、もっぱら日本海アイヌの活動に重点が置かれている。著者自身、太平洋側の地方は、日本海側に比べ活動が低調であったと示唆している。

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しかし、私はこの古くからの伝承の伝わる寺を見るにつけ、本当にそうだろうか、と疑念を抱かざるを得ない。

確かに経済活動の規模でいえば、相対的に日本海側の方が活発だったのかもしれない。よって事実ではあろう。だからと言って太平洋側の歴史がなかったことには、当然ならない。

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こちらは、考古学の成果も交えつつ、発見された文献などの調査による文献学(こちらは歴史学)の成果も総合した書物である。

津軽十三湊を中心とした記述ではあるが、中世前半からかなり活発な交易が、北の地で行われていたことがわかる。

完全な推測だが、本州や朝鮮半島、中国で珍重された千島列島のラッコの毛皮などは、わざわざ遠い北回り(オホーツク屋→日本海)ではなく、太平洋周りで雄島や津軽に集積されたのではないか?

海流の向きとしても、千島海流があるのだから、南への航行はできたように思われる。

 

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世界のつながりの中に日本史を位置づける名著、「中世日本の内と外」などを読むにつけ、とにかく予断は排除されるべき、という念を強くする。

確かに、近世に北前航路が開けていて、ニシンやサケの漁獲量が多かったのは日本海側である。しかし、中世より古く仏教が伝来し、さらにはキリシタンまで逃れてくるという歴史のカオスのような伝承をもつこの寺の歴史を見せられるにつけ、太平洋側は栄えていなかったの一言で片づけてもらってよいようには、とても思えない(おそらく瀬川氏もそこまで言うつもりはなかろう。ただ、自身の研究のメインフィールドではない、というだけであろう。)。

考古学的に発掘される出土品の量に差があったとしても、その少ない側に歴史がなかったことにはならないはずである。

また、蝦夷との交流の歴史について、日本海側の安藤氏、そのあとを襲った蠣崎氏(のちの松前氏)、津軽氏については、それなりに史料があるものの、太平洋側の南部氏については、その史料の多寡すらまだわからない状態のようである。

幕府は松前蝦夷との交易を認めていたが、蝦夷との交易の「独占」は松前氏がアイヌに対して僭称した部分もあるというし、一概にどのような貿易体制であった、と結論付けることの難しい、多面的な問題のようである。

今後は太平洋側の海運・交流史も見ながら、より歴史の実相に迫っていきたいが、いい資料はないだろうか。