4.「熱源」川越宗一著、文藝春秋
この作品の登場人物の多くは実在の者であるが、そのいずれもが、いわゆる小説にふさわしいような偉業を成し遂げることはない。むしろ、何かをなそうとしてなすことができなかった人たちの話である。
にもかかわらず、あるいはそれゆえにこそ、歴史の流れの中で汲み取られることのない大河の一滴となったが、そこにあったはずの「熱源」を、確かに感じることができる。
主人公ヤヨマネクフを中心に、明治以降第二次大戦までに、主に樺太アイヌが経験した歴史クロニクルが展開する。フォレスト・ガンプに似た手法である。
樺太アイヌ、ニヴフ、ウィルタ、ピウスツキ、大隈重信、二葉亭四迷、白瀬南極観測隊、ポーランド革命―すべての事象が、ヤヨマネクフを起点に結ばれていく。そして、大きな流れにかき消されまいと残したはずの彼らの声を、掬い上げようとする。
おそらく、文献学やいわんや考古学などの手法では、このように点と点を結んで壮大なストーリーの全景を見せることは、到底不可能だろう。フィクションだからこそ、できるのである。出土した土器の欠けた部分を補うように、緻密で、逸脱を厳に自ら戒めながらせねばならない作業である。
作者には相当な負荷がかかったであろう。以前滋賀県に住んでいた時、著者の川越氏(京都在住の作家)が直木賞を受賞した時のローカル局のインタビューを見た。フィクションというベースで歴史を描いてしまうことについて、強い葛藤をもっていたようである。
しかし、歴史だけでは掬い取れないモノを、伝承そのたのフィクションだけが後世に残せる、ということの可能性を、この作品は十分に見せてくれたように思う。
本当にその人がそう思ったのか、そう振る舞ったのか?今となっては想像するしかない。しかし、こういう声を残したかったのではないかと想像することは、歴史を学んだその先に我々が見ることのできる、見るべき風景なのだと思う。
5.「現代日本外交史」宮城大蔵著、中公新書
同時代というものは厄介で、歴史という一歩引いた視点から見られるくらいの時を置いて、初めて客観的な評価ができるらしい。
世の中の物事は、古すぎればわからなくなるし、新しすぎれば同時代人の主観が入る。そればかりか、少し古い歴史ですら、容易に屁理屈のようなごまかしで修正されてしまう。非常に厄介なものである。
川越宗一氏が紡いだ想像力は、事実を徹底的に調べて、その中に遺した者たちの思いに触れ、その先にありしはずのドラマを結像させる力である。
歴史を学ぶ、あるいは歴史として事実を学ぶということは、その境地に至るまでのプロセスといえなくもない。
本書は、55年体制の崩壊、自社さ連立を経て自自公/自公連立、民主党政権を経て現在までの流れを、日本外交が辿った歴史という観点から客観的に見つめなおすことができる良書である。
以下は、本書の内容を踏まえた私見になる。
憲法9条をめぐる保革対立の文脈が強い存在感を持つわが国では、冷戦後の世界の安全保障環境の変化を、9条論争という次元を乗り越えて議論することが、遂にできなかった。
突如勃発した湾岸戦争で安保条約の非対称性が暴露され、9条をめぐる理想主義と現実の乖離の中でことごとく迷走を重ねたのちにカンボジアPKO派遣を行い、自衛隊のイラク派遣、憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認に至ったのである。
世界の安全保障環境の変化と、憲法9条の核心にある主旨というものを、我々は客観的論理的に議論できてきたであろうか?
GHQは敗戦国の武装解除/武力削減という「理(あるいは利)」を求めて9条を提案し、日本国民の多くはそこに凄惨な戦争への反省と自戒という「情」を読み取り、受け入れたのであろう。
では、凄惨な戦争を繰り返さないということの本質は何なのか?これを理詰めで考えてきたのか?しなかったのである。
「戦争放棄」は「情」であって、戦争というものを見ることすら忌むという態度である。理詰めの議論などできようはずがない。他方、憲法を改正しようとした「保守」の側が、戦争直前期の軍国主義に対して妥当な分析と反省をしたかといえば、必ずしもそうではない。自分たちは悪くなかった、という情緒的判断が先立っているに過ぎない(私は戦前回帰を標榜する連中は、保守ではなく、単なる復古反動主義者に過ぎないと思っている)。
保革双方の議論の忌避という怠慢が、湾岸戦争時の難局として噴出したのである。その後の混迷を経て出た答えが、解釈改憲による9条の空文化とは、まったく笑えない冗談である。
法律学徒として言えば、「空文化」こそが、法律において最も恐ろしいことである。書いてある法律が意味を失うのである。ルールがルールでありながら、ルールであることをやめるのである。その先に待つのは、無秩序でしかない。私たちはいまや、慎重に事を進めない限りその奈落に落ちるかもしれぬ岐路に立ったのである。
軍国主義への反省として本来語られるべきは、立憲主義、市民を守るための軍事組織(かの皇軍は自らの組織を守ることに汲々としたのである)という立ち位置の再確認と徹底、それを保証するための制度としての間接民主制(あるいは共和制)の定着という問題であって、戦争放棄云々などという情緒的議論ではないはずである。
軍が暴走することなく、合理的判断に基づき、国民一人一人の自由と豊かな社会を守るためにはいかなる制度が必要か、という観点から議論するならば、本来憲法の改正は不可避だったはずである。
単に9条を廃止するべきか否かなどという、軽率、安直、短慮、浅慮、愚劣、蒙昧の粋を集めた議論などではなく、なすべきことは多岐にわたる。
例えば文民統制などを一例とする、刑事権力に対する規制と同様の軍事力行使を統制する「適正手続き」ルールをいかに定めるのか?軍事法廷に対する憲法上の統制も必要である。
司法制度という点ではさらに、裁判所権力自体の監視と統制のために、裁判員制度を民事・行政事件にも広げるべきという議論も関連しうる。
さらに、具体的紛争がない限り審理を行わないという裁判の大原則を転換し、ある法律やルールが、特に紛争は生じていなくとも、客観的に憲法に違反しないか否かを裁定する、抽象的違憲審査権をもつ憲法裁判所も必要になろう。これは、軍事力の統制においても意味を持たせることができよう。
本来ここまで大事な議論がされるべきだったはずである。
何もしないうちに、軍の暴走など笑止であって、国家が緊急時に発揮すべきリーダーシップすらも持ちえない国となり果てたことが、コロナ禍で判明した次第である。
それもこれも、当事者として議論をしてこなかったこの国のすべての人間の責任である。