例えば、だ。
大切な家族を失くし、悲しみに暮れる少年がいたとする。
かたや、練習もままならない環境の中で、スポーツを続けることに悩むアスリートがいたとする。
ト書き:そこに女神オリンピア(プロジェクションマッピング)が降臨し、少年を抱き寄せて慰め、アスリートを励まし・・・
少年はアスリートの姿に勇気を受け取り、アスリートは少年の姿に自らの使命を自覚する。
オリンピアに導かれた二人は、祭典へと誘われるーーー
こんなプロット、しょせんド素人のおためごかしの茶番である。
しかし、だ。
何が言いたいのかというと・・・
今回の五輪のテーマって、なんだったっけ?という話である。
復興五輪、でしたよね?確か?
安倍クンが「あんだーこんとろーる(笑)」といった時点で、口先だけであろうとは思っていたが。
で、しかも、世界中がコロナ禍の難局にある中での五輪だ。
「復興」という日本独自の問題意識と「コロナ」という世界普遍の危機と。
これは、この五輪に課された「問い」である。
これを主題に据えて真正面から答えるのが、本来開会式が示すべき解であったのではないのか?
昨日の開会式がやったことはといえば、せいぜい申し訳程度に「コロナ禍で練習や大会が思うに任せないアスリート像」をちょろっと示し、追悼という行為を森山未來の表現力に丸投げし、あとは適当に安い芸人風情を使ってお茶を濁したに過ぎない。
だいたい、なだぎ武と劇団ひとり(私はこの二人はもともと好きである)は、この舞台にふさわしかったのか?
五輪開会式は、歴史となって振り返られるものだ。
その時に彼ら二人が歴史の評価に耐えられるほど、今現在時点で高い認知度と存在感を持っているとは思えない(単純に、人気実力ともに日本トップの芸人とは言えまい)。
もちろん、がーまるちょばのパントマイムとドローンの「技術は」すごかった。
しかし、総じていえば落第点どころの話ではない。
制作者は、問いに答えていない、どころか問いが何かすらも理解していないのだろう。
記者に質問された菅の答弁と同じでは困る。
連中がやったことといえば、「三角形の面積を求めよ」という問いに対して、
「三角形の三辺の長さを定規で測って、和は〇〇である」と回答(注:解答ではない)してバツをもらっているようなものである。
つまりこの五輪に課せられた使命(それがたとえ醜悪な建前であったとしても)にも、人々が直面する状況に対しても、何も関心を持たず、小手先で取り繕ったに過ぎない。
より端的に言えば、彼ら作り手には、歴史の裁きに耐えうるものを作るという、意識も覚悟もないのだろう。
世界の傷ついた人々に寄り添い、歩んできた道のりを讃え、勇気づけることが、本来時宜にかなうテーマ設定なのではないのか?
広告屋が小手先で作ったにしても、ひどすぎはしないか。
問題設定が何かもロクにわからずに作品提出をするような真似をして、よく美大にすら受かったなと思う。
極めつけに、開会カウントダウンの映像で、カウントの起点を2011年ではなく、はたまた2016年の前回大会でもなく、2013年の東京五輪決定の映像からとしたのには、憤りを通り越して吐き気がした。
これが、連中の本性である。
安倍クンの功績(れがちー)であるオリンピックの主導アピール祭りとそれを盛り上げる忖度祭りである。
日本人だけではなく、この2年近く、世界中が多くのものを失くしてきた。
繰り返すが、そこに寄り添うことこそが、全世界に対して果たすべき使命ではないのか。
喪失の悲しみと向き合う、というテーマは、悲劇の基本ではあるが、特に日本では村上春樹の「ノルウェイの森」に代表されるように、遺された者の喪失感を扱う、「別れという結縁」は一大テーマといえる。
「結縁(けちえん)」とは仏教用語であり、要は縁結びである。
これは結婚に限らず、万物の様々な関係性を示す一般用語である。
だから、「永遠の離別」というのもまた、お別れした相手との一つの「関係性」である。
二度と会えないという悲しみを抱きながら、それをいかに受け入れるのか、付き合っていくのか、というのが「別離という結縁」のテーマである。
これは、日本文学の十八番でもあるわけだ。
そういった同時代文学や、その現実世界の中での位置づけという「コンテクスト(文脈)」のなかで、この五輪のテーマを見定めて、何を表現するか、という演繹的な問いがなされねばならなかったはずだ。
意味不明なテレビディレクターの寸劇(あれを作った人間は、醜悪で愚劣なテレビメディアがそれゆえに斜陽となったことにすら無自覚なのではないか)と、存在意義の不明瞭なタップダンス、パフォーマンス「以外」すべてグダグダの歌舞伎とジャズピアノ。
支離滅裂である。
支離滅裂とするにしてもその滅裂たるあり方はあくまで3流5流で、何をするにおいても世界の檜舞台にふさわしくない中途半端な凡俗の産物である。
5流であることには一貫しており、5流に徹し続ける技に関しては1流である。
せめて、本当の作為的支離滅裂、創作されたカオスがいかなるものか、今敏が映画「パプリカ」の中で見せた、誇大妄想狂の夢が現実世界に漏出した伝説の場面でも見ながら学ぶがいいだろう。
口直しに、この場面のせりふを引用しよう。
いずれにせよ、今回の不出来の程度は、当初予想した通りどころかはるかにそれ未満で、開会式の制作陣は、無名で実績も不適格なばかりか、実力としてもまったくふさわしくなかったことは、断定せざるを得ない。
※映画のセリフを引用する。作為的無秩序の極致とはこういうものだ。
「うん。必ずしも泥棒が悪いとはお地蔵様も言わなかった。
パプリカのビキニより、DCミニの回収に漕ぎ出すことが幸せの秩序です。
五人官女だってです!
カエルたちの笛や太鼓に合わせて回収中の不燃ゴミが吹き出してくる様は圧巻で、
まるでコンピューター・グラフィックスなんだ、それが!
総天然色の青春グラフィティや一億総プチブルを私が許さないことくらいオセアニアじゃあ常識なんだよ!
今こそ、青空に向かって凱旋だ!
絢爛たる紙吹雪は鳥居をくぐり、周波数を同じくするポストと冷蔵庫は先鋒をつかさどれ!
賞味期限を気にする無頼の輩は花電車の進む道にさながらシミとなってはばかることはない!
思い知るがいい!三角定規たちの肝臓を!
さぁ!この祭典こそ内なる小学3年生が決めた遙かなる望遠カメラ!
進め!集まれ!
私こそが!
お代官様!
すぐだ!
すぐにもだ!
わたしを迎エいれるノだ!!」