手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

潜入ルポ!?五つ星高級ホテルから見るポストコロナ

※本記事は、某団体会報に掲載された記事の加筆採録版である。

 

 高級ホテル潜入(週刊○春風)

 先日出張に際し、分不相応にも東京と京都の五つ星ホテルに宿泊するという、望外の機会を賜った。わが所長の「ニセコという国際リゾートに関わる司法書士として、社会勉強でもしてこい」との取り計らいによってである。一つは東京の外資系高級ホテル、シャングリ・ラ東京、いま一つは京都の日系高級ホテル、京都ホテルオークラであった。

 両者の比較を軸に、国内資本と外資の立ち位置、そこから見えてくるコロナ後の姿について、無責任な飲み屋談義的与太話に、お付き合いいただきたい。

 

 徹底比較!シャングリ・ラvsホテルオークラ

 まずはシャングリ・ラ東京。外資系高級ホテルは、概して入り口がわかりにくい。小市民たる筆者はまずここであたふたする。小さな玄関を見つけて入ると、ロビーは香木などのアロマに包まれる。香港系高級ホテルならでは、である。ええ香りである。一生嗅いでいたい。一泊56000円朝食付きで、部屋は50㎡、キングサイズダブルベッドというしつらえである。独り身には無駄でしかない。33階の部屋からは東京湾岸の夜景が一望でき、「見ろ、人がゴミのようだ」と下界を睥睨したくなる。ガラス張りのバスルーム(これ一歩間違えればラ〇ホだろ)、大理石の洗面台、60インチのテレビと、およそ現実離れした空間であった。

 京都ホテルオークラはどうか。プランは一泊36000円、朝食付き。部屋は22㎡、ユニットバスである。リネンはフワフワに仕上げられており、細やかなところにオークラの気遣いを感じる。

 どちらに値打ちがあるかと問われれば、迷わずシャングリ・ラとなる。詳しく分析しよう。

 ホテルマンの気配り、サービスの質では、両者に差はない。どころか、オークラの方が少し上かもしれない。朝食時の給仕の目配り、コーヒーを注ぎに来るタイミングの良さなどは、甲乙つけえない。手荷物が多ければ、すかさず紙袋を渡してくれるのは、オークラである。両者を分かつのは、表面的には圧倒的なハード面の差、そして本質的にはコンセプトの差である。

 シャングリ・ラを包むのは、ただの高級感ではなく、非日常的贅沢さである。3メートル以上(?)の天井、60インチの8Kテレビ、1メートル四方の洗面所の鏡、高層階からの東京湾岸とスカイツリーの眺望。香木のフレグランスや、ジャスミンベルガモンに統一された石鹸類などは、ハードウェアと相まって、宿泊者を「楽しませる」ことに余念がない。

 オークラは、部屋は22㎡、天井の高さは標準的で、テレビは28インチ、水回りはバストイレ一体型。30年近く前に完成した建物は、これだけで不利となる。

 ハード面のみで両者を語るのはフェアではない。本質的な差は、「コンセプト」にあったように思う。ここから、世界の中での日本の立ち位置が、ほんの少し見えてくる、かもしれない(ただの幻影かもしれない)。

比較表

 

シャングリ・ラホテル東京

都ホテルオークラ

価格

56,000円/1泊

36,000円/1泊

部屋面積

50㎡(自宅アパートより広い…

22㎡

ベッドサイズ

キングサイズダブル

キングサイズシングル

水回り

トイレ洗面バス独立、大理石張り洗面台に1㎡の大型鏡&テレビ

ユニットバス

テレビ

60インチ8K、Apple TV

28インチHD液晶

アメニティ

ジャスミンベルガモンフレーバーで統一、石鹸はトイレと洗面に各複数、寝間着はツーピース、バスローブあり。リネンは柔らかく仕上がっている。

石鹸等は一通り揃うもフレーバー等演出無し、寝間着はビジネスホテルと同じワンピース、バスローブあり。リネンは柔らかく仕上がっている。

朝食

アメリカンブレックファスト、オムレツの中身等、内容につき細かくオーダー可。

オーダー方法や配膳の順番などについて、やや説明不足か?

ラウンジレストランでのアメリカンブレックファストと、料亭での和朝食を選択可能。

洋朝食は内容を細かくオーダー可。パン・コーヒーのお替りは客を見てタイミングよく来てくれる。

給仕、フロント

「よく寝られましたか」などのお伺いが枕詞。朝食給仕は男女問わずバトラースタイルのファッション。(女性は特に凛々しく、女性執事萌えの筆者にはグッとくる仕様である

手荷物が多ければ、何も言わずとも紙袋を用意してくれる気配りはさすが。しかし朝食給仕など、女性はスカートスタイルであり、ジェンダーフリーの昨今やや古めかしいか?

その他

ホテル全体にフレーバー等の細かい演出がある。高層階からの眺望が売り。

ラウンジからの東山の眺めは唯一無二。しかしエンターテインメント性で後塵を拝する。

 

f:id:maitreyakaruna:20210904070500j:plain

シャングリ・ラ客室からの夜景

 ホテルに求められるもの ※以下、まじめな論調に変わります(70年代論壇風?)

 香港系高級ホテルグループ出身で、ニセコでホテルマネジメントに携わる日本人一流ホテルマンが、私に教えてくださったことがある。

「真のラグジュアリーとは、表面的・物質的な豪華さではないのです。ラグジュアリーという『体験』をお客様にしていただくことこそが、私たちが目指す真のラグジュアリーです。」

 この言葉は、ホテルを巡る「本質」の差を考えるための指針となるだろう。キーワードは「ストーリー」の「体験」である。

 ホテルとは何のために存在するのか?「観光」という文脈の中で考えてみよう。観光の目的=デスティネーションとは何か。destinationの語源は、de(の下に)+stinare(立つ)=「神の御許に至る」という意味である。聖地巡礼などに起源をもつ観光旅行は、非日常を「体験」することによりカタルシスを得るという、快楽装置である。非日常とは、旅行者が生活を送る場には存在しない、観光地にこそ存在する「ストーリー」を「体験」することである。非日常というストーリーを享受することが、観光の目的といえる。

非日常的ストーリーの体験には、カタルシスという効用がある一方、それゆえのストレス(緊張)という副作用が、本質的内在的に存在する。宿泊施設には、旅行がもつ緊張の緩和、という役割が求められる。「食べる、寝る」という人間の本源に根差す活動を担うからには、当然である。

緊張の緩和を達するうえで、二つ軸があり得る。一つは、緊張の緩和、という目標のためにどのような戦略を採るのか、である。具体的には「ひたすら寛ぎのみを追及する」のか、「寛ぎに付加して適度なエンターテインメント性を持たせる」のかである。

 いま一つは、宿泊施設自体を非日常的ストーリー(=旅のデスティネーション)の中に深く位置づける(究極的には、宿泊自体を旅のデスティネーションと位置付ける)のか、あるいは別に存在する旅のデスティネーションを達するための手段に徹するのか、という、「位置づけ」の問題である。

 

 シャングリ・ラとオークラ、他のホテルはどうか?

 一つ目の評価軸から見よう。オークラは「寛ぎの追求」に愚直に徹しており、シャングリ・ラは楽しみという刺激を与えることで緊張の緩和を促進しようとしている、といえる。適度な楽しみは、緊張の緩和を促進する。フレグランスにしつこく言及してきたが、リラクゼーション効果のあるジャスミンベルガモン等をあしらうのは、リラクゼーション空間の演出という意図の表れである。過剰なハードウェアとソフト面の統一的な演出は、全てこのエンターテインメント性による緊張の緩和作用に結実している。対するオークラは、おもてなしの質は一級であるものの、それが寛ぎの演出に留まっている。

 世界の第一線は、いまや「真の緊張緩和には適度なエンターテインメント性の演出も不可欠」、という領域に入っている。では、日本の宿泊業は、すべからく世界の中で置いてきぼりを食らうのだろうか?それは違う。ヒントは、二つ目の評価軸、「宿泊施設と旅のデスティネーションとの距離感」の中から見えてくる。

 宿泊施設は、旅のデスティネーション達成のための基地=手段でしかありえないだろうか?これヘの答えを否とするものの象徴が、「温泉旅館」である。温泉というデスティネーション、温泉地という非日常のストーリーは、まさに温泉旅館において完成する。デスティネーションであり、それが緊張を緩和するのである。ここに、デスティネーションの持つエンターテインメント性と緊張の緩和という、背反しうる二者が両立するのである。

 和倉温泉の加賀屋であり、有馬温泉兵衛向陽閣がそうである。外国人知名度は低いが皇室行幸でも使われた一流旅館でいえば、湯村温泉井筒屋や、星野リゾートが運営する山代温泉白銀屋など、どれも引けを取らず、リラクゼーションのエンターテインメントである。外資系高級ホテルが目指す「エンターテインメントによるリラクゼーション」という解は、すでに老舗温泉旅館が得ていたものであった。これら全て、フレグランスや料理において客を楽しませる。ニセココンドミニアムも、これに近しい性質を持つ。スキーリゾートというデスティネーションと一体化した、「スキーイン・スキーアウト」と呼ばれるリフトへのダイレクトアクセス、羊蹄山を全面に眺望する客室の窓、温泉などである。

 

f:id:maitreyakaruna:20210904070606j:plain

京都駅の大階段

 

 都市型ホテルの「本質」と「最先端」

 一方、都市型ホテルであるシャングリ・ラやオークラ、ハイアットや帝国は、温泉旅館と立ち位置が逆である。これらは、旅行のデスティネーションとは隔絶された「アジール=結界」であることを、存在意義とする。旅人は結界に逃げ込むことで、旅の非日常の疲れを癒す。これらのホテルは、存在する場所にその存在理由を求めない。東京にあろうが香港にあろうが、シャングリ・ラシャングリ・ラである。東京でも大阪でも、帝国ホテルは同じハイレベルなサービスを提供するだろう。

 シャングリ・ラが、「東京」というデスティネーションがもつ文脈と結節点を有するとすれば、せいぜい部屋やラウンジからの夜景ほどのものであろうか(ちなみに、ホテルに入る料亭は京都のなだ万であり、「東京であればこその良さ」を感じられるわけではない)。オークラも、京都にあろうが東京にあろうが、オークラである。旅行の文脈からの隔絶性=アジール性という点において、両者は共通している。しかし、結界内部での安息の追求の戦略は、「エンターテインメント性の付加」、換言すれば「結界内部でのストーリーの創出」の有無という差を生んでいる。

 

 宿泊業界のこれからは?

 以上をまとめると、次のようになる。ホテルには旅の目的・ストーリーそのものに深く関与するもの(デスティネーション型)と、そこから隔絶されるもの(アジール型)の二つの指向性がある。デスティネーション型に温泉旅館やスキーリゾートがある。これらは本質的に、エンターテインメント性をも緊張の緩和のために動員する術を持っている。

 後者のアジール型の代表例はシティホテルである。元来シティホテルは、土地の文脈からの隔絶、結界内部での安息の追求のみを旨とした。しかし、最新のワールドクラスの高級ホテルは、結界内部で独自のエンターテインメントの文脈の創出に成功し、これを以って顧客の安息のさらなる追求へのブースターとしている。

 日本の都市型高級ホテル、少なくともその一部は、結界内部での独自の文脈の生成に至っていない。これが課題である。他方、リゾートホテルや旅館は、古くから旅のデスティネーションとの相互作用により、エンターテインメント×リラクゼーションのストーリーの提供に成功してきた。

 コロナ禍で大きなダメージを負っている旅行・宿泊業界は、現在位置か、あるいはここよりさらにダメージを負った状態からの再出発を余儀なくされよう。それまでの空前のインバウンドブームという、振り返ってみれば千載一遇のチャンスの中で、ホテル独自の物語の生成という、ソフト面・コンセプト面が立ち遅れてしまった日系都市型高級ホテル群は、果たしてキャッチアップできるのだろうか?

 折しも帝国ホテル東京は、建替え工事に入るとのことである。一方、都ホテルを擁する近鉄ホテルグループは、ホテル不動産の一部を米投資会社ブラックストーンに売却し、運営のみに関与するという。地殻変動が起こりつつある。資金力と最先端のコンセプトを持てる者と、持たざる者の差は広がるだろう。コロナ後に予想される観光需要の大きなリバウンドを前に、既に無慈悲にもスタート位置で差ができている。洗練されていく世界のホスピタリティのコンセプトに追いつけない者たちの、大淘汰が始まることが予想される。

 

f:id:maitreyakaruna:20210904070637j:plain

京都駅の幾何学的夜景

 

 より巨視的に

 外資が日本の観光の主力となると、二つ問題がある。

 インバウンドは、輸出産業である。国内の有形無形の財と外国人のお金を交換するのだから、富の移動の方向は輸出と同じである。日本の輸出産業たる観光が外資に担われたらどうなるか。外国人観光客の富が、日本を経由して外資に吸収されるだけである。日本は通過点に過ぎなくなる。

 いま一つは、グローバル資本主義の問題である。資本主義は、効率的な富の拡大再生産を志向する中で、多様性の捨象と秩序の画一化を生む。エントロピーの増大、あるいは「縮退化」とも喩えられる。外資系高級ホテルのスタンダードに、日本の高級ホテルが画一化されるとどうなるか。東日本大震災を想起しよう。震災の日、多くの外資系高級ホテルは、騒乱の発生を恐れて門を閉ざした。その中で、路頭に迷う人々にスープとパンを振る舞ったのが、帝国ホテルであることを忘れてはならない(私の叔父はこれに救われた一人である)。画一化、縮退化は、こういった多様性と美徳を、社会から失わせる恐れがある。

 オークラを見ても、ホテルマンのレベルは高い。問題は、その価値を活かせないことである。活かせない潜在的付加価値を持つ格安物件は、外資からすればお買い得品となるだろう。彼らの貪欲な購買力に身を任せるだけならば、この国の観光宿泊業は蚕食されて縮退化の餌食となろう。

我々は人口減少という事実を軽視しながら、企業は内部留保を貯め込み、経済全体としてデフレを進行させる一方で円安を志向してきた。オークラのホテルマンに見るように、この国に潜在的付加価値は存在する。しかし、それを進化させずあるいは安く叩き売り、10年を一日の如くやり過ごした結果が、購買力平価ベースで一人当たりGDP世界35位という中進国化である。

この国全体が、自らの価値を安く売り、価値を創造することをやめた結果である。

特に第二次安倍政権以降の8年余りは、昨日と同じ今日、今日と同じ明日が来ることばかりをひたすらに願い(そのこと自体が問題なのではない、問題なのは)、世界の変化に目を背け惰眠をむさぼり続けた。目先の日経平均株価と対ドル円レートなどにばかり注目している間に、我々がほったらかしにしてきたのは、科学技術や通信などの社会インフラのアップデート、さらに最大の失策は教育の放置だろう。

民主党政権ができた頃までは、我が国の主要な問題は社会保障の脆弱さを中心とした問題群だったように思う。しかし、東日本大震災を経て、この問題はほとんど充実せぬまま後景に追いやられた。

安倍政権下では、円安誘導によりメーカー等が海外の生産拠点からの外貨獲得に勤しみ、日本経済が過去の勝ちパターンの馬鹿の一つ覚えをやっているうちに、社会インフラは老朽化した。

特に、今まであまりにもないがしろにしてきた脆弱な教育のダメージが、強烈に効いてきているのではないか。高等教育機関における研究の量と質、という意味においてである。単純に科研費も足りないことは間違いないが、そこで研究してもまともな人生設計ができない状態で放っておかれるような研究者という人生コースに、誰が進もうとするだろうか?

これら高等教育に限らず、目先のアドバルーンでごまかし続けた末に、痛烈なしっぺ返しを、我々は受けている。

ホテル業界に限らず、この社会自体が、もはや茹で上がりつつあるカエルに違いない。茹で上がっても誰も食わずに生ゴミになるだけだろうが。