1.まずは一泊
丸山千枚田を拝んで、熊野の海辺に下りてきて回転ずしを食い、尾鷲に投宿。
泊ったのはまたも、一関と同じくビジネス旅館。
古い設備だが、まじめな印象。
空気清浄機やエアコンなどはきちんと新しいものが入っている。
また、他のホテルでは意外と見たことがなく、非常に珍しかったのが消毒液を客室に常備している点だ。
他のホテルは、例えば札幌パークホテルや1年前の京都ホテルオークラですらも、こういったものは置かれていなかった。
何か理由があるのだろうか。
旅で外出をして人とあっていた人が帰ってくるのだから、消毒したいと思うこともあるだろう。
私など、家に帰るとスマホもアルコールで拭くので、こういったものがなぜ他のホテルにはないのかと常々疑問だった。
2.一晩明けて
翌日は、朝6時半から動き出した。
ゴールデンウィークである。
のたのた動いていると渋滞に巻き込まれる。
尾鷲から高架道路でしばらく行くと、まず初めに海が見えてくるのが、新鹿海岸だ。
この季節は釣りキャンプの家族連れが多く車中泊していた。
夏になれば海水浴でにぎわうだろう。g案だけの観光協会、新鹿観光協会というものがあるらしく、キャンプや海水浴の入場料で海浜を清掃するなど地元の住民が手入れしているようだ。
ちょっとした入り江の海水浴場で、桟橋の架橋を外した橋桁だけがあった。
続いて向かったのは鬼ヶ城。
その途中に、ちょっとした水田のある谷筋があった。
海はもちろん太平洋熊野灘だ。
3.海賊・水軍の成立過程
鬼ヶ城には8時ころには着いた。
鬼ヶ城は海に面した天然の要害である。
古来、平安末期から中世初期には、熊野別当家が水軍を率いて強勢を誇った。
世に奇しくも数百年に一度、二大勢力が図らずもその最強の座をかけて戦う巡り合わせというものがある。
例えばローマ史における内乱の時代の、ゲルマニア軍団対ドナウ軍団などである(ネロ後の四帝乱立期と、セプティミウス・セウェルスによる内乱平定時だったか)。
治承寿永の大乱(源平合戦)の壇ノ浦で源氏方で参戦したのは、熊野水軍を率いた熊野別当湛増(たんそう)である。
湛増はもともと平清盛の縁者でもあったが、河内源氏や王家とも縁戚を持つ複雑な姻戚関係を結んでいた。
平家方の瀬戸内の海賊衆を向こうに回して、源氏の勝利に貢献した。
時代が下って第二回戦は、石山本願寺決戦である。
石山本願寺方には瀬戸内の村上水軍、対する信長方には熊野の九鬼水軍。
これも、九鬼水軍率いた信長の勝利に終わった。
伊勢熊野勢の2戦2勝である。
ここで注目しておくべき事実がある。
なぜ熊野に水軍がいるのか、である。
水軍あるいは海賊が成立する要件は主に二つだ。
一つは、潮目を読むのが難しい海の難所であること。
二つ目は、その難所が交通の要衝であること(熊野灘は明治期に近代化した海軍の船も沈没している。紀伊半島南部で沈んだエルトゥールル号も有名だ)、だ。
通る必要のない難所なら、海賊事業など成り立たない。
難所だがどうしても通らざるを得ない。そんなところに、水先案内人のように、船に乗り込んで潮目を読む案内人が必要になる。
これを「中乗り」という。
こうした習慣が徐々に在地の「権力」となり、中乗りを乗せない船の通行罷りならず、となる。
こうして、船は通行税を払い、対価として中乗りを乗せて安全に船を導いてもらう。
これが海賊の概要である。
私が言いたいことは、熊野に水軍がいたということは、熊野灘は海運の要衝だったはずだ、ということである。
鬼ヶ城は、そうした水軍の根拠地であった。
4.熊野速玉大社
紀伊半島の山から切り出した材木の搬出港として栄えたそうだ。
江戸期には木材を尾張などに海運で輸送して富を得ていたようで、古来こうした産業が根付いていたといえる。
熊野三山は、大峰奥駆道に生じた役行者による修験道の本山といった位置づけである。
よって、本来神仏習合であって、熊野三山のいずれも神社ではなかった。
江戸中期から醸成された国学なる妄想の産物(日本古来の伝統をうたいながら、主張の要旨は近世中国伝来の朱子学という破綻ぶり、荒唐無稽ぶりは、涙なしには笑うことができない)に基づき、少なからぬ者が明晰な頭脳を妄想に費やしたその国学と自らの権力の権威付けになりふり構わなかった知性のかけらもない暴力による「少数派の勝利者」薩長政権が結合し、国家神道なるグロテスクかつ空疎な「新興宗教」を捏造し、主に堕落しきって幕府の走狗兼葬式セレモニー屋そして時々キリシタン弾圧の手先と化した仏教を攻撃した。
廃仏毀釈である。
しかしその実、結果として残ったのは、神仏への両属性を持つ修験道を引き裂き、土着信仰としての産土神などを消滅させる愚行であった。
祇園社は八坂神社なる軽薄な名前に改めさせられ、伏見の稲荷大社は境内地の塔頭と経典の多くを失った。戸隠も寺と経典を失った。
熊野もそうである。
熊野青岸渡寺という本宮近くの寺以外、すべて神社に衣替えがさせられた。
それだけではない。もともとあった多くの神社を無理矢理併呑させ、多神教のキメラとした。
神罰も仏罰もすべて食らえばいいというほどの、その地の文化と歴史を軽んじた愚行である。
いま保守派などと自認している愚人どもは、せいぜい明治期のこうした従前の歴史的文脈を踏みにじったうえに捏造された「ご由緒」を伝統などと吹聴しているに過ぎない。いやそれすらも正確には理解していないだろう。捏造を正確に理解するというのも意味が分からんが。
本当に歴史を知るというのは、リアルに足を運んで一つ一つの事実の積み重ねを知ることである。
5.新宮城について
話を経済に変えよう。
日本の海運・物流の流れが少しづつ見えてくる。
南北朝期の南朝方武将の北畠顕家は、ここより北の伊勢を拠点として、奥州平泉などを勢力下においた。
平泉の頁でも述べたように、かの地にも熊野三山が勧請され、神社がまつられている。
遠く離れた東北岩手の内陸と、この地は海でつながっていたのである。
新宮速玉大社の参道をまっすぐ下って500メートルのところに、新宮城址がある。
これは紀州徳川家和歌山藩の支藩で、紀州田辺藩などと同格の扱いだった。
岩盤の上に石垣をかぶせて城郭にした、小規模な要塞のような平山城だが、石垣は織豊政権期末期、江戸初期の近世様のものだ。
いわゆる「切込みハギ」あるいは「切石整層積み」である。規模こそ小さいが、整形は江戸城や金沢城、大阪城の中核部分のそれに匹敵するほど端正だ。さすが御三家の城といったところか。
新宮市の資料館によると、木材搬出基地であった熊野川河口を抑える要衝だったとのことである。
こうして、平泉の発掘されゆく文物、熊野灘の水運、産業の断片から、おぼろげな全体像としての、材木搬出を中心とした海運業と、それをシーレーンの一部に組み込んだ太平洋交易路の存在が見えてきた。
6.最後に寄ったのは昼食の喫茶店
速足ではあったが、尾鷲から熊野新宮を廻ることができた。
一度来てしまえば勝手はわかる。
二回目以降は楽になるだろう。
今回はそのための「一回目」だった。
帰路で熊野市波田須まで戻り、谷筋の眺めの良い喫茶店「天女座」で昼食をとった。
オーナーは音楽家の方で、北海道から実家を経てここまで来たというと、感心してもらったようで一曲即興で演奏してくださった。
12時半には店を発った。途中紀伊長島あたりでサービスエリアに寄った後はノンストップだ。
途中一度も渋滞につかまらず、紀勢道路、伊勢道、第二名神、京滋バイパスを宇治東インターでおり、家に着いたのは3時過ぎ。
この日の渋滞予測では、3時を過ぎると上記全線で重体につかまる予測だったので、余裕をもってかいくぐることができた。
ゴールデンウィークとは不便なものだ。