第4話くらいで中間評を入れたが、本作、やはりすごい。
近年稀に見る傑作だ。
非常に重層的、多面的な魅力を持つ作品だが、ここでは本作品の社会は作品としての側面と、キャラクターの持つヒロイズムの点に注目していきたい。
今までの作品評では、作中のテーマを表す寓意的表現*1に注目して読み解こうとしてきた。本作でもそうしたいところだが、なにぶん情報の奔流のような作品で、かつ他に講ずべき魅力が多すぎるため、こうした「落ち着いて」見るべき論点は後に措く。
1.社会派の作品として
世界的名作であるゲーム、メタルギアソリッドの監督である小島秀夫氏が本作品にはまっているというのが、ツイッターなどで話題になった。
かねてから硬派な作風、社会的・政治的な発信も多い氏が惹かれたというのもわかる気がする。
この作品は、以前も述べたように、深夜帯オリジナルアニメーションの骨法に従って、なかなかに社会派の、羊の皮を被った狼よろしく硬派な作品だ。
第一話の、千束の自宅のシーンの後に続くのが、テロリストや暴力犯罪者たちを人知れず闇から闇に葬っていく「リコリス」たちの暗躍だ。
彼女たち(あるいは男性版リコリスである「リリベル」たち)の私刑的即決処分のおかげで、社会は偽りの平和を保っている。
これはちょうど、10年前の傑作オリジナルアニメ"PSYCHO-PASS"の、ドミネーターという「考える銃」を使って、精神的に犯罪性向のある人間を未然に処分していくシステムと似ている。ユートピアに見えるディストピア、SFの鉄板の一つでもある。
作中で千束がたきなに語る「事件は事故になるし、悲劇は美談になる」偽りの世界が、彼らが生きる日本社会だ*2。
そうした社会の欺瞞を暴き、独善と強権で社会を偽ろうとするDAやアラン機関の存在を白日の下に晒そうとするのが、千束とたきなが対峙する敵、歴戦のテロリストにして「戦争屋」の真島だ。
そして最新話である10話に至って、真島は新しいテレビ塔の電波をジャックして、全ての人に語り掛ける。
「他の国がテロやら戦争やらでドンパチやってるのにこの国だけは平和そのもの。気持ち悪いくらいにな」
「民度の高い国民だから?日本人ってすごーい!ってか?」
「ハッ。取り柄のない奴に限ってカテゴリに誇りを持ちやがる。テロは何度も起こっているのさ。隠蔽されてしまうだけだ」
「虚偽と誇張にまみれた平和の押し売り、汚点には蓋をしてしまう」
「この国にはそんな薄汚い平和に執着する連中がいるんだよ。俺はそれが気にくわない」
無粋な話をしているのはわかっている。
ある物語作品を語るのに、それの現実社会に対して持つメッセージ性などにフォーカスするなど・・・
しかし、真島がその真骨頂を表したこの10話を見るにつけて、私は制作者たちが持つであろう社会に対する対峙の仕方、世の中の捉え方に強く反応してしまった。
上の真島のセリフとして語られたメッセージは、ある者が読めば戦後日本の偽りのごとき平和を指すと読むかもしれないし、別の者が読めば都合の悪いことをひた隠しにする現在の(そしてつい先日鬼籍に入ったとある)為政者たちを思い浮かべるかもしれない(私は後者だ)。
この作品は「偽りと真」を、いくつもある物語の支柱の一つとしていて、それの中心を担うのが、この真島という男であろう。
こうしたテーマ性を持つに至ったのは、トランピズムのようなフェイクニュースによる扇動で米国連邦議会が略奪され、ゴミが大量に地中から見つかったことにして大幅に値引きした土地を売買した森友学園問題をなかったことにしたり、検察の公訴権すらも恣意的に歪めようとしたりして、「丁寧に説明する」という何の説明にもならない言葉を吐いてごり押ししたうえ臭いものに無理矢理蓋をしたことにすることがまかり通ってきた世情と、まったく無関係とはいえないだろう。
さらに言えば、これまでのアニメ制作者の、微温的とはいえ有してきた思想傾向の現在地を見るようでもあって、興味深い。すなわち、「ヒューマニスト」手塚治虫、環境主義者・宮崎駿を経て、エヴァンゲリオンの庵野秀明や攻殻機動隊の士郎正宗以降、表面的なレベルに過ぎないがやや右傾化の見られたマンガ・アニメ制作者のメッセージ傾向は、デスノートなど左右対立と無関係な暴力革命志向に行きつつ「進撃の巨人」などのように一言で語りえぬほどに多様化し、方向感覚を失ってきた。
「進撃」は別格だったかもしれないが、基本的には社会的メッセージ性には背を向けてきたように思う。社会という中間レイヤーをすっ飛ばした「個人対個人」が世界の命運を決してしまう「セカイ系」や、世界を右でも左でもなく「壊すか壊さないか」で分類する「決断主義」などは、全て社会のあるべき姿を語ることを避けてきたように思う。そうした意味では、「コードギアス」もセカイ系と決断主義への一種の超克を試みてはいるように思うが、目指す社会の在り方は「人は未来をこそ希う(こいねがう)」という極めて牧歌的なものであった。制作者なりの普遍的に受け入れられる社会のビジョンを、より具体的に語ることはなかった。
しかしここにきて、本作は権力の恣意性や独善性に対する嫌悪を表明している。これは本来極めて正常な感覚であるにも関わらず、昨今の日本においてはそれを主張することすなわち「左翼」であるかの如き歪んだ言論が「正常」であるかのような位置に居座ってきたように思われる。
本作品で驚いたのは、近年の唾棄すべき愚劣なネット右翼が見たならば「左翼の妄言」ということになるであろう、権力の欺瞞・偽善の告発と掣肘という国際的に見れば現代社会の「センター」にあるべき感覚を、賞味期限切れの左派の軽薄な「ヒューマニズム」など行きがけの駄賃よろしく蹴とばしつつ、暴力によって求めるという形での表明を見たからである。
まさに第10話のサブタイトル"Repay evil with evil" (毒を以て毒を制す)である。
ここまで清々しく、権力の掣肘というものを表明した作品が近年あっただろうか?
真島は、あるいは「コードギアス」など10年以上前の作品が担った「決断主義」残滓なのか?
続きは改めよう。