手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

姫路城

で、姫路城についた。

姫路城

重い曇天で、行楽日和とは全く言えなかった。

曇りの日の場合、全体に陰影がなくなるので影を強調した絵作りはできないので、光の方向を意識せずに形状だけを映すような写真になりがちだ。またカラーの画にしても、陰影がなく色が単調で面白くないので、モノクロにするのもありだ。

モノクロにして、シャープネスをギチギチ強めにしていくと、石垣、瓦、漆喰などハードな素材が多い城は被写体としてマッチする。

定石通り、姫路城西の丸の三十間櫓から入っていくが、中に展示パネルが置かれている。昔こんなものあったっけか?

三の丸、堀

羽柴が居城としていた時期から、池田輝政が現在の城郭に大改修し、江戸期に親藩・譜代が入れ替わった流れなども解説されていた。

池田時代ですら、輝政直営の与えられた領土は、50万石クラスだったそうだ。その封土でこの大城郭は、やややりすぎの感がなくもない。池田氏は、もとは織田家臣団であった。しかし山崎の合戦後は秀吉と緊密な関係を保って豊臣政権期に豊臣氏に次ぐ家格、直参で最高の厚遇を得て、さらに徳川とも姻戚を通じて密接な関係を築き、外様でもトップクラスの封土を得ていた。

つまり池田は、もともと織田家臣団のため、秀吉よりは上の家格、家康とは別の家門の人間であった。しかも秀吉・家康からすれば、織田の全国征服戦争の最中で軍門に降った、本当の意味での「外様」ともいえないでもある「身内」でもある。こうした絶妙な立ち位置のうえに、外様の毛利や上杉、秀吉子飼いの福島などのように出過ぎず、細川などよろしく機を見るに敏に徹したことが、動乱期を生き長らえた所以と思われる。

なお、大坂の陣が発生したのは、豊臣と徳川双方の与力に対して抑えが利き、相応の軍事力を持っていた姫路の輝政が死去したことが、きっかけの一つともいわれている。バランサーとしての存在感は大きかったのであろう。

池田は、大城郭の編成とともに高砂川の河川改修など、多くの開発事業も行っている。

二の丸から

戦国期には、農村の端境期の口減らしなどとして、都市に浮浪者が流入し、それらが兵として戦場に駆り出されていた。

戦場は失業者達を吸収し、死ぬものはその分口が減り、侵略戦争を仕掛ければ隣国の食料を略奪、糊口をしのげた。戦争は、もはやシステムとして社会の人口の調整弁と化していた。こうした戦乱の時代の、戦争に代わる雇用対策として登場したのが、城郭を始めとした都市建設事業だ。信長を経て秀吉の時代に、ますます大規模化していった。

おそらく池田の築城、河川改修などの工事は、こうした領内の経済振興としての役割も大きかったものとみられる。

二の丸からその2

しかし、大阪の陣の後輝政の長男利隆が没すると、三代目光政は要衝を理由に鳥取に減俸=左遷される。その後、姫路領主は譜代と親藩が続く。要衝を理由に左遷というのも、額面通りに取れば理不尽な話である。関ヶ原大坂の陣の二度のゲームチェンジを経て、徳川の専制政治が成立したが故の強権の発動とも見える。その後、池田家は岡山池田家、鳥取池田家の二藩各35万石で推移する。

譜代や親藩の大名は、大企業の転勤族のように頻繁に転封される。さらに、福山藩の歴代藩主が有名だが、幕政や江戸での権力闘争にばかり血道を上げ、藩領経営はずさんにするか、苛政を敷いて領民の反発を招くかがパターンである。三河吉田藩などもそうした時期があったようだ。

姫路藩も例に漏れず、官僚的な親藩・譜代の凡庸あるいは過酷な治世が短からず続いたようである。

天守閣2階

本丸直下

本丸から西の丸化粧櫓を望む

姫路の藩領は、その後15万石クラスのまま推移する。親藩・譜代としては大藩、である。親藩では特殊な地位にあった福井や会津がおおよそ20-25万石で最大クラスであったことを考えると、小さくはない。しかし、わずか15万石の藩領と、姫路の港の通行税などので大城郭を維持するのは相当な負担であったと思われる。明治期には傾いていたとも聞く。

姫路城夜景