手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

商業登記制度の香ばしいゴミさ加減に見る文化果つる国のクリエイティビティ

 

1.もうええ加減限界やろ

1)日本の法人登記制度のカビのボウボウ生えたイカレた古さ

珍しく仕事の話からする。

日本の登記制度には、不動産登記制度や商業・法人登記制度などがある。

特に後者について、いい加減時代に合わなくなってきているように感じる。

日本の商業登記制度は、会社の本店・商号や役員を登記簿に記載して公示するものである。

しかし驚くべきことに、この登記簿においては会社の定款はおろか、株主構成などすらも公示されていないのである。

2)無駄な情報は開陳される

前述のように、商号・本店所在地・会社の目的・株式の譲渡制限の有無・役員の氏名(代表取締役は住所も)・決算等の公告方法などの事項はディスクローズされている。しかし、率直に言って代取の住所などどうでもいいのではないかと思う(経団連などのお歴々からは代取住所開示をやめるよう再三法務省に申し入れがされていると聞く)。

実際ネット上では、法務局で大企業の登記簿を取ってわかった代表取締役の自宅を見に行く、という変わった(というよりぎりぎりやべぇ感じの)趣味を持った御仁もいるらしい。お見合いで「ご趣味は?」と聞かれて答えたらドン引きしてもらえること請け合いである。

開示は必要だろうがもはや誰も気に留めていないのが「公告方法」である。公開会社であれば重要な情報だが、日本企業の99%を占める中小零細企業においては、公告義務すら履行していない企業がほとんどである。公告は、こうした履行義務が形骸化していること自体が問題とも言える。また、公告方法が登記されていても、肝心の決算期が登記されていないのだから、どこで公告されるか(官報なのか、ウェブ上なのか等)がわかったところで、いつ公告されるか不明で意味がない。

 

2.いま何が問題になっているのか

こうした、重要性の乏しい情報開示(公告方法)や必要性に疑問のある情報(代取の住所)が羅列される一方で、上記の通り定款の内容開示もされなければ、会社の株主構成が開示されていないのである(上場会社であれば、大量保有報告書東証の開示である程度わかる)。

どう考えてもアンバランスだし、はっきり言って商業登記制度が一体何をやりたいのか全く理解できない。大企業の代取自宅探訪がやりたい変態のための制度ではないはずなのに、せいぜいその程度の用しかなさなくなっている。

ある会社と取引をする際に、その会社が誰によって支配され意思決定されるのかが全てブラックボックスな状態で、大口取引など本来ならば怖くてできないはずである。しかし、慣習的にそう言ったことを心配せずなんとなく安心してボンヤリ取引をしてしまっている日本社会というのは、なんともお幸せな、別な言い方をすれば平和な性善説を前提とした社会と言える。

しかし最近は、こうした「当事者が脳みそお花畑だからノープロブレム」とばかり言っていられる状況でも無くなってきた。

1)情報開示が求められるに至った理由

情報開示圧力が、近年特に高まっているのである。取引の非対面化など様々な理由はあるが、最大の原因は"Anti-Money Laundering/Countering Financing Terrorism"いわゆる「反マネーロンダリング・テロ資金供与対策」である。

取引先顧客がテロ組織や反社会的勢力でないことを確認し、疑わしい場合には全て記録を政府に提出させるという、取引ごとの情報開示義務である。

アメリカ主導の対テロ戦争が生んだ産物で、政治権力から一方的に様々な開示義務を課されるものの経営上は何のメリットも生まない。

2)会計原則の大変革の時との違い

1980年代末から1990年代にかけて、アメリカを中心に会計原則が大きく変わった。原価主義会計から時価主義会計への転換だ。これは、事業の「所有と経営の分離」「事業と投資の分離」と言う世の趨勢を表すもので、国際会計基準などもこれに合わせて変わっていった。

この時期の大変革は、ビジネスに新しい潮流をもたらし、高度な金融テクノロジーの発展を支えた。

しかし、対テロ戦争が生んだ国家の一方的な都合に基づく情報開示規制は、経済的にポジティブなインパクトを生むことはないだろう。

3)自由主義への無自覚な挑戦

私有財産権の保護と取引の自由は資本主義の根幹である。しかし、反マネロン規制というのは、国家が、何の見返りも与えることなく、私人に対してその取引相手を規制し、取引内容を規制する行為である。再三言うが、これを遵守することは何の経済的メリットも生まないし、遵守したからといって国家から優遇されることもない。ただ一方的な賦役である。これが、自由主義市場経済という近代政治経済の大原則に対する重大な修正行為であることに、果たして為政者たちのどれほどが気づいているのだろうか。

これまでも、「市場原理」に対する修正原理は多く採用されてきた。最大のインパクトを持っていたのはケインズ経済学であろうし、その後もスティグリッツアカロフの「情報の非対称性」による修正や、行動経済学による数理経済学に対する修正などなされてきた。確かにこれらは、近代主義的なドグマに対して多くの例外を提示し、ピラミッド型の思考構造に修正を迫るという、ポストモダンの時代に生じてきた潮流ではあろう。しかし、自由主義立憲主義を大前提とした上で、経済学という論理体系の解像度を上げるものではあっても、自由主義という大前提を攻撃するものではなかった。

一方で、上記反マネロン規制などは、こうした自由主義の前提に直接楔を打ち込む行為である。おそらく中国政府など小躍りするほど乗り気か、あるいはやり方が甘いとすら思っているだろう。

反マネロン規制とは、自由主義そのものへの、為政者によるこれといった自覚なき挑戦的行為であり、重大なくさびである。 

 

3.日本という国の旧態依然

話が逸れたが、いずれにせよあらゆる取引の世界で、両当事者間の情報開示義務が飛躍的に増してきているのである。銀行口座一つ開くのにさえ、会社の「実質的支配者」と呼ばれる「最奥部で会社の実権を握っている者」が誰かまで、徹底的に調べ上げられる。

こうした開示規制がされるにいたる前から、特にアングロ・サクソン法系諸国では、会社情報の登記簿における開示に際して、商号や本店、役員は当然、毎年登記事項をアップデートし、定款や持株比率など、徹底的な開示がされている。

日本はどうか。

日本の法人登記制度は、19世紀末のプロイセン商法をもとにした極めてアルカイックなもののままで、そこから抜本的には進化していないと言っても過言ではない。

ドグマもパラダイムも全て、19世紀の「近代的合理人」のそれのままなのである。

19世紀末の当時会社の開示情報として重要だとされていたことを、「商業登記とはなんのためにあるのか」という本質的な問いを何らすることなく、ただボケっと千年一日の如く続けてきただけである。

日本には、往々にしてこう言うことがある。

雅楽などは、唐の時代に遣唐使が持ち帰ったものを1000年以上も墨守し、中国で原形をとどめたものがなくなってから改めて注目されるに至って、そこまで行けばそれなりに値打ちも出よう。

しかし、商業登記や他の法制度のいまだに手付かずで残る自然よろしく何の進化もしていない姿を見るにつけ、日本とはなんと野蛮な国かと思い知らされる。

これこそ文明の下流である。

 

4.問題の根本は物事の本質に対する無思考と無理解

日本の商業・法人登記制度が旧態依然としたままなのは、「商業登記制度を取引のための法人のディスクロージャーのための制度で、その趣旨に鑑みて何をどう進化させ、いかなる情報を開示する必要があるのか」という演繹的な思考に基づいて改良せずに、ただ単純に「そういうもんだ」と思って漫然と運用してきたからではないかと思う。

非常に端的な言い方がある。「アホ」である。

西洋列強に伍するために形だけ整えた猿真似根性が、150年ほども経ってその上に苔、ならまだしもカビが生えたような状態なのであろう。度し難い。

 

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以前別記事でも書いたが、日本は不動産の所有権に関する制度でも、いまだに異常なまでの「レッセ・フェール」のままである。19世紀近代主義のまま、時間が止まっている。民法が百ウン十年ぶりに改正されたのが、ようやく一昨年なくらいだ。

墨守といえば聞こえがいいが、要は本質を理解せずに漫然と過ごした証拠である。

 

maitreyakaruna.hatenablog.com

東京国立博物館の東洋館という、これもまた帝国主義のまねごとによる戦利品の、それも列強に比べて幾分以上に控えめな内容の、一方で下品さではいい勝負をする陳列ぶりの棚を見て思ったことは、東南アジアやインドの仏像の非線形的な進化である。白毫というものがなかったものを付けたり、螺髪というものを「発明」したり。そもそも禁忌とされた仏像そのものを、バクトリア人が「作ってしまった」りする行為は、1500年前の飛鳥寺の頃から、プロポーションや表情などのささやかなトレンドの変化程度の揺らぎの中で過ごしてきた日本の仏教美術の静態的な情勢から見れば異次元のダイナミズムである。

他方、漫画などのサブカルチャーの世界では、日本のクリエイター達は多くの価値を見出してきた。「萌え」という言葉をもはや時代遅れのものに押しやって、新しいものを生み出し続けている。こうした点では、資金力で市場を席巻する中国のゲーム業界などはいまだに「萌え」の中に留まっているとも言える。この分野では、文化の上流は日本であり、下流が中国であることは疑いの余地がない。

日本の自動車メーカーは、走行性能という「車の本質」とされるものを脱構築して、「快適性の車」「利便性の車」などの様々な価値を生み出してきた。SUVトヨタハリアーが生み出したジャンルである。乗用ミニバンはホンダのオデッセイが作り出したといってもいい。ドイツ車は、今日でもセダンやエステートで高い品質を誇るというが、上記のジャンルは逆立ちしても生み出せなかっただろう。

日本だからできない、というわけではないのである。

要は、担い手の賢さ次第、ということか。

本質を理解して、時代に合わせて本質的目標を達成できるように進化させる。本質を理解して、その本質と違う価値を見出し進化させる。これらは、物事の本質的価値、とされるものを一旦は理解した人間のなせる技である。

先述のように、無節操に自由主義の原則を曲げて、無自覚にくさびを打つ行為も軽率の極みではあるが、原理原則の本質を理解していれば、原則に戻るための修正を働かせる余地もある。

「何のためにあるのか」「何をしたいのか」を理解することなく進むのは、ただの猿真似である。

日本には、世界の最先端をクリエイトしていける分野もあるが、政治や法制度の少なからざる部分はそうではない。要するに、霞ヶ関と永田町の人間はやはり日本人の中でも三流以下だということである。