手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

アカデミズムとジャーナリズムの違いを感じた話

 

1.ようやくひと段落か

今日、だいたい論文の執筆が終わった。

国際的な信託の準拠法選択についての調査研究という内容である。

法律学の中でも最も難解で、おそらくそれゆえに不人気でもある分野、国際私法に関して自身が初めて上梓するものだ。

先日大阪で資格試験が終わったと思ったら次はこれ。

と言っても、概要は1年前に書き終えていて、それをたたき台に今年9月に国際私法の専門の大学教授を招聘してディスカッションを行い、頭の整理をした。

それを経ての論文の組み替えと見直し作業が主であった。

出稿先はメチャクチャ同業者組合内部の機関紙である。

今回で2回目。

 

2.前回との違い

前回は今年の8月か9月くらいの掲載の記事で、内容は外国為替システムと反マネーロンダリング規制についてだ。

前回と今回では、記事の内容以外にも、全く違う点がある。

アプローチだ。

今回の出稿は、基本的に学術論文として執筆している。大学院時代までの習い性で、この形式の方が執筆はし慣れている。

前回は、論文の形式を取らなかった。

どちらかというと、ジャーナル的なアプローチにした。

なぜかというと、インタビューで得た情報が多かったからである。

インタビュー先は、大手3大メガバンクから地方銀行までの、現場の若手から外為畑のエリート、国際部の幹部達だ。

彼らにインタビューすると、驚くほど内情を語ってくれた。

実際にアメリカの規制当局がどれだけ強権的な振る舞いをするか、各国の銀行同士でいかに村八分的な監視をお互いにしているか、などだ。

極めて興味深い話のオンパレードだったが、残念ながら話の8割は門外不出となった。それでも、記事としては十分有益な、通常であれば知ることのできない内容を執筆できただろう。

しかし、まさにそれゆえに、前回の記事は論文としては執筆できなかった。

なぜか。

インタビューを中心的な情報源にしており、しかもその情報源を容易には公表できないためだ。

官公庁の職員であれば問題ないが、銀行は民間企業であり、経営上の機微情報などもある。

情報源の秘匿が必要だった。

論文、特に学術論文の形式を取るものは、基本的に客観的な正しさが求められる。

ある意味自然科学における「再現可能性」と同じとは言わないが似ていて、同じ資料を渉猟して同じように論を組み立てると、矛盾なくその論旨が成立する、ということが求められる。

客観性、再現可能性という点で、情報源は全て明かす必要がある。

ここが、論文の強みであり、限界である。

論文は、秘匿されるべき取材源から得た情報を公開することには向かない。

公表できる取材源に基づく新情報に基づく論述か、既知情報を再構成するかしかない。

 

3.前回の執筆時に編集担当が言ってきたこと

前回の記事を出稿した時、編集担当者が事前閲読(査読とまでは言えない)して、論文とは言えないという理由で掲載に若干難色を示した。

別に論文でなければ掲載できないというコードはないし、このままいくということで押し切った。

私自身、論文として書いたつもりはなく、より分かりやすく読みやすいように、また情報源の秘匿の観点からも、「雑誌記事」的なアプローチ、つまりジャーナリズム的アプローチで書いた。イメージとしては、週刊ダイヤモンドよりは硬く、新幹線で売られているWedgeよりは少し軽く、であった。

どうも編集担当者は、論文でなければならないという頭の硬さがあるようだが、前述のように論文的なアプローチでは表現し得ないものがある、ということを理解することが重要である。

過去にどの銀行が何で処分を受けたかの詳細情報など、論文形式で全て出典を明らかにしてかけるだろうか?

表現の目的は、表現の手段と常に一心同体である。

小説でこそ書かれねばならないこともあるし、論文でなければならないこともある。

ジャーナリズムでなければならないこともある。

 

横山秀夫クライマーズ・ハイは、御巣鷹山事故をめぐる報道に従事した地方紙記者の葛藤を描いた傑作だ。横山自身が上毛新聞の記者であった頃の事実も交えている。

小説だからこそ描ける、「あの時」の真実があるのだと思う。

 

ナボコフの淡い焔は、学術論文の形式をとった狂人の精神を表現した小説だ。

全編の詩と、後編の詩を注釈した論文の形式を取っている実験的作品だ。

表現したい内容と、それを達成するための表現方法を意識的に選び取る、ということが重要であるが、あまりこうしたことを国語教育で聞いた覚えがない。

小説と学術論文と報道の違いは何か、など。

何度も言うが、こう言う肝心なことを教えずに上辺だけああしろこうしろと言うから絶望的に面白みを感じられない教育カリキュラムになるのである。

教えられていなくとも、それくらい自分で思い至れよ、担当編集者。

閑話休題

取材源を秘匿した上で情報を広く行き渡らせるためにこそ、ジャーナリズムの自由度の高さがものを言う。

他方、ジャーナリズムは自由であるがゆえに、発信者に大きな責任が伴う。

取材源を秘匿して守る責務がある一方、取材源の秘匿ができることをいいことに容易に捏造ができてしまいもする。

代表的な例として、朝日新聞による従軍慰安婦に関する捏造報道は日韓の現代の国際情勢に計り知れない影響を与えていることも事実である。

立場的に反対、というか一周回って案外お隣さん同士かもしれない産経新聞なども、非常に質の悪い飛ばし報道などが散見される。

今回、論文という今まで持ってきた縛りを解いて、ジャーナリズム的アプローチで執筆したことで、その自由度の高さとともに、そのもたらす誤った全能感と、それに容易に溺れる愚かな記者のあろうことを理解するに至った。

さて、今回出稿する記事は、結論部分こそ実務家としての視点に基づくエッセイになっているが、中盤の学術的検討の骨子の部分はゴリゴリの学術論文である。

それも、法律を専門とする者でさえ、学術的専門教育を受けていなければ全く歯が立たない、特殊かつ難解な高峰、国際私法を検討対象としている。

前回「アカデミックではない」と言った編集担当者にはさぞご満足いただけることだろう。まさか、執筆者にアカデミズムを求めておいて、内容の半分も理解できない、などという恥晒しなことはあるまい。

反応が実に楽しみだ。