1.新潟市散策
初めて、新潟市という町に行き、泊まり、食べ、歩いた。
いい街である。
魚もコメも美味しく、街並みも散策に適しており、景色もよい。
特に、新潟の誇りがそうさせるのか、レストランや食堂のご飯が非常にうまく炊かれている。コメの良さのみならず、炊き方もしっかりしているようだった。
2.新潟の街の成立の経緯
新潟という、城下町でもなく寺社勢力の宗教都市でもない街が、江戸時代には日本海最大の港湾として存在した経緯を知りたかった。
ということで、新潟市歴史博物館に行ってみた。
非常にユニークな成り立ちの街であることが分かった。
先述の通り、もともと寺社と中心とした街(長野や奈良、伏見など)ではなく、城下町でもなく、江戸時代も藩政の中心都市ですらなかった町が、なぜここまで栄えたのか?
きっかけは、二つの河川の河口ということのようだ。
上記のウェブサイトでも説明されるが、もともと阿賀野川と信濃川は河口を同じくし、いまの信濃川河口から放出していた。
その河口の東岸に、古代に沼垂柵(ぬたりのき)という柵が置かれ、これがこの地域の港湾の始まりとされる。
東岸側は、東から流れてくる阿賀野川の水運の河口の終着地という位置づけであった。
その後、架線の流域の変化などの中で、西から流れてくる信濃川流域の水運の終着地点として、いまの新潟町ができた。
沼垂は今でも新潟駅などのある、新潟の中心地である。
中世末期には、上越・中越を支配する長尾あるいは上杉の河口における権益が新潟に、東の阿賀野川流域の下越を治める新発田氏の権益が沼垂に、それぞれ確立される。
これは江戸期に入っても同じで、新潟町は長岡藩領、沼垂は柴田藩領となった。
いずれも譜代の6~8万石クラスの、譜代としては大きな藩の支配地であった。
しかし次第に新潟の港の方が発展し、中心軸は新潟に移った。
18世紀前半の享保期に、新発田藩が新田開発のために阿賀野川が海の近くで大きく蛇行する場所の砂丘地に堰を切ってしまい、さらに雪解け水で堰が決壊すると、現在の阿賀野川河口ができてしまう。現在のように、信濃川と阿賀野川が別の河口を持つに至る。
すると、もともとの両河川河口(現信濃川河口つまり新潟市)の水量が減少、阿賀野・信濃両河川の水流で押し流していたはずの土砂が新潟港周辺で堆積するようになった。
このため、沼垂地区は完全に港湾機能を失い、新潟も河口の水深が浅くなる。新潟は、明治期に日米修好通商条約等で開港を約束した港の一つであったが、水深が浅く蒸気船が入港できないなどの理由で西欧からは良港とみなされず、実際の開港も神戸・横浜・長崎・函館などに遅れること10年以上、明治新政移行後であった。
ちなみに、新潟港は江戸期のほぼ全期を通じて長岡藩領であったが、19世紀初頭に、本来ならば長崎・琉球経由でしか入れてはいけない中国産品を密貿易する一大拠点に新潟がなっていたことが露見し、懲罰の意味も込めて長岡藩領から召し上げられ、幕府直轄地として明治を迎える。
以上のように、新潟は純粋な貿易港湾都市であり、大阪や江戸のような城郭都市でも、奈良や長野のような寺社勢力の中心都市でもなかった。
しかも、歴史的経緯を見ていると無理に堰を開削した挙句河口が変わっちゃったり、フレンチコネクションよろしく密輸の一大拠点にしちまって幕府の大目玉食らったり、割とやっていることがアグレッシブでファンキーである。
同じ港町であれば、長崎は少し似ている。しかしあの都市は松浦党のような海賊勢力の拠点として近世以降有力になったのに対して、新潟は古代ヤマト王権期からほぼ純粋な港湾都市として一貫して存在してきた。そうした点でより似ている港町は、神戸かもしれない。平氏政権期に福原の津として栄えたが、ここも藩政の中心というわけではなかった。いずれにしても、純粋な港町一本槍で形成されてきた街という意味では、結構まれな成り立ちの街と思われる。
3.散策
右に見える高層ビルは朱鷺メッセという公共施設である。巨大コンベンションホールを持ち、G7財務大臣会合の予定地らしい。
沼垂地区と古町地区は明治時代になるまで対岸の都市で、橋もかかっていなかった。
萬代橋は、両町を結ぶために明治期に建築されその後架け替えられてきた。
奥に見える洋館風の尖塔のある建物群が、旧新潟税関と現新潟市歴史博物館である。
新潟の夜景を撮影してみた。
三脚とレリーズを持って行ったのは、まさにこのためである。
幸い晴天に恵まれたため、夜景もきれいに撮影できた。