鶴ヶ城から少し離れた御薬園という庭園である。
ここでは薬草栽培が盛んにおこなわれ、高麗人参なども植えられていた。
徳川吉宗は、享保の飢饉後青木昆陽らを通じてサツマイモ等のコメ以外の作物の生産を推奨する。その中で行ったのが、高麗人参の栽培の研究であった。
当時朝鮮半島や中国でも、高麗人参は自生するものを採集するのみで、栽培技術は確立されていなかった。
幕府の試験農園での10年に亘る研究の結果、高麗人参の栽培に成功、吉宗は栽培方法を秘術とせずに公開し、種を配って全国の有志に栽培を奨励した。
こうして全国に分け与えられた種は「御種」とされ、もって高麗人参は御種人参と呼ばれた。
御種人参の生産を軌道に乗せたのは、大山の麓の親藩・松江藩と、この会津磐梯の麓にある同じく親藩・会津藩であった。