手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

ヴィンランド・サガ(第一期)は、もはや世界文学の域に達した

 

ヴィンランド・サガ第一期スコア

1.アニメーション技術面 55.5 60  
1)キャラクター造形(造形の独自性・キャラ間の描き分け) 10 10  
2)作り込みの精緻さ(髪の毛、目の虹彩、陰影など) 10 10  
3)表情のつけやすさ 10 10  
4)人物作画の安定性 8.5 10  
5)背景作画の精緻さ 8.5 10  
6)色彩 8.5 10  
       
2.演出・演技      
声優 155 170  
1)せりふ回し・テンポ 10 10  
2)主役の役者の芝居(表現が作品と調和的か・訴求力) 10 10  
3)脇役の役者の芝居(表現が作品と調和的か・訴求力) 9 10  
映像      
4)意義(寓意性やスリル)のある表現・コマ割り 10 10  
5)カメラアングル・画角・ボケ・カメラワーク 9 10  
6)人物表情 10 10  
7)オープニング映像 8 10  
8)エンディング映像 8 10  
音楽      
9)オープニング音楽      
作品世界観と調和的か 8 10  
メロディ 8 10  
サウンド(ヴォーカル含む) 8 10  
10)エンディング音楽      
作品世界観と調和的か 10 10  
メロディ 10 10  
サウンド(ヴォーカル含む) 10 10  
11)劇中曲      
作品世界観と調和的か 9 10  
メロディ 9 10  
サウンド(ヴォーカル含む) 9 10  
       
3.ストーリー構成面 70 70  
1)全体のストーリー進捗のバランス 10 10  
2)時間軸のコントロール 10 10  
3)ストーリーのテンションの保ち方のうまさ(ストーリーラインの本数等の工夫等) 10 10  
4)語り口や掛け合いによるテンポの良さの工夫 10 10  
5)各話脚本(起承転結、引き、つなぎ) 10 10  
6)全体のコンセプトの明確性 10 10  
7)各話エピソードと全体構造の相互作用 10 10  
       
  280.5 300 0.935

93.5%・・・Sランク

SSランク・・・95%以上

Sランク・・・90%以上95%未満

Aランク・・・75%以上90%未満

Bランク・・・60%以上75%未満

Cランク・・・45%以上60%未満

Dランク・・・30%以上45%未満

Fランク・・・30%未満

 

1.評価

アニメの評価基準としては、Sランクにならざるを得ない。

しかし、作品自体の内容の濃密さ、高度さ、スケールの大きさ、端正さ、などなどどの指標をとっても、そこらのアニメ作品とは比較にならない大傑作である。

おそらく、NHKのどの大河ドラマも、この作品の「真の歴史大河」としての完成度にかなうことはない。

それどころか、ノーベル文学賞受賞者のうちのいくつかの作品をすらも蹴散らすくらいのレベルである。

この作品の凄さは、キリスト教、ノルド神話、アルトゥリウス(アーサー王)の伝説という神話・宗教に仮託された思想と、ローマ文明、アングロサクソンキリスト教、デーンのイングランド侵略という人の営み、戦争の歴史の重層性を見事に物語の基幹ストーリーとして昇華したことである。

これはすべて、原作者の漫画家・幸村誠がいかに天才的な作家かを示している。

 

2.時代背景

西暦1006年、11世紀初頭の、イングランドを中心とした北海地域である。デンマーク王スヴェン1世は、イングランドに侵攻し蹂躙していた。

このころのデンマークは完全にはキリスト教化されておらず、戦士と呼ばれる王の兵や傭兵、海賊のヴァイキングたちは、北欧神話の言い伝えのもと、果敢に戦って死に、ヴァルキリー(ドイツ語ではワルキューレ)に導かれて天井の楽園・ヴァルハラに過ごすことを目標とし、誇りとしていた。

ブリタニアは、カトリックに教化されたアングロ・サクソン人イングランド、ローマの文化を受け継ぐケルト人のウェールズ、そしてそれらを蹂躙するデーン人が入り乱れていた。

 

3.トールズとトルフィン

アイスランドの寒村に住むトールズは、かつてはデンマーク最強の戦士団の将で、戦鬼=トロルとあだ名された戦士であった。

子を得てから戦いに意味を見出せなくなり、戦闘中に脱走、妻で戦士団の長の娘であるヘルガとアイスランドに逃れた。

アイスランドで生まれたのが、長男トルフィンである。

 

トルフィン

トールズは、かつて脱走した戦士団「ヨーム」の長・フローキに探し出され、アイスランドからイングランドの戦場を向かうよう指示される。徴兵である。イングランドへ向かう途中、フローキの差し金で送られたヴァイキング・アシェラッド兵団に襲撃され、村から連れてきた徴用兵と、案内役の船乗りレイフを守るため、自らの首を差し出す。フローキは、脱走したトールズへの私怨から、徴兵と偽っておびき出し、彼を殺させたのである。

生前、トールズは「本当の戦士に、剣は要らない」といった。

彼は、守りたい者のために自らを差し出し、自らの死をもって子を、他者を守った。

目の前で父を殺されたトルフィンは、憎悪に燃えてアシェラッド団の船に乗り込む。その後幾度も復讐のための決闘をアシェラッドに願い出つつ、兵団と行動を共にするようになる。

トルフィンは、トールズを殺したアシェラッドと、共依存関係になっていく。

 

トールズ

船乗り、レイフ

レイフという男は、生前トールズの下に繁く寄港した船乗りだ。アメリカ大陸まで到達したことがあったという。実際に、この時代以前からノルド人がアメリカ大陸に到達していたと考えられている。

レイフは辿り着いた先で、厳寒の冬もなく、実り多く、奴隷もおらず、平和に暮らせる広大な土地を見つけた、とトールズやトルフィンに語って聞かせ、アメリカンインディアンからもらった羽飾りの冠も見せていた。

彼は、かの地をヴィンランドと呼び、逃れるべき恐怖も、圧政も、戦乱も貧困も、そこにはない、と語った。

トルフィン、生前のトールズに、いつかまたヴィンランドへと向かう旅に、今度はともに出ようと語った。

しかし、である。

トールズは殺され、復讐しか見えなくなったトルフィンはアシェラッド団とともに消えてしまった。

 

4.アシェラッド、あるいはルキウス・アルトゥリウス・カストゥスという男

登場人物のクレジットの順番からして、主人公はトルフィンである。幼くして海賊に偉大な戦士であった父・トールズを殺され、その後復讐のために海賊についていき、いつしか海賊の首領と共依存関係となる。

しかし、この大河作品第一章の主人公の一人は、トルフィンの父の敵・アシェラッドである。

アシェラッド

このアシェラッドという男こそ、この物語を体現するといってもいい存在である。

彼は父をノルドの豪族の長、母を奴隷に持つ、ノルド豪族の庶子であった。

母は、父がウェールズを略奪した際に誘拐され奴隷とされた。出自はアルトゥリウス王の血統を引くウェールズの小王国の王族であった。

アシェラッドには、忌むべきデーンの蛮族の血と、高潔なるローマ文明の継承者・アルトゥリウス王の末裔の「青き血」が混ざっていた。

彼はデーンの海賊の首領として、イングランドで蛮行を繰り返す。62人の村を襲い、脱走者以外すべてを惨殺したこともあった。

彼の野蛮な血はしかし、その野蛮さへの憎悪ゆえにこそ、彼を蛮行に駆り立てた。

アシェラッドは、イングランド人を侮蔑していた。

イングランド人は、アングロ・サクソン人、つまりはゲルマン人である。

500年前、ゲルマン人の大攻勢を前にローマ軍の将軍アルトゥリウスが必死に守ったブリタニアの、敵であった。

そしてまた彼は、デーン人を憎悪していた。

母をウェールズから拉致し奴隷にして、自分を産ませ、病を得てからは厩で飼った。

その母の苦しみを、悲しみを見て、自ら奴隷の子として育ったのがアシェラッドである。

母は彼に言い聞かせた。アルトゥリウス公は、遠い西の果ての永遠の園・アヴァロンで、戦で得た傷を癒しておられる。必ずやこの世界を終末から救わんと、いま一度ブリタニアを救済しにまみえたもう、と。

アルトゥリウスは今、遠い地上の楽園にあり、いつか我々は彼に救われる、これが、この作品の支柱の一つである。

彼は、二人の人間に、アルトゥリウスの再来を幻視する。

一人は、トールズであった。

謀殺のための襲撃の最中、彼の「本当の戦士に、剣は要らない」という在り様に、真理への導き手、楽土への先導者の素養を見た。

しかし、彼が自らの命を差し出して他者を守る思いを知り、惜しみつつ彼を手にかけた。

いま一人は、クヌートである。

神の愛の無慈悲に憎悪し、地上にこそ楽園を築こうと決意する。そのために身命を賭ける王子を、真のブリタニアの王にすべく担ぐ。

そんなアシェラッドは、クヌートとともにデンマーク王本営・ヨークへと帰還して、王から古郷ウェールズの平和か、クヌートの命かどちらかを選べと迫られ(王は第二王子クヌートを謀殺しようとしていた)、自ら殺される覚悟で、王を惨殺した。

アシェラッドの乱心、王の暗殺

自らの命をなげうって、ウェールズと、そしてクヌートを守ったのである。

余談であるが、アシェラッドという男の描き方は、非常に細かい。

例えば、トールズ襲撃戦で、トールズと一対一の決闘をする際の口上の話である。

彼は正々堂々の決闘をノルドの神・トール神に誓う。

しかし、戦闘中にトルフィンを人質にとったり、谷の上から矢掛けするなどの違反行為をする。

しかし、トールズの死の間際に至って彼の真の戦士としての器量を知り、トールズの「自分の命と引き換えに、他の者を助けてほしい」という願いには「わが先祖アルトゥリウスに誓って」と宣誓する。

この物語前半の、アシェラッドの出自が明かされない段階ですでに、アシェラッドにとって本当に守るべきことの宣誓には、彼の誇るべき血統がものをいうのである。

また、彼の戦闘装束は、以下のとおりである。

アシェラッドの戦闘装束

ノルド人の服の上にまとっているのはローマ軍軽装歩兵や補助兵(属州兵)、近衛兵が身に着けたとされる革製胸甲、ローリーカ・ハーマータである。さらに彼が持つ剣も、少し長いがローマ軍正規兵が持ったグラディウス刀に似ている。

彼がクヌート王子を伴ってウェールズのモルガンクーグ王国に入国する際も、注目すべきシーンがある。モルガンクーグの将軍(おそらくインペラトール、又はマギステルなどの古式の職名であろう)グラティアヌスに書簡を送る際、渡し船の船頭は、彼の甲冑を一瞥して、書簡を届けることに了承するのである。

船頭の視線の先には

アシェラッドの革製胸甲

装束から、船頭がアシェラッドのことを、ローマにゆかりのあるものと悟ったシーンである。

さらに、アシェラッドが王を暗殺する際の、御前会議の場での姿を見てみる。

御前に出でるアシェラッド

彼がまとっているのはトーガである。

ローマ人が公式の場で着用する正装である。

そしてこの後、彼はデンマーク王に対して自らの真名・ルキウス・アルトゥリウス・カストゥスを名乗り、自らをブリタニア王位の正統継承者と宣言して斬りかかるのである。

こうした考証の端々にまで、アシェラッドという男の出自と、彼の中にあるアイデンティティが描きこまれていることに、舌を巻かざるを得ない。

 

5.もう一人の主人公、デンマーク王国第二王子・クヌート

クヌート

クヌートは実在のデンマーク王(当時は第二王子)で、後にイングランドノルウェーデンマークにまたがる一代限りの大帝国・北海帝国を築く。

彼は王家の中でもキリスト教に教化された者で、神父を側に仕えさせていた。

この作品の中でも出色のエピソードは、アニメ第18話、「ゆりかごの外」である。

クヌートの指導者としての覚醒、というよりもはや「啓示」を受けた奇蹟の瞬間を描いたものである。

先述のように、彼を連れて軍団本営へと向かう途中、アシェラッドは村落を襲撃、口封じに全員を惨殺する。それでも追っ手を振り切れず、目の前で自らの身柄をめぐってヴァイキングどもが乱れ争い殺しあう。

これほどの惨劇が繰り広げられる中で、なぜ神は黙しておられるのか?

そう、彼に与えられた試練は「神の沈黙」であった。

争いの最中にあって彼は、神の「愛」の本当の意味を知る。

それは「与えること」である。

自らは望まず、ただ無償で人に自らの命を、肉を、与える。それこそが愛である。よって、人は死して屍を曝して、世界に自らのすべてを与えて、初めて愛を体現するのだ、と。生は死によって完成し、生ある限り愛には辿り着きえない、と。

その無情さに思い至った彼は、それによってこそ、王となる決意をする。

神は天上より人の行いを見ている。しかし、愛がただ与えることなれば、如何な無惨も、残酷も、悲劇も、もはや神はお救いにはならない。

迷妄に地上を這いまわり、生きることの意味すら持てず惨劇を繰り広げる地上の人に、もはや神は無益である。ならばこそ、自らが地上の王となり、地上に迷える者どもに生きる意味を与え、王道楽土をこそ在らしめよう。

見事なまでの、アンチ・クリストゥスの宣明である。

想像だが、この250年後の、同じくノルマンの血を引くシチリアの王にして神聖ローマ帝国皇帝・フェデリーコ2世(フリードリヒ2世)も、あるいはこうした感覚を持っていたのかもしれない。彼は教皇から反キリスト的と幾度も非難されている。

クヌートは、自ら地上に楽土を築く覚悟をする。

それこそ、トールズやレイフにとってのヴィンランドであり、アシェラッドにとってのアヴァロンである。

ちなみに、神の沈黙というテーマは、以前ヘンリク・シェンキェーヴィチの「クオ・ワディス」と遠藤周作の「沈黙」の比較レビューで言及した。

 

maitreyakaruna.hatenablog.com

本作の、身も蓋もない言い方をすれば、「神に見切りをつけて自分で何とかする」宣言は、キリスト者ではできない発言であろうし、そういう意味で神の沈黙を前にした者の、本当に差し迫ったリアルの諸相の一例を描いていると思う。少なくとも、このどうしようもない神の沈黙に対するリアリズムに比べれば、「クオ・ワディス」がなんと牧歌的なことか。

 

6.3つのストーリーの連繋

トールズが残した「本当の戦士に、剣は要らない」という言葉は、彼が命を差し出して人を守ることで現実のものとなった。

アシェラッドは、最後に自らの誇りにかけて、真の王者たるべきクヌートと、そして古郷ウェールズを守るために、自らの命を差し出した。

クヌートは、愛はただ与えることであり、人はそれを死すことによって成し遂げると悟った。

何かのために、自らの命すら差し出す者を、真理を得た者として描き、かつそのような悲劇、不条理を見ない楽土をこそ人は欲するとして、未だ見ぬ楽園をーあるいはヴィンランド、あるいはアヴァロン、あるいは地上の王国-追い求めようとし始めた者たちを描いたのが、ヴィンランド・サガ第一章であった。

最終話のサブタイトルは"End of the Prologue"である。

この先に、楽園を求める人たちの、永く苦しい旅路が続くのであろう。

アニメでは現在、第二章が描かれ始めた。

地上の苦しみのその先へ、誰が追い求め、誰を導くのか。

 

仙台駅前 朝スナップ

途中宿泊地の仙台で、朝10時の新幹線に乗るまで、駅にチケットを買いに行ったりするためで歩いた。

仙台駅前

今回は、Olympus OM-D E-M5 Mark IIIを持って行った。

軽いので荷物に入れての負担が少ない。

写り映えを見て、スマホがいくら高性能の映像エンジンを積んでも、光学的な性能は絶対的に一眼の方が上である、と思う。

仙台駅前ペデストリアンデッキ

最近は、豊橋駅などの地方都市にペデストリアンデッキが増えたが、こうした者の走りが仙台駅名ように思う。詳しくは調べていないから知らんが。

メインストリート

仙台城へ向かうメインストリートである。

商店街

商店街に活気がある町のようで、さすがに大都市だけあってロードサイドストアの浸食を容易に許すような街ではない。

写真の話をすれば、信号待ちをする人の陰翳がきれいに出ている。特に白いコートの女性。地面や道の向こう側のガラス面など、きめの細かい陰翳表現ができるカメラであることに感心する。

仙台朝市

ホテル近くの仙台朝市まで来て、終わり。

 

大寒波の中北海道から大阪まで鉄道で行った話 その2

ようやく仙台である。

仙台駅前

12時半に出て、綱渡りで最後の「定刻通り」の鉄道を乗り継ぎ、19時に仙台着である。

ダイワロイネットホテルの仙台駅西口に宿泊した。
面積のわりにうまく作られていて、広さが感じられた。

ナイストイレ

バス

17㎡の部屋面積で、トイレと風呂をセパレートにできるのはなかなかすごい設計技術である。

仙台駅

翌日10時、仙台駅出発。

東京駅

仙台から東京の距離も時間も、だいたい東京から名古屋までと同じくらいである。

本来、東北新幹線はやぶさの方が東海道新幹線望みより速いはずだが、大宮から東京駅まで最高時速130キロの徐行をさせられるため、結果線形の悪い東海道新幹線と同じくらいの所要時間となる。

クライアントから出張費は十分にもらっていたので、体力回復のためグリーン席を利用した。個人的には、東海道山陽のそれより東北のグリーンの方が好みである。

東海道新幹線

東京駅でおなじみの清掃の時間である。

車窓から、浜名湖

富士山は雲に隠されていたが、その先の浜名湖から晴れていた。

豊橋

豊橋市民でないとわからん風景である。

新幹線が速すぎて、かつ振動も大きく水平が保てないため、まともに撮れたのは小池町近く、小野工務店のビルのある当たりだけであった(超ローカル)。

関ヶ原

関ヶ原から、伊吹山を望む。

伊吹山

表伊吹は雪が少ない。

奥伊吹は、順調に積雪しているのだろうか?

奥伊吹スキー場は、客数日本一を数年連続して記録する人気のスキー場である。

一度視察に行ってみたいものだ。しかし、行くにはスタッドレスタイヤとスキーギア・ウェアがいる。面倒である。

琵琶湖1

だいたい彦根のあたりである。

雲がかかっているのは、琵琶湖対岸の比良山系、蓬莱山や武奈ヶ岳あたりか。

琵琶湖2

豊郷~近江八幡にかけてのあたりと思われる。

琵琶湖3

同じ辺り。

スマホカメラ(メカシャッターでなく電子シャッター)のため、高速移動中の車窓の風景は、「ローリングシャッター歪み」というのが出ている。下の手すりのようなものが斜めに歪んでいるのがわかろう。

京都駅新幹線コンコース

子供のころから親しんだコンコース。

京都駅烏丸口が新築されても、ここは変わらず昔のままである。

近鉄京都駅

小綺麗にしているが近鉄である。

樟葉駅

水平がガタガタの写真である。

15時に到着。

仙台から新幹線を乗り継げば、わずか5時間でここまで着く。驚くべき速さである。

鉄道と航空機のシェアが50:50になる分水嶺は所要時間4時間とされ、「4時間の壁」といわれる。

東京からだと北は新函館北斗、西は広島とされる。

しかし、だ。

私の実家から重い荷物をもって伊丹に行き、何分前までにどこを通れなどとごちゃごちゃ言われて飛行機に乗り、再び町はずれにある仙台空港に降ろされ仙台市外へ向かう、というのであれば、5時間擁しても新幹線の不が楽ではないか。

まぁ、航空券の方が安いかも知らんが。

帰りに、快速エアポートから小樽の海岸線の車窓風景

 

大寒波の中北海道から大阪まで鉄道で行った話 その1

全く面白くもない。

正直、仕事では二度とやりたくないことである。

以前はGWに帰省のルートとして敢行したため、楽しく過ごせた。

しかし今回は、仕事で出張のための移動である。

気が重いったらない。

maitreyakaruna.hatenablog.com

 

maitreyakaruna.hatenablog.com

 

maitreyakaruna.hatenablog.com

 

maitreyakaruna.hatenablog.com

倶知安駅

飛行機は予定日の前日時点で結構の可能性がアナウンスされたため、キャンセル。

朝11時過ぎに駅で、夕方5時に出て2日がかりで京都までのチケットを買おうとすると、「12時半の列車が最後。そのあとは運休」といわれ、急遽12時半のJRで出発した。

函館本線

函館本線

車内は外国人観光客でいっぱいであった。

長万部方面行の列車になぜこれほど多く乗るのか。

後でわかったが、半数は函館、残りは私と同じく新幹線に乗り、さらに新幹線組の3分の1が盛岡で、別の3分の1が仙台で、残りはおそらく東京へ向かったと思われる。

察するに、ニセコとの共通リフト券とJR乗り放題のJRパスを使って、盛岡→安比高原、仙台→蔵王などに向かったのではないか。

長万部

長万部で下りた外国人観光客は一人もいなかったと思われる。

通り過ぎられる状況を打開できるか。

長万部駅・特急北斗

ホームにいるのはほぼすべてニセコから乗った外国人ツーリストという状況であった。

新函館北斗駅はやぶさ

長い鈍行の後、少しの特、そしてようやく新幹線である。

どうでもいいが、新函館北斗駅の新幹線乗り換え口の駅員が非常に態度が悪い。

列に並んで切符の行き先の変更を待っていると、呼ばれたのでその駅員のいる窓口に進んで用件を伝えると、迷惑そうにここの窓口では無理だから隣に行け、と不愛想に言うわ(呼んだのお前やんけ)、隣の窓口に行ってチケット変更の手続きをし始めると、結局元の窓口にもう一度呼ばれてごちゃごちゃ言われるわ・・・。

他の客に対しても、サービスではなく命令するような口調である。

不快感をもよおす客も少なからずいたようである。

個別に訊いてくれたら名も教えよう。ネームバッジは記憶してある。

北海道新幹線に配属されるのだからそれなりに選りすぐりなのか、と思ったが、推察するに多少英会話ができる、という程度の、英語以外(下手すりゃ英語も不満足)何もできない人材を配属していると思しい。あんなのを置いていて恥ずかしくないのだろうか、JR北海道は。

いや、もはや火の車で恥も外聞もないのか。

 

冬の終わり(幻視)

クソさぶい。

今朝は晴れたので、外に出るとマイナス16度だった。

1月半ばを過ぎてくると、晴れた朝が出現しやすくなるように思う。

以前2月後半までは「厳冬期」だが、晴れた朝が見られるようになると、「ピークは過ぎたか?」と感じられる。

願望も入っているかもしれないが・・・

マイナス16度の朝、琴平の田園地区の農道

これから先、2月くらいになると夜に晴れ間がのぞくことも出てくるのではないか(例年ならば)

冬の澄んだ空にオリオン座が浮かぶのを撮影できるのは、実はこの2月くらいしかチャンスがない。

農道から望むニセコ連峰方面

烈日に照らされながらも凍てつく

羊蹄山麓から東側の山並み(名前は知らん)

今週は、寒気が丸1週間停滞して山麓としても異例の寒さだった。

水道が凍った事例も多いらしい。

早く雪がでろんでろんに溶けるようにならんかなあ

ぼっち・ざ・ろっく!視聴完了後レビュー

 

1.スコア

1.アニメーション技術面 56 60  
1)キャラクター造形(造形の独自性・キャラ間の描き分け) 8 10  
2)作り込みの精緻さ(髪の毛、目の虹彩、陰影など) 8 10  
3)表情のつけやすさ 10 10  
4)人物作画の安定性 10 10  
5)背景作画の精緻さ 10 10  
6)色彩 10 10  
       
2.演出・演技      
声優 165 170  
1)せりふ回し・テンポ 10 10  
2)主役の役者の芝居(表現が作品と調和的か・訴求力) 10 10  
3)脇役の役者の芝居(表現が作品と調和的か・訴求力) 9 10  
映像      
4)意義(寓意性やスリル)のある表現・コマ割り 9 10  
5)カメラアングル・画角・ボケ・カメラワーク 10 10  
6)人物表情 10 10  
7)オープニング映像 8 10  
8)エンディング映像 9 10  
音楽      
9)オープニング音楽      
作品世界観と調和的か 10 10  
メロディ 10 10  
サウンド(ヴォーカル含む) 10 10  
10)エンディング音楽      
作品世界観と調和的か 10 10  
メロディ 10 10  
サウンド(ヴォーカル含む) 10 10  
11)劇中曲      
作品世界観と調和的か 10 10  
メロディ 10 10  
サウンド(ヴォーカル含む) 10 10  
       
3.ストーリー構成面 70 70  
1)全体のストーリー進捗のバランス 10 10  
2)時間軸のコントロール 10 10  
3)ストーリーのテンションの保ち方のうまさ(ストーリーラインの本数等の工夫等) 10 10  
4)語り口や掛け合いによるテンポの良さの工夫 10 10  
5)各話脚本(起承転結、引き、つなぎ) 10 10  
6)全体のコンセプトの明確性 10 10  
7)各話エピソードと全体構造の相互作用 10 10  
       
  291 300 0.97

 

得点率97% SSランク

SSランク・・・95%以上

Sランク・・・90%以上95%未満

Aランク・・・75%以上90%未満

Bランク・・・60%以上75%未満

Cランク・・・45%以上60%未満

Dランク・・・30%以上45%未満

Fランク・・・30%未満

 

2.総評

1)語りの視点

主人公・後藤ひとり(ぼっちちゃん)の視点からの語り。

2)ストーリーラインの本数

ぼっちの主観の一時系列で展開。

3)時間の流れ

各エピソードをピックアップしてミメーシスで描く。

 

3.感想

1)全世界のぼっちに刺さるエレジー(?)

個人的に刺さりまくる作品だった。

思えば、子供のころ、特に小学生時代はほぼ意識不明状態であった記憶しかなく(要は記憶がない)、高校生の頃もかなりあやふやである。

学校生活が楽しくなかった私のような陰キャにとって、主人公の「ぼっち」の在り様はほぼ我がことである。

ぼっちの、作中で頻繁に訪れる意識不明状態や錯乱状態を見るにつけ、きっと自分も精神状態的にはこういう感じだったんだろーなー、と痛く共感した次第である。

2)概略

この作品のあらすじとしては、コミュニケーションが苦手で学校になじめず友達ゼロの主人公・後藤ひとり(通称ぼっち)が、中学1年のときに見た音楽番組がきっかけで、「ちやほやされたいから」とギターを始め、猛練習の末高校一年生にしてプロ並みの演奏技術を手にするも相変わらず友達はできず、しかしある日下北沢のアマチュアバンドのリーダー・虹夏にギターを背負っていたところを呼び止められ、行きがかり上助っ人でライブ出演を果たして(しかし人前に出られないことから、全身完熟マンゴーの段ボールをかぶって出演)からそのバンドに参加するようになり、少しずつ世界が広がっていく、というような話である。

話としてはよくある成長譚・サクセスストーリーなのだが、この作品の特徴は、なんといってもぼっちのヤバさである。

3)後藤ひとり(ぼっち)というヒロインのヤバさ

教室でぼっちのぼっち

教室でぼっちのぼっち2(机に突っ伏する・・・)

見よ、この我々陰キャの心を抉るような生々しい描写を(笑

奇跡的にバンドに誘ってくれた子(虹夏)から、そのバンドのホームであるライブハウスStarryでのバイトに誘われた際も、気が弱いゆえに断り切れずうなずいてしまったぼっちは、バイトを休むため氷風呂に入って風邪を引こうとする。

氷風呂。いや顔色よ

また、バンド仲間からSNSを始めてみたら?と勧められたらそれだけで・・・

ぼっち意識不明の図

ぼっち錯乱の図

そしてイマジネーションの彼方へ(昇天

自分がインスタ(作中ではイソスタ)など始めようものなら、友達がいないがゆえにアップした写真にいいねをつけてもらえないことへの鬱屈で余計に沈み込み、末にとんでもない事件を起こしてしまうのではないかと過剰に心配し、そうした自分が恐ろしくなって発狂するのである。

とにかく、ぼっちは想像力が豊かである。

4)この作品の強さの源

そんなぼっちに手を差し伸べる人たちがいる。

彼女が加入した「結束バンド」のメンバーや、人気インディーズバンドのベーシスト・きくりさん達である。

ところで、この作品のポイントは、以下の点をきちんと押さえていることである。

1,ぼっち自身が、何年も一日六時間以上わき目もふらずギターを練習して、実力を獲得してきた

2,ぼっちが勇気を出して小さな一歩を踏み出すことが、人とかかわるきっかけになった

3,ぼっちに手を差し伸べる人たちも、ただ無根拠に優しいわけではなくて、彼女の才能を認めて、彼女の踏み出そうとする一歩を後押ししている

4,ぼっちを支える人たちは、それなりにぼっちに対して厳しい(笑

つまり、ぼっちには正当に評価されるべき実力があるし、少し大げさに言えば「幸せになる権利」があるのである。

引っ込み思案で怖がりのぼっちがなかなか踏み出せなかった「陽の当たる世界(明るい世界)」に、時にやさしく、時に厳しく導く人たちが描かれる。

5)「けいおん!」から「ぼっち・ざ・ろっく!」へ

ここに、14年近くも前の大ヒットバンドアニメ「けいおん!」が持っていた、ひたすら「優しい世界」のなかで癒しを求める作風とは全く異なった、あるいはその次のステージを明確に示す、アンサーとしての「ぼっち・ざ・ろっく!」の意義があるように思う。

(ちなみに、「けいおん!」も「ぼっち・ざ・ろっく!」も同じマンガ雑誌「きらら」の作品である)

maitreyakaruna.hatenablog.com

以前の記事でも言及したが、「けいおん!」は京都アニメーション人間性の再獲得(ある意味でルネサンス)のプロジェクトの途上の作品で、そこではひたすら無菌室のような緩やかな世界の中でゆっくりと時間を過ごすことが描かれた。

優勝劣敗の世に疲れたヲタクどもの避難シェルターのようなものであった。

京アニはその後、「氷菓」を経て「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」に到るまでの長いルネサンス運動の道のりを歩んだわけだが、「ぼっち・ざ・ろっく!」も期せずして、こうした運動と似たベクトルをもっているように思う。

「優しい世界」から「陽の当たる世界」へ、といったところである。

6)ぼっちを取り巻く、あまり優しくない世界

ぼっちを取り巻く人たちはみな優しいが、同時に彼女への愛ゆえに(笑)厳しくもある。

バンドリーダーの虹夏は、やれ店でバイトしろ、ライブやるためにチケット最低何枚売ってこい、などと、コミュ障陰キャにはしょせん無理な要求をさらりとする。

バンド活動資金獲得のため海の家でのバイトを提案され、即座に闇金に走ろうとするぼっち

ベーシストのりょうは、喫茶店で一緒に飯を食った後で、金がないからと支払いをぼっちにたかる(既成事実)。

昼飯たかる奴

たかられる奴

別の人気インディーズバンドのリーダーきくりは、チケットノルマに途方に暮れるぼっちに泥酔状態で絡んできて、その場のノリで無理矢理ぼっちと路上ライブをやりはじめようとする。

わざわざ自分の眼の前に倒れに来るアル中

負のスパイラル

お酒を飲むと幸せのスパイラルに(白眼)

ノリで路上ライブに巻き込まれるぼっち

完全にアル中のやべぇ奴である。

しかし、皆とかかわる中で、ぼっちは少しずつ自分が恐れていた世界に足を踏み出し、少しずつ強くなっていく。世界には、自分を見てくれる、受け入れてくれる人たちがいることに気づく。

路上ライブ、覆面人気ギタリストユーチューバーの本領発揮

きくりセッション大成功(酒抜けた?

初の路上ライブで付いた、ぼっちのファン1号2号

この作品は、「優しい世界」に安住する物語ではなく、「自分はこの世界にいても大丈夫だ」と知っていく物語である。

世界は無菌室ではないし、閉じた優しい世界にはいつまでもは居続けられない。

世の中は厳しいし、ぼっち自身も無条件に認められているわけではない。たゆまない努力に裏打ちされたギタープレイの技術と、毎回負の想像力を爆発させながらもアルバイトをしてみたり、ライブに出てみたりして、世界に関わっていこうと努力している。

だからこそこの作品は、予想外に多くの支持を獲得し、2022年秋アニメで最も国内再生回数が伸びたのであろう(あの大作「チェンソーマン」などを抜いてである)。

この作品は、間違いなく、「けいおん!」などの「麻酔系」から次のステップへと進んだ、面白くも愛おしいぼっちをコミカルに描きながら、見る人を奮い立たせる「覚醒系」コンテンツであるといえる。

漫画原作ストックは十分にある。

昨年夏の大ヒット作、リコリス・リコイルと並んで2022年を彩った代表作である今作も、次回作が期待される。

おまけの写真

下鴨神社の写真のおまけと、今日の羊蹄山など

下鴨神社 長露光

8分の1秒のシャッタースピードで、歩行者をブレさせた。

例の山の、今日のお姿

今日は珍しく晴れた。

今シーズン初めてスキー場に行ったが、混むであろう人気のスキー場は避けて、一番遠いところにしたら、案の定客数は多少少なく、初心者コースならば並ばずにリフトに乗れた。

ほぼ一年ぶりのスキーのため、無理せず1時間ほどで切り上げた。

しかしそれにしても、外国からの観光客のマナーの悪さが目立った。話していたことばから、中つ国からつを抜いた国かそこのゆかりの者たちであろう。

チケット売り場で人が並んでいるのを尻目に何食わぬ顔で横入りをする、リフトの列でも他の客も構わず自分らのグループで椅子を囲い込む、など。

コロナ禍前は毎度見られた光景であるが、やはり戻ってくるとこれはこれで閉口する。

まことに下品である。

かつて、京都の尊敬する同業者の先輩から、飲み屋談義でいわれたことがある。

先生:「外国人クライアント相手に仕事をするときにはな、卑劣にならなアカン!」

自分:「非情とちゃうんですか?」

先生:「ちゃうねん。ええか?非情とちゃうで、卑劣や!、卑劣にならなアカンねん!」

ちなみに相手も私も下戸のため、酒は飲んでいない。

しらふで酩酊(泥酔?)している二人の会話である。

スキー場にて、シビアな外国人のクライアント相手には、改めて卑劣に(笑)なる決意を新たにした新年初滑りであった。

卑劣にならなアカン(何が