以下の文章は、タイトルに出ている各作品のネタバレが含まれます。
また、呪術廻戦「渋谷事変」編に対する批判的考察という立脚点を敢えて軸に据えています。批判を受け付けない方は閲覧を控えることをお勧めします。
1.呪術廻戦「渋谷事変」編の戦闘描写に見た空虚感
集英社が鬼滅の刃の次に仕掛けた巨大プロモーションは、呪術廻戦という作品についてであった。
主人公の虎杖悠仁が取りこんだ両面宿儺の力をめぐる話を軸に据えつつ、それを取りまく、史上最強の呪術師・五条悟、かつての彼の盟友であり呪詛師に堕ちた夏油傑(故人)などの、平安の世から続く呪術世界の「パワーバランスが崩れつつある現代」を描く和風ファンタジーの大作である。
平安末期から中世にかけての「呪術的な中世」の日本、神仏混淆の密教的世界観を舞台背景としてうまく取り込んでおり、面白い作品である。
同時に、アニメ制作会社MAPPAの超絶的なアクション描写も話題を呼んでいる。
しかし、特に渋谷事変編の40話前後から先毎回繰り広げられるハイカロリーな戦闘描写が、どうしても筆者には印象に残らなかった。
いくら激しく動こうが、超絶的なダイナミズムであろうが、こちらの閾値を超えた状態が常態化してしまい、かえってマンネリ化してしまったように思う。
筆者は、良作は1話あたり2回視聴することが多いが、渋谷事変の大バトルシーンが佳境になって以降は、1話1回の視聴のみに切り替えたくらいである。
常に高いテンション(緊張感)を保ち、筆者に強い印象を残してきた他の三作品、「進撃の巨人」と「Fate/Zero」、「コードギアス」と比較しつつ考えてみた。
2.「進撃の巨人」のもたらす恐怖、緊張、ミステリー
昨年秋に、ついに進撃の巨人というマンガ・アニメ史に残る金字塔となる作品のアニメ版が完結した。
この作品の持つ群像劇としてのレベルの高さ、一人一人の人間性・思想・信条とそれに突き動かされる振る舞い、心情の繊細な動きの丁寧な描写なども一級品で他の追随を許さない。
しかし、この作品の他に代え難い凄みは、人類を、国家を、文明を、特定の思想に偏ることなく、ありのままの残酷でかつすこし優しい現実を、過度の希望も絶望も一切許さない冷厳さで描き切ったことにある。
これを真骨頂としつつも、この桁外れの超大作が絶大な支持を得て、視聴者を最終回まで牽引した立役者は、なんといっても戦闘シーンである。
壁を突破して大攻勢をかけてきた巨人との、壁内人類の存亡をかけた戦い
意志を持った女型の巨人との熾烈な戦いとその正体
王政府による巨人の歴史の秘匿とクーデター
獣の巨人に率いられ統率された巨人の大群との雌雄を決する局地戦と甚大な犠牲
マーレでのエレンの奇襲作戦と戦槌の巨人をめぐる戦い
そして最終話に到る、「天と地の戦い」
100話近いエピソードがありながら、戦役、戦闘としては以上のものとあと少しに集約される。
しかし、そのいずれもが時間を忘れさせるテンションを保ち、次に何が起こるのか全く予測できない状況の連続である。
渋谷事変と比較して、進撃の巨人の全戦役、戦闘状況は、圧倒的に密度が濃い。
この両者の差は何か?
3.戦闘のストーリー、緊張感の差
単純に、緊張感の差である。
渋谷事変でも前半の、五条悟と呪霊花御、同漏瑚の戦いは、お互い手の読み合いであり、それなりの緊張感があった。五条が0.2秒の領域展開という奇策の一手を打ち、その後の隙を狙った夏油が獄門疆を開門する場面などは、非常に戦闘のストーリーとして質の高いものであった。
一方で、その後の脹相と虎杖のバトル、禪院甚爾の復活と暴走、両面宿儺と漏瑚や魔虚羅大将の戦闘などは、こうした「戦闘のストーリー」が見られない、「アニメーター作画見本市」となっていた感が否めない。
大抵のアニメのバトルシーンでは、ストーリー性を付与するための、あるいは視聴者の心情をコントロールするための手法として、「過去譚を挟む」、「複数の戦闘場面等を同時進行させる」などが用いられている。
どちらも、ストーリーラインを複層化して物語のテンションを保つ定石である。
他方、「呪術廻戦 渋谷事変編」では、こうした手法は一部用いられるものの、おそらく意図的に上記のような「作画展覧会」に傾倒し、これを強行したと思われる。
そもそも、上記の過去譚や複数の戦闘の同時進行という複層化は有効ではあるものの、「進撃の巨人」の戦闘シーンの異質な緊迫感、もはや通奏低音とまで言っていいほどの異常な緊張感は、この程度のもので生まれはしない。
「進撃の巨人」の異様なテンションを生んだ要因は、おそらく戦闘シーンそのものの中にきちんとストーリーを落とし込み、かつそれが謎に満ちた不気味さ・希望と絶望のジェットコースターを内包するミステリー・ホラーだからであろう。
これは、実はスピルバーグのエンターテインメント作品にも通底するものと思われる。ジュラシック・パークを見ればよい。
登場人物が茫然として立ちすくむその後ろから、ぎろりと大きな目をティラノサウルスがむける。
ヴェロキラプトルがこちらに顔を向ける寸前に、物陰に隠れて一命をとりとめる。
こうした一つ一つが、スペクタクル・シーンそのものが持つストーリーである。
ちなみに、ジュラシック・パークのようなアクション・シーンが見られる印象深い作品として、スタジオ「オレンジ」によるCGアニメ「宝石の国」がある。監督の京極尚彦氏(ラブライブ!の監督)は、膨大なリファランスから優れた映像表現を構築する能力が高い。
翻って「呪術廻戦」は、第1話から一貫して、あたかも「マトリックス」がCG技術見本市であったのと同様に、ストーリー性でいかに緊迫感を生むかを考えるよりも、作画見本市としての立ち位置に寄っている。
「進撃の巨人」に話を戻そう。
この作品は、スピルバーグ作品などともまた異質であるが、戦闘シーンにおける特有のストーリーを持つ。
それは、多くの場合謎に牽引されている。
突如として巨人の力を発現したエレン。
巨人と何か?
エレンが手にした「王の力」を狙うベルトルド、ライナー、そしてアニ。
彼らの出自は、目的は?
何に恐怖し、何に突き動かされて、壁内人類の殲滅などという凶行を推し進めようとするのか?
その狂信的な目的のためには手段も選ばない恐ろしさ。
底なしの、謎に包まれた巨人の力。
それに対してあまりにも無知な調査兵団と壁内人類の、圧倒的な力の差。
調査兵団たちは、常に極限の選択を迫られ、時に歓喜し、しかしそれが一瞬で絶望に突き落とされ、それでもしぶとく食い下がっていく。
調査兵団の大規模索敵陣形やその中に潜む「敵」の存在、巨大樹の森での女型巨人鹵獲兵器。
それを上回る女型巨人の硬化能力、巨人を呼ぶ能力。
進撃の巨人とリヴァイの戦闘力による陽動と緻密な連携。
それを圧倒的に上回る獣の巨人の巨人操作能力、大量破壊を可能とする投擲能力。
調査兵団の、いわば「戦術的な」最高到達点を、常に予想を超える「戦略兵器」としての能力で上回っていく巨人。
この両者の攻撃の「被せ合い」こそが、戦闘そのもののストーリーである。
その極限状況下で、「常にどちらかを選ぶ」ことを迫られ、選択し、それが果たして正解だったのかと苦悩し続けるリヴァイやエレン。
「何かを得るためには大切なものを犠牲にする」判断を自らに強い続けるエルヴィンやアルミン。
極限下での想像を絶する過酷な世界観を獲得していく登場人物の思索までも、この戦闘描写の中で描かれている。
進撃の巨人などの超一級のバトルエンターテインメント作品では、戦闘シーンのストーリーラインの複層化などという基本以上に、戦闘シーンそのものの物語性をいかに確保するかが考え抜かれていることがわかる。
ここが、おそらく「渋谷事変編」との大きな差ではないかと思われる。
いまからもう12年も前の作品になるが、これも「進撃の巨人」と同様、戦闘シーンそのもののストーリー性を確保した作品である。
この作品のポイントとして、各登場人物の譲ることのできない大切なもの(万能の願望器に託すべき願い)をかけた戦い、語弊を恐れずに言えばいわゆるメロドラマとしての特性が挙げられる。
衛宮切嗣という男の追い求めた理想とそれに到るための手段を選ばない姿勢
セイバー アルトゥリア・ペンドラゴンの、あくまで高潔であろうとする姿
この二つは、ともに聖杯を求めつつもそのプロセスにおいて絶対に相容れないという悲劇を描き出す。
他にも、
衛宮切嗣とケイネス・エル・メロイの、魔術的能力に劣りながらもどこまで汚く強いあり方と、高踏的で傲慢な強さの戦い。
アルトゥリアとディルムッドの、ローマンケルトの英雄同士の、互いを認め合いながらも令呪に束縛され不本意な戦いを強いられる不条理。
自らと人類を未踏の地へと導こうという壮大な野心を胸に、東の海オケアノスを目指し戦うイスカンダル(アレクサンドロス)と、世界はすべて自らのものと豪語し、アレクサンドロスの希望を打ち砕くギルガメシュ。
他にもいくつものマッチアップが、それぞれの理想、目的、手段、運命に絡めとられ、引き裂かれていく姿を描いている。
これら人それぞれの在り様を戦闘描写の中で描き切ったからこその、戦闘描写の説得力でもあった。
特に衛宮切嗣と言峰綺礼に関しては、その魔術師・聖職者らしからぬ暗殺者・テロリストとしての異質な発想・戦術・戦い方が視聴者の予想をはるかに超え、より一層の魅力をもたらした。
これも、ルルーシュとスザクという相容れない存在が、仮面を外せば親友で、仮面をかぶれば不倶戴天の敵というメロドラマであり、この点ではFate/Zeroと通底するものがある。
ナイトメアの戦闘能力、ルルーシュの絶対服従のギアスとそれを用いた謀略、それを超える局面打開力を持つスザクのランスロット。
さらにコーネリア、黎星刻、ディートハルト、シュナイゼルなど、常に戦力・戦術・戦略の読み合いの応酬であり、その中にギアスという異能が絡むことで「そういうのもありか」というトリックが組まれ、視聴者を驚かせる。
さらに、ギアスが生んだ悲劇であるユーフェミアやシャーリーの死など、登場人物を引くに引けない状況に追い込んでいく。
コードギアスも、戦闘シーンの中で常に目まぐるしくストーリーを展開させ、高いテンションを保っている。
6.振り返って
以上のように振り返ってみると、「呪術廻戦 渋谷事変編」は戦闘シーンそのものに傾倒しすぎたきらいはある。
「呪術廻戦0」や、「呪術廻戦 懐玉・玉折編」では、五条と夏油の確執が描かれるなど、上記でいうメロドラマ的な要素が比較的強くドラマとして面白かったが。
呪術廻戦に関しては、本来的に物語をけん引できるの人物が、アニメ放送終了段階ではやはり五条悟(と夏油傑?)に偏っており、その点が物語としての強靭さの少なさになっている点は否めない。
今後次第ではあるが、たとえば、
呪霊の目指す世界、両面宿儺の野望、伏黒恵、乙骨憂太の立ち位置
なぜ呪力の漏出は日本だけで顕著なのか?
なぜ現代において平安末期以降衰退していた呪力がインフレーションを起こし、五条悟の誕生をきっかけにパワーバランスが崩れつつあるに至ったのか?
がより明確になってくれば、あるいは大きく作品のスケールも変わるかもしれない。