手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

2024冬はエルニーニョ現象

北海道に住んで間もなく5年、司法書士になってからのキャリアの半分はこちらでの年月となった。

5シーズン冬を過ごしているが、毎年コンディションの違いよよく感じるのは、雪という目に見える指標があるからか。

今年はエルニーニョ現象年で暖冬となっているが、印象としては2020年初頭(コロナが流行り始めたアノ年)よりははるかにマシである。

2020年はすべてが足りなかったように思う。

降雪日数、降雪量自体が少なく、かつ暖かくて雪が解け、さらに1月の下旬に雨が降るなどという異常事態だった。

その点今年は、異常な暖かい日があるものの雪は降っている。

今週など2月末というにもかかわらず夜は連日マイナス10度台である。

街中やスキー場に雪はあり、いまのところ普通に滑れる。

しかし、雪が少ないとは言われており、3月にはなくなってしまうのではないかと懸念されてもいる。

まぁそれなぁそれで車も運転しやすいし、自転車も乗れるしいいんだけどね。

羊蹄山

ただ、雪は降るものの、それをアテにするリゾート産業というのは非常に不安定なものである。

地球がむせて咳をしただけで人類は滅びる。

 

つくばからの帰りに浅草を散策

つくばに講演で出張に行った帰りに、乗り継ぎで浅草で降りた。

商店街

朝10時前

朝10時前に行ったため、人通りがまだピークではなかった。

思いのほか人通りは多くなかったので助かった。

飲み屋は朝から

朝10時には、既に飲み屋が開いていた。

戦争時とスカイツリー横構図

同縦構図

浅草寺に行ったのは初めてだった。

コンクリづくりの増上寺と違い、寺らしい寺だった。

本堂

開基の由緒

ここの由緒書きで面白かったのは、浅草寺浅草神社神仏分離で分割されてしまったことをしっかり書いていることだ。

毎日が縁日

縁日の出店が普通の土曜日でも出ていた。

神社では猿回しに人垣ができていた。

京都や奈良の寺と違い、昔からの都会の娯楽や賑わいの中心地として、現役で息づいている。

路地

日常の中にスカイツリー

 

2024正月、下賀茂・城南宮・宇治を散策

正月の帰省の際の写真。

いつも通り、

八坂神社

下鴨神社

⇒城南宮

の順番で巡回した。

日の並びのためか、正月三が日が終わっても多くの参拝客がいた。

賀茂神社

下賀茂では、例年通り焚火があった。

鳥居をくぐった先の焚火

城南宮は、他の二社に比べてすいていた。

城南宮

 

翌日宇治に行った際の写真も少し。

宇治橋から

縣神社参道から分かれた宇治橋通り

京都駅に買い物に行った際の、相変わらずの京都駅の風景

京都駅

 

呪術廻戦「渋谷事変」編の戦闘描写に見た空虚感「進撃の巨人」との違い

 

以下の文章は、タイトルに出ている各作品のネタバレが含まれます。

また、呪術廻戦「渋谷事変」編に対する批判的考察という立脚点を敢えて軸に据えています。批判を受け付けない方は閲覧を控えることをお勧めします。

 

1.呪術廻戦「渋谷事変」編の戦闘描写に見た空虚感

集英社鬼滅の刃の次に仕掛けた巨大プロモーションは、呪術廻戦という作品についてであった。

主人公の虎杖悠仁が取りこんだ両面宿儺の力をめぐる話を軸に据えつつ、それを取りまく、史上最強の呪術師・五条悟、かつての彼の盟友であり呪詛師に堕ちた夏油傑(故人)などの、平安の世から続く呪術世界の「パワーバランスが崩れつつある現代」を描く和風ファンタジーの大作である。

平安末期から中世にかけての「呪術的な中世」の日本、神仏混淆密教的世界観を舞台背景としてうまく取り込んでおり、面白い作品である。

同時に、アニメ制作会社MAPPAの超絶的なアクション描写も話題を呼んでいる。

しかし、特に渋谷事変編の40話前後から先毎回繰り広げられるハイカロリーな戦闘描写が、どうしても筆者には印象に残らなかった。

いくら激しく動こうが、超絶的なダイナミズムであろうが、こちらの閾値を超えた状態が常態化してしまい、かえってマンネリ化してしまったように思う。

筆者は、良作は1話あたり2回視聴することが多いが、渋谷事変の大バトルシーンが佳境になって以降は、1話1回の視聴のみに切り替えたくらいである。

常に高いテンション(緊張感)を保ち、筆者に強い印象を残してきた他の三作品、「進撃の巨人」と「Fate/Zero」、「コードギアス」と比較しつつ考えてみた。

 

2.「進撃の巨人」のもたらす恐怖、緊張、ミステリー

昨年秋に、ついに進撃の巨人というマンガ・アニメ史に残る金字塔となる作品のアニメ版が完結した。

この作品の持つ群像劇としてのレベルの高さ、一人一人の人間性・思想・信条とそれに突き動かされる振る舞い、心情の繊細な動きの丁寧な描写なども一級品で他の追随を許さない。

しかし、この作品の他に代え難い凄みは、人類を、国家を、文明を、特定の思想に偏ることなく、ありのままの残酷でかつすこし優しい現実を、過度の希望も絶望も一切許さない冷厳さで描き切ったことにある。

これを真骨頂としつつも、この桁外れの超大作が絶大な支持を得て、視聴者を最終回まで牽引した立役者は、なんといっても戦闘シーンである。

壁を突破して大攻勢をかけてきた巨人との、壁内人類の存亡をかけた戦い

意志を持った女型の巨人との熾烈な戦いとその正体

王政府による巨人の歴史の秘匿とクーデター

獣の巨人に率いられ統率された巨人の大群との雌雄を決する局地戦と甚大な犠牲

マーレでのエレンの奇襲作戦と戦槌の巨人をめぐる戦い

そして最終話に到る、「天と地の戦い」

100話近いエピソードがありながら、戦役、戦闘としては以上のものとあと少しに集約される。

しかし、そのいずれもが時間を忘れさせるテンションを保ち、次に何が起こるのか全く予測できない状況の連続である。

渋谷事変と比較して、進撃の巨人の全戦役、戦闘状況は、圧倒的に密度が濃い。

この両者の差は何か?

 

3.戦闘のストーリー、緊張感の差

単純に、緊張感の差である。

渋谷事変でも前半の、五条悟と呪霊花御、同漏瑚の戦いは、お互い手の読み合いであり、それなりの緊張感があった。五条が0.2秒の領域展開という奇策の一手を打ち、その後の隙を狙った夏油が獄門疆を開門する場面などは、非常に戦闘のストーリーとして質の高いものであった。

一方で、その後の脹相と虎杖のバトル、禪院甚爾の復活と暴走、両面宿儺と漏瑚や魔虚羅大将の戦闘などは、こうした「戦闘のストーリー」が見られない、「アニメーター作画見本市」となっていた感が否めない。

大抵のアニメのバトルシーンでは、ストーリー性を付与するための、あるいは視聴者の心情をコントロールするための手法として、「過去譚を挟む」、「複数の戦闘場面等を同時進行させる」などが用いられている。

どちらも、ストーリーラインを複層化して物語のテンションを保つ定石である。

他方、「呪術廻戦 渋谷事変編」では、こうした手法は一部用いられるものの、おそらく意図的に上記のような「作画展覧会」に傾倒し、これを強行したと思われる。

そもそも、上記の過去譚や複数の戦闘の同時進行という複層化は有効ではあるものの、「進撃の巨人」の戦闘シーンの異質な緊迫感、もはや通奏低音とまで言っていいほどの異常な緊張感は、この程度のもので生まれはしない。

進撃の巨人」の異様なテンションを生んだ要因は、おそらく戦闘シーンそのものの中にきちんとストーリーを落とし込み、かつそれが謎に満ちた不気味さ・希望と絶望のジェットコースターを内包するミステリー・ホラーだからであろう。

これは、実はスピルバーグのエンターテインメント作品にも通底するものと思われる。ジュラシック・パークを見ればよい。

登場人物が茫然として立ちすくむその後ろから、ぎろりと大きな目をティラノサウルスがむける。

ヴェロキラプトルがこちらに顔を向ける寸前に、物陰に隠れて一命をとりとめる。

こうした一つ一つが、スペクタクル・シーンそのものが持つストーリーである。

ちなみに、ジュラシック・パークのようなアクション・シーンが見られる印象深い作品として、スタジオ「オレンジ」によるCGアニメ「宝石の国」がある。監督の京極尚彦氏(ラブライブ!の監督)は、膨大なリファランスから優れた映像表現を構築する能力が高い。

翻って「呪術廻戦」は、第1話から一貫して、あたかも「マトリックス」がCG技術見本市であったのと同様に、ストーリー性でいかに緊迫感を生むかを考えるよりも、作画見本市としての立ち位置に寄っている。

進撃の巨人」に話を戻そう。

この作品は、スピルバーグ作品などともまた異質であるが、戦闘シーンにおける特有のストーリーを持つ。

それは、多くの場合謎に牽引されている。

突如として巨人の力を発現したエレン。

巨人と何か?

エレンが手にした「王の力」を狙うベルトルド、ライナー、そしてアニ。

彼らの出自は、目的は?

何に恐怖し、何に突き動かされて、壁内人類の殲滅などという凶行を推し進めようとするのか?

その狂信的な目的のためには手段も選ばない恐ろしさ。

底なしの、謎に包まれた巨人の力。

それに対してあまりにも無知な調査兵団と壁内人類の、圧倒的な力の差。

調査兵団たちは、常に極限の選択を迫られ、時に歓喜し、しかしそれが一瞬で絶望に突き落とされ、それでもしぶとく食い下がっていく。

調査兵団の大規模索敵陣形やその中に潜む「敵」の存在、巨大樹の森での女型巨人鹵獲兵器。

それを上回る女型巨人の硬化能力、巨人を呼ぶ能力。

進撃の巨人とリヴァイの戦闘力による陽動と緻密な連携。

それを圧倒的に上回る獣の巨人の巨人操作能力、大量破壊を可能とする投擲能力。

調査兵団の、いわば「戦術的な」最高到達点を、常に予想を超える「戦略兵器」としての能力で上回っていく巨人。

この両者の攻撃の「被せ合い」こそが、戦闘そのもののストーリーである。

その極限状況下で、「常にどちらかを選ぶ」ことを迫られ、選択し、それが果たして正解だったのかと苦悩し続けるリヴァイやエレン。

「何かを得るためには大切なものを犠牲にする」判断を自らに強い続けるエルヴィンやアルミン。

極限下での想像を絶する過酷な世界観を獲得していく登場人物の思索までも、この戦闘描写の中で描かれている。

進撃の巨人などの超一級のバトルエンターテインメント作品では、戦闘シーンのストーリーラインの複層化などという基本以上に、戦闘シーンそのものの物語性をいかに確保するかが考え抜かれていることがわかる。

ここが、おそらく「渋谷事変編」との大きな差ではないかと思われる。

 

4.Fate/Zero

いまからもう12年も前の作品になるが、これも「進撃の巨人」と同様、戦闘シーンそのもののストーリー性を確保した作品である。

この作品のポイントとして、各登場人物の譲ることのできない大切なもの(万能の願望器に託すべき願い)をかけた戦い、語弊を恐れずに言えばいわゆるメロドラマとしての特性が挙げられる。

衛宮切嗣という男の追い求めた理想とそれに到るための手段を選ばない姿勢

セイバー アルトゥリア・ペンドラゴンの、あくまで高潔であろうとする姿

この二つは、ともに聖杯を求めつつもそのプロセスにおいて絶対に相容れないという悲劇を描き出す。

他にも、

衛宮切嗣とケイネス・エル・メロイの、魔術的能力に劣りながらもどこまで汚く強いあり方と、高踏的で傲慢な強さの戦い。

アルトゥリアとディルムッドの、ローマンケルトの英雄同士の、互いを認め合いながらも令呪に束縛され不本意な戦いを強いられる不条理。

自らと人類を未踏の地へと導こうという壮大な野心を胸に、東の海オケアノスを目指し戦うイスカンダルアレクサンドロス)と、世界はすべて自らのものと豪語し、アレクサンドロスの希望を打ち砕くギルガメシュ

他にもいくつものマッチアップが、それぞれの理想、目的、手段、運命に絡めとられ、引き裂かれていく姿を描いている。

これら人それぞれの在り様を戦闘描写の中で描き切ったからこその、戦闘描写の説得力でもあった。

特に衛宮切嗣言峰綺礼に関しては、その魔術師・聖職者らしからぬ暗殺者・テロリストとしての異質な発想・戦術・戦い方が視聴者の予想をはるかに超え、より一層の魅力をもたらした。

 

5.コードギアス

これも、ルルーシュとスザクという相容れない存在が、仮面を外せば親友で、仮面をかぶれば不倶戴天の敵というメロドラマであり、この点ではFate/Zeroと通底するものがある。

ナイトメアの戦闘能力、ルルーシュの絶対服従のギアスとそれを用いた謀略、それを超える局面打開力を持つスザクのランスロット

さらにコーネリア、黎星刻、ディートハルト、シュナイゼルなど、常に戦力・戦術・戦略の読み合いの応酬であり、その中にギアスという異能が絡むことで「そういうのもありか」というトリックが組まれ、視聴者を驚かせる。

さらに、ギアスが生んだ悲劇であるユーフェミアやシャーリーの死など、登場人物を引くに引けない状況に追い込んでいく。

コードギアスも、戦闘シーンの中で常に目まぐるしくストーリーを展開させ、高いテンションを保っている。

 

6.振り返って

以上のように振り返ってみると、「呪術廻戦 渋谷事変編」は戦闘シーンそのものに傾倒しすぎたきらいはある。

「呪術廻戦0」や、「呪術廻戦 懐玉・玉折編」では、五条と夏油の確執が描かれるなど、上記でいうメロドラマ的な要素が比較的強くドラマとして面白かったが。

呪術廻戦に関しては、本来的に物語をけん引できるの人物が、アニメ放送終了段階ではやはり五条悟(と夏油傑?)に偏っており、その点が物語としての強靭さの少なさになっている点は否めない。

今後次第ではあるが、たとえば、

呪霊の目指す世界、両面宿儺の野望、伏黒恵、乙骨憂太の立ち位置

なぜ呪力の漏出は日本だけで顕著なのか?

なぜ現代において平安末期以降衰退していた呪力がインフレーションを起こし、五条悟の誕生をきっかけにパワーバランスが崩れつつあるに至ったのか?

がより明確になってくれば、あるいは大きく作品のスケールも変わるかもしれない。

日本の衰退の原因のどれくらいが日本人自身にあるのか

 

1.ニセコにルイヴィトンのポップアップストアができた件についてのForbesの記事

forbesjapan.com

久々によくまとまった記事を読んだ。

この記事は誰か記者が書いたものではなく、識者の対談を文字起こししただけなので、残念ながらよくまとまっているのはForbesの記者が優秀だからではない。対談した識者が、特に後半の安西氏が、非常にフェアな見識をお持ちであったことによる。

繰り返すが、文屋が誉められているわけではない。

まぁ、連中の実力はあいも変わらずだね、といったとこか。

凋落著しい文屋(凋落する前の栄華があったかは知らん)へのとばっちりはさておき、記事の内容に戻る。

指摘されているのは、

外資が、

日本で、

外国人富裕層相手に商売すると、

結局日本に富は残らないんじゃね?、場所貸して搾取されてるだけなんじゃね?、

という話である。

実はこの論点、過去記事で私も指摘している。

 

maitreyakaruna.hatenablog.com

 

外資が外人相手に日本で商売するのは結構だが、問題はそこで生まれた付加価値のどの程度が日本に残るのか、である。

この点中国は改革開放以降伝統的に、自国に富を残すために、外資系メーカーに合弁事業を要件として求めてきたわけである。

 

2.日本人はアホなのか?

付加価値を日本国内に残すために、政策によらずに取れる方策といえば、せいぜい労働分配率を上げることだし、まず初めにこれをやるべきである。

しかしここで問題が生じる。

日本人が、労働条件闘争をやらないのである。

実際、私の周りを見ても外国人経営者やセールス担当者がサラリーを持っていき、日本人は下働きという外資系企業は非常に多い。

宅建業者における宅建取引士のように、法令上の資格者として必要とされている職種も、相対的に安く使われている印象である。

アホなのか?と思ってしまう。

雇用するは外資系企業で、欧米のスタイルで転職していくのが前提で雇っている。であれば、雇われる側は条件交渉をして、安ければやめてよそに行けばいい。それで会社が困ろうが知ったことではなかろう、迷惑をかけてやればいいだけである。

しかし、それを日本人の被用者はやらない。

実直といえばそうだが、はっきり言ってナイーブ過ぎはしないか。

 

3.日本の正社員の実態

社会学者の小熊英二氏が、興味深い指摘をしている。

【社会学】小熊英二「日本社会に隠された 「二重構造」を見抜け」by LIBERARY(旧名称:リベラルアーツプログラム for Business) - YouTube

2000年前後のいわゆる就職氷河期から非正規雇用が爆発的に増えて以降も、実は正社員の総数自体は大きくは変わっていないというのである。

農業従事者や自営業者が減り、それとほぼ同数の非正規雇用者が増えたという。

尤も、世代別の正規・非正規の割合には触れていないため、就職氷河期の世代の正規採用が集中的に抑制されていたか否か、という点については、脇に置いている点は注意を要する。

ただ、以上からまず推測されるのは、特に大企業を中心とした正社員は、若年層が新しく正社員採用されるのを抑制することで、自らの地位を守ってきたであろうことである。

実際に、90年台の不況以降、労使は強調して賃金の抑制をしてきた。

運命共同体である正社員が自らの賃金の抑制に積極的になるのは、雇用に流動性がなく、正社員はその会社にしがみつく傾向が強いからであろう。

日本には労使間の対立というものは、特に大企業には実質的には存在せず、実態は「正社員」という運命共同体でしかなかった。

メーデーなどは、結局ただのセレモニーに過ぎない。

官公労国鉄労組などはじめ、大企業労組なども伝統的に政治闘争うつつを抜かし、末には労働貴族なる謎の身分まで生まれ、多くはまともな条件闘争をしてこなかった。

こうしたことが労使協調、もとい正社員運命共同体の独断による賃下げ、非正規の劣悪な労働条件を生み、安値競争のアクセルをふかしてしまい、デフレを進行させてきたとの推測は成り立つ。

労使の条件闘争をしない「正社員運命共同体」ともいうべきぬるま湯の労使関係が続いたことが、「労使交渉などするものではない」という空気(=日本人が大好きな同調圧力)を産んできたのではないか。

近年は安値競争を産んだ「少ない需要と多い供給」というパワーバランスが崩れ、供給が細ってきた。

安値で働き付加価値を生まないことが常態化した日本企業の判断の鈍さ、品質の劣化、革新性の乏しさなども目につくようになってきた。

いい加減、労使で熾烈な交渉をしてでも賃金を上げられる状況を作らなければならないが、結局それを阻んでいるのはこうした諸々の日本の慣行や制度だということに行き当たる。

 

4.追い打ちをかけるように「低度外国人材」を呼び込もうとする政府

 

で、

人手不足になる→賃金上昇圧力がかかる→経団連老害どもが嫌がる→安い外国人雇えばいんじゃね?となる→どうにもならん外国人の単純労働者を招き入れ始める(イマココ)

という状態である。

外国からの人材は迎えるべきだが、それは日本社会に今までなかった知見を入れて、活性化するためにこそあるべきであろう。

そもそも、今現在程度の外国人在留者数で拒否反応を示すような世間知らずな日本人ごとき(まぁ私も日本人なのだが。なんなら家系図によると清和天皇藤原氏の両方の血を引くらしいが、まぁようはゴリゴリの日本人ですらある)に、今以上に労働者階級の外国人流入に耐えうる耐性も寛容性もなかろう。

そんなこんなで、低度外国人材(非熟練外国人労働者)の受け入れは、賃金上昇の阻害要因であるのみならず、社会的にもトラブルを(日本人のアレルギー反応などもね)招きかねず、悪手というほかない。

なお、この点についてはさほど心配に及ばないかもしれない。

というのは、現在の日本の物価は購買力平価ベースで比較すると1970年と同等、1ドル360円時代に戻った、とのことである。

大阪万博の夢よ、もう一度!である。

気になった人は↑でも見ればいい。

当時の栄光をもう一度と言うのがいかに馬鹿げた話かよくわかるというものである。

監督がアニメ界屈指の名監督、原恵一だけあって、クレヨンしんちゃんなのにめっちゃ泣ける。

話が横に逸れたが、言わんとするところは、1970年代の日本みたいな貧しい国に、誰が好き好んで出稼ぎにくんの?って話である。

逆の立場を考えればいい。

例えばカンボジアミャンマーに日本人が出稼ぎに行って、「1000円持って帰ってきました」って、それもうただ人生詰んでるだけじゃん、という話である。

つまり、残念ながらというか安心なことにというか、どうせ外国人労働者の呼び込みには失敗する公算が大きい。

 

5.何事も場当たり的に「済ませてきた」日本人

基本的に日本人は、諸課題を解決するのではなく、なんとなく済んだことにしてきた、場当たり的に済ませてきた、というだけである。

本来、整理解雇の要件や最低賃金などは、労働政策であり、これはすなわちマクロ経済政策でもあるわけである。

同時に、外国人材の受け入れも、当然マクロ経済政策としての側面がある。

さらに上記に加えて、豪州などは積極的に外国から良質な労働者を受け入れるために、豪ドル高を意識的に許容する為替政策などすら取っている。

つまり、一見関係なさそうなバラバラな諸政策を、マクロ経済、社会政策などさまざまな切り口から総合的に見て判断している国が多い中、日本は、まぁお察しの通りだということである。

整理解雇要件など、経済政策の「け」の字もわからん最高裁判例が元になっているのだから、お話にならない。最高裁が悪いというよりも、最高裁判例の整理解雇4要件がマクロ経済政策的にまずいというなら、政治がそれを立法で是正すべきであったものを、そうはしなかったということである。ここに、正社員運命共同体の岩盤があるといえよう。

いまさら始まったことではないが、改めていろいろ非常に残念な日本社会である。

日本の昨今の閉塞状況の原因は、「非思考」「非決定」「結果追認」を繰り返してきた日本人自身に多く負っているといえよう。

そしてそれは奇しくも、太平洋戦争開戦の際も同じだったのである。

 

 

 

東京に行ったら物が安かった件

 

1.東京に出張

年末のただでさえクソ忙しい時期に、しかも北海道後志地方の山間部では風雪や氷点下の低温で移動が難しい時期に、そういう事情をわきまえない連中がやれ取引だの会議だのを東京でやるから来いという。

いっぺん逆にこっち来てみろ。

で、しゃーなしに今週火曜日から木曜日まで東京に行っていた。

ただでさえ移動や感染症対策に神経を使う今回は、一番小さいOlympusのカメラさえ持っていかなかった。

こういう時に限って、東京は馬鹿みたいに天気が良かったのだが。

しかも、今年は秋に台風が来ず、暖かい日が続いたため、都内の並木や公園の木々はまだ綺麗に色づいていたというのに。

 

2.価格

ホテルは、コロナ禍の頃からかなり上がったが、ハイシーズンの時期のように5倍10倍ということはなかった。

3倍ほどだろうか。

他方で、ニセコ(比べる対象が悪いのだが)に比べて遥かに安かったのが、食べ物である。

ニセコリゾートでは、リゾート地区ではない倶知安町の市街地地区でもランチが1000円では食べられない。

ラーメン屋やカレー屋ですらである。

しかも、目を見張るような素晴らしい味、といいうわけでもない。よくてまぁ、普通のクオリティである。

ちょうど来週、町内では初めての全国チェーンのファストフード店すき家が開店する。これが高すぎる飲食価格にインパクトを与えてくれればと思うが。

ちなみに倶知安町マクドナルドやケンタッキー、吉野家等のファストフードが存在しないのは、小樽などの近隣の都市から距離が遠く、サプライチェーンを維持できないこと、町内の土地賃料が、予想される収益とマッチしない(人口が少なく収益性が高く見積もれないわりに、地価・賃料が不相応に高い)が障害のようだ。

そんな中、今後高速道路が延伸することも見越して、すき家が先陣を切ることとなる。

話を元に戻すと、昼食の外食価格であれば、1000円を切るかどうかが境界線となる。

市ヶ谷で宿泊をしていたため、防衛省や法政大学などの近くで昼食をとった。チキンカツの定食で850円。量は多くも少なくもないが、倶知安町内であれば1200円くらいはするだろう。

夕食を、買い物に出た秋葉原ヨドバシカメラのレストラン街で食べた。アキバのギトギトのラーメン屋やカレー屋などの、油ぎった客しかいないところで油ぎったものを食べる気にはならなかったので、この町ではおそらく一番高い価格帯と思われるところに行った。

ちなみにヲタクには、キモデブかガリヒョロしかいないとされており、筆者は後者である。

蕎麦屋で、温かい蕎麦と天丼の定食を食べたが、1250円であった。

天丼はきっちり一人前で、中位のエビが3尾、キス天などが入っていて、内容はしっかりしていた。

東京の飲食店は、ニセコ地区に比べて、原材料価格が競争により安く抑えられているのかもしれない(大都市である東京の方がニセコより原材料調達費が安く済むという推定自体おかしな話だが)が、それを遥かに上回るくらいの高額の家賃がかかっているはずである。

にもかかわらず、飲食費はおそらく2−3割もニセコより安い。

他店との競合が大都市では激しいのだろうが、それにしてもかなりの差である。ニセコ地区が、やはり競争不在の環境なのかもしれない。

ちなみに、比較対象がもし大阪だったら、と考えると、その差はさらに凄いことになろう。

大阪市内の、梅田から堂島・北浜や天満などを東京の都心部と比べると、感覚的には、値段が同じならば大阪の方が食べ物の量が1−2割多いように思う。

つまり、ニセコは大阪の1.5倍食べ物が高いことになる。

人口が少ない僻地の観光地のため、飲食の値段は高く、かつ全体のレベル自体は決して高くない(腕のいい料理人が一部高級店に入るが、裾野は狭い)。

競争が起こるには市場の人口が必要なのだろう。

10月旅行兼出張 その7 奈良

 

1.奈良町

奈良市内の興福寺東大寺などの観光スポットの南隣にある、あまり知られていないが昔の趣を残す町並み、奈良町を散策した。

新潟→春日山上越高田→斑尾→軽井沢→金沢→京都(岡崎、南禅寺方面)とめぐって、この奈良が締めくくりとなる。

散策スポットとしては、以上の錚々たる面子と比べて全く遜色なく、むしろ締めくくりにふさわしいとさえいえる。

奈良町の街並み

昔ながらの古い町屋や屋敷、寺社が非常に多く残っており、京都の清水や金沢ひがし茶屋街にも勝るほどと感じられる。

全体がかつての大寺院、元興寺の境内地、寺社都市であったらしく、道の細さも近代以前のものを引き継いでいると思われる。

ネパールの窓格子

町家の一角に、大阪万博に出展されたネパールパビリオンの格子窓が移設されたものがあった。

 

2.元興寺

いまから12年ほど前、司法書士試験の1回目の受験が終わって結果発表間近の学生の頃に行って以来の、元興寺を訪れた。

以前も秋の季節、9月25日ころだったと記憶している。それまで厳しかった残暑が、ウソのように急に25度の快適な日本晴れの日だった。

今回は10月初旬だったが、同じく過ごしやすい、一点の曇りない日だった。

元興寺

以前訪れた時に撮った写真と、あえてほぼ同じ位置から撮った。

12年前の写真

上下とも、萩の葉が繁っているのがわかる。

下の写真のexif情報を見ると、2011年9月23日撮影とあった。ほぼ記憶通り。

当時はまだ、シャープのガラケーだった。

他方で、上の写真はNikon Z6/NIKKOR Z 24-70mm f4.0で撮影したもので、焦点距離約35mmである。下の写真はおそらくもう少し画角が広く、フルサイズ換算24mmくらいかと思われる。

まぁ、おんなじモノを同じようなコンディションで撮っても、色乗り、透明感(抜け)の良さ、コントラストの大きさなどは全く違う。

というか違ってもらわなくては困る。

思えば件のガラケー、この1年前(2010年)にアメリカのロサンゼルスにも持って行ったのだった。ただのケータイ電話だけれども、当時の写真はすべてこれで撮っていたのである。

思い出や思い入れというのはやっぱり、機械の性能とは関係ない。他方で同時に、もし当時からカメラを持っていて、いまと同じ現像技術(といってもショボいけど)があれば、もっときれいに記録を残せたのになぁとも思う。

萩の花と、天平の甍(知らんけど)と、蒼穹

少しずらしてもう一枚

寺といえば花である。私の印象では、寺の方が神社よりも花を植えたがるように思う。

牡丹の長谷寺、椿(五色椿)の白毫寺などなど。

彼岸花

季節も季節ということで、写真に撮るのが難しいことで有名な被写体、そして日本のアニメーターが絵に描くのが大好きな花でもある、彼岸花が見ごろだった。

彼岸花の撮影が難しいのは、おそらく花弁の真ん中に光沢があり、かつ色合いがかなり紫寄りの赤(クリムゾン系)のため、露光調整や色相調整が難しいことが原因だろうと、撮ってみて思い知らされた。

 

3.最後に

街並みの中にある千年前の建造物

奈良の街中は、これが普通の街並みである。

京都にも八坂の塔などあるが、建造物の古さでいえば奈良の方が古いものが多い(東大寺大仏殿などは頼朝の寄進のため比較的新しいが)。

まだ観光客に見出されていない、のどかな雰囲気の残った古い町並みは、今や円安で観光ブームとなった日本では貴重な風景である。

ガチの町屋なローソン

何かと思えばローソンである。

京都や金沢で、景観条例に合わせて作られた町屋風のローソンなどとはワケが違う。

マジのガチの町屋でローソンをやっている(扉も手動っぽい)。

しかし中身はただのローソンである(当然)。

面白いような残念なような。

この後は、週末に滋賀県草津で講演(そもそも当初はこのために関西に帰ってくると訂だった。ずいぶんいろいろ寄り道をした)、新大阪で一泊、翌日は伊丹空港から北海道に帰った。

 

今回の旅行で、NIKKOR Z 24-70mm f4.0は、描写能力、計量コンパクトさともに相変わらず申し分ないものの、焦点域が70mmまでしかないのがしんどく感じた。

よって、つい昨日NIKKOR Z 24-120mm f4.0を買うことに決めた。