午後1時20分。
平泉についたとたんに雨が降り出した。
平泉のおもだった遺跡は毛越寺、中尊寺、観自在王院跡、無量光院跡などで、資料館も町立平泉文化遺産センターと、岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンターがある。
いずれも歩いて回れる。
雨になるのはわかっていたし、翌日は晴れの予報だったため、まずは中尊寺に向かった。
中尊寺には林があり、雨が映える。
他方、毛越寺の庭園は広々と開けており、晴れてこそ映えるから翌日にまわす。
中尊寺に向けて、駅前通りをまっすぐ数ブロック歩いて無量光院跡を横目に見ながら左折、さらに数百メートル行くと文化遺産センターがある。
↓地図とパンフレット
https://hiraizumi.or.jp/info/pdf/hiraizumi_sekaiisan_jp.pdf
奇しくも、あるいは必然か。
後に南朝方として奥州に蟠踞した北畠顕家も、熊野と同じ太平洋側の伊勢を根拠地とする。
太平洋側の伊勢から奥州へのつながりを想起させる。
平泉は、前九年・後三年の役を経て台頭した、秀郷流藤原氏を名乗る藤原清衡により開かれた。
このように名乗って入るのだが、中尊寺の建立の経緯を示した巻物には、自らを蝦夷と名乗り、朝廷からの独立を寿いでいる。
後の日の本将軍安藤氏や、蝦夷地に影響力を行使した蠣崎氏=松前氏と同様に、蝦夷に対する顔(あるいは蝦夷としての自己認識や権威)と、朝廷に対する顔を使い分けていたのかもしれない。
文化遺産センターでは、朝廷に服属させられた被支配者としての奥州、という認識を明確に示しており、書物ではなく直に現場でみせられると、面食らうと同時に非常に興味深い視点であった。
雨の中尊寺を選んだのには、ビジュアルな要素以外にも理由がある。
芭蕉は、
五月雨を降り残してや光堂
という句を遺している。
この平泉の堂宇は五月雨などの風雨で朽ちていったとしても、この金色堂だけには降らなかったのだろうか、今も光り輝いている。
といったほどの大意である。
この風情は、雨だからこそ感じられよう。
(芭蕉は、奥の細道で奥州平泉をフィーチャーしているが、無類の木曽義仲のファンでもあったという。滅亡したものの声なき声に寄せるノスタルジーであり、安定した江戸時代だからこそ可能であった歴史回顧かもしれない。)
案の定、雨だからこその良さがある。
ところで、平泉の資料館などをのぞいてもわかるのは、藤原三代は当然としても、その他には芭蕉に対して言及するのみで、他の歴史的事象への言及はあまりない。
この他にも、例えば歌人であれば、同じ秀郷流の出であることから平泉と交流のあった歌人、西行を忘れてはなるまい。
政治・戦争の歴史でいえば、南北朝期に後醍醐天皇の南朝重心として、欧州に勢力圏を形成して京都進撃を画策した北畠顕家がある。
彼は、国守として奥州に下行して勢力圏を気付いて以来、本拠地である伊勢と奥州を股にかけて足利など北朝勢力を挟撃しようとしたのである。
こうした資料への言及もあればより面白かったかもしれない。
北海道は桜が咲き始めるか否かであったが、平泉は桜が散り際であった。
新幹線などの鉄道で南下すると、季節の移ろいが感じやすく風情がある。
中尊寺の本堂である。
中尊寺は特殊な寺のようで、本堂が寺の本体のようではあるが、中世期には、「金色堂別当」なる職があったようだ。
金色堂だけで独立した荘園経営主体だったようで、一関市に今でも原型を残す旧荘園、骨寺村などを有していたという。
金色堂の撮影はできない。
しかし、見て損はない。
わざわざ平泉に寄り道してでも見るべきである。
漆の上に金箔を張り巡らせた外観はもちろん、内装の螺鈿細工と仏像群は必見である。
あれほど全面に、それも東南アジア産のヤコウガイの螺鈿細工を施す。平安末期の物流の繁栄ぶりを感じずにはいられない。
平泉からは、多くの瀬戸常滑や渥美の焼き物が出ている。青磁白磁の類もある。
後の北畠の動員力などを考えても、太平洋側航路がかなり昔から活発に開発されていたことがわかる。