平泉で雨の中半日歩き回って、宿を取った一関に移動。
平泉にはいい旅館があるようだが、GWのため満室or高い部屋しか空いていない。
一関ならば、ビジネス客向けの旅館やホテルがある。
駅から近いのが何より助かる。
設備は古いが、親切でいいホテルだった。
部屋でかけた岩手のローカルテレビは岩手の話題で持ちきりであり、これほど話すことがあるものなのかとある意味感心する。
定食のある居酒屋などが休みだったため街中華に入ったが、意外というより案の定、美味しくいただけた。
きちんとコロナ対策の認証を取得し、間仕切りがあり、客の連絡先も聞くなど、まじめな対応で好感が持てた。
翌朝目が覚めると雪が降った後だった。
4月最終日に、岩手といえどもさすがに季節外れの雪である。
ニセコでもこの時期に降るのは見たことがない。
大変珍しいものを見せてもらった。
朝、平泉の寺があくまでは時間がある。
一関の市街地を散策した。
朝、市街地のは南外れの小高い山城、一関城の城山を登り、本丸近くの曲輪跡から、山を望むことができた。
雪が降った朝だったが、青々としている新芽が、正しく春の訪れを示している。
散策し終えたら、予定より1本=1時間早い電車(東北本線は電化されている。しかも二両連結の列車)で平泉に戻る。
毛越寺は、藤原三代の時代にはその敷地内に複数の平等院のような浄土庭園に面したシンメトリカルな堂宇が建っていたという。
今も、本堂以外にもいくつかの後世に建てられた堂宇が遺る。
その一つで、昨晩降った雪がかやぶきの屋根から解けて滴り落ちていた。
惜しくも菖蒲はまだ咲いていなかった。
これが咲いて、赤い躑躅、紺の菖蒲、緑の庭園となれば、より映えただろう。
それにしても、ネット上に上がっている写真などで見るより、実際の浄土庭園ははるかに立派だった。
多くのネット上の写真は、スマホ特有の広角レンズで撮られているせいか、茫洋として締まりのない画が多いように思う。
対して、実際に歩くとその規模は、池など平等院鳳凰堂などより大きく、浄土庭園とはこれほどの壮観であったのかと、改めて往時の規模の大きさを想像し圧倒される。
日本の有史以来だけでも、幾度かの寒冷化と温暖化を繰り返しているという。
その中で、奥州藤原三代が栄えた時期は温暖期だったともいわれている。
寒冷地であるにもかかわらず、相対的温暖期に入ればこれほどの経済力と文化を花開かせたという潜在力には驚かされる。
(もっとも、奥州藤原三代の時期は温暖期の上に砂金ゴールドラッシュでもあったわけで、そのピークを越えた三代秀衡以降は、頼朝に滅ぼされずともいつまで持ちこたえたのかはわからない)
タッチパネルやサラウンディングスクリーン、ARなどを使ってわかりやすく展示がされている。
また、出土品の常滑や渥美の焼物、中国や朝鮮の青磁や白磁そのた豊富に保管されており、見る価値がある。
藤原清衡が己を蝦夷の棟梁と名乗って、朝廷から自立して仏国土を作り上げたことを寿いだ巻物とその翻訳などが展示されているのもここだ。
ガイダンスセンター自体が遺跡の真ん中に立地している。
かつての政治機能があった柳之御所史跡である。
今は平原になっており、遠くこれも奥羽山脈の名峰、焼石岳を望むことができた。
奥州の東西の山脈に囲まれた地であり、奇しくも東西の山々に囲まれた国のまほろば、大和を想起させる地形・風景でもあった。
他方、平泉は資料館の仕立てなどからも、中央に対するカウンター、あるいはアナザーの勢力としての自己認識を持ち、中央権力を相対化して歴史を見る視座を持っていた。
温暖で黄金を産した時代の豊かさこそが、そうした相対性の視座を与えた。
交易の痕跡からも、太平洋を介して東海、紀州、さらに遠くは朝鮮半島や中華との縁もあったことも再確認できた。
夏草というには早いが、まさに兵どもが夢のあと、であった。