手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

小樽祝津港/AF-S NIKKOR 85mm F1.8 G

1.中望遠単焦点

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祝津灯台より 曇ってた・・・

中望遠単焦点レンズ、85mmだけで撮ってみた。

画角が狭くなるほど、対象を細かく切り取れるため、より周辺情報が捨象され被写体を抽象化できる。

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錆びたコンテナ

例えばこんな感じ。

いやしかし、曇り空の下だとやはり寒々しい・・・

 

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小樽水族館近くの断崖

右手の小島が白いのは名残雪ではない。

鳥どものクソである。

全くきれいな話ではない。

あのフライング畜生どもはしょせん鳥糞製造マシンである。

要らん情報だった。

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鰊番屋の丘から見える小樽水族館

小樽の鰊番屋のある丘を登ると、中腹から隣の小樽水族館の一部が見える。

トドどもが、スカ屁のような咆哮と爆音のようなゲップの中間のような、甲斐性のかけらもない声で鳴いている。

このアングルからのぞき見するのは、あたかも目隠しの設計をミスった露天風呂を覗き見しているようであるが、露天風呂を覗くほどの高揚感の欠片もない。小樽水族館の入場料払わずに見れてはいるんだけどね。

ちなみに実物の露天風呂を覗いたところで、期待するほどのものを拝めないであろうことは言を俟たない。普段温泉地に行ったときに、自分の周りで風呂に使っている人間の高齢化率を考えてみればよい。

馬鹿な妄想は失望の元である。

 

2.鰊番屋

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鰊番屋と遠景の小樽市

鰊番屋は、鰊御殿とは違う小樽市の資料館である。

明治時代に泊村に建築された番屋を小樽に移築したものである。

 

2-2.横道に逸れて原発の話

泊村といば、北海道唯一の原発である泊原発が、ご丁寧に北朝鮮に的にして狙ってくださいとばかりに、夏祭りの射的の出店よろしく日本海に向けて陳列しているあの泊村である。北海道を人の顔とするならば、泊村のある積丹半島の付け根はさしずめ後頭部、頚椎のあたりか。当て身を食らわせれば落とせる位置である。

泊村の隣の神恵内村や多少離れた寿都町は、核のゴミの処分場候補地としての書類調査(処理場にする前の前の前の段階の調査、くらいか?)に名乗りを上げて、人口数百人などといった、存亡の危機にある自治体の首の皮を一枚繋ぐために、交付金を得んと必死である。当地の状況を近隣住民としてうすうす知っているがゆえに、やめてくれともいえない。というより、書類審査くらいで金が貰えるんやったらやってくれ、窮乏の焼け石に水ではあってもかけてくれ、というくらいの心持である。

ただ、泊村は原発が出来て以降多額の交付金の恩恵にあずかってきたはずである。

しかし、実際に事故が起きた時に被害を被る点では同じはずの近隣自治体には、そうした恩恵はなく、原発再稼働や存廃についても決定権がない。現状の原発政策の大きな問題点である。

 

2-3.話を戻すと

北前船と呼ばれる交易船が通っていたのは、18世紀中葉以降明治30年代まで、とのことである。

この交易路の特徴は、北海道から大阪までを結ぶ航路の途中、船が幾度も商品を交易し、積み替えては寄港して回ったということである。

北海道で昆布や鰊、鮭を積み、それの一部を北陸で酒などと換え、九州や中国では伊万里焼などを積み、大阪に入る、という具合である。

明治期には「効率的な」ニシン漁が開発され、大きな漁獲高で潤ったようである。

江戸末期の時点で、小樽や余市の生産力評価が、重量ベースのためいい加減とはいえ、石高換算で10万石以上、大名でいえば大大名クラスの封土と同じだけの地力があった地域である。泊村などもこのころは裕福であったのだろう。

話は変わるが、鰊が春に大量に押し寄せることを「群来(くき)」という。

昔は多くみられたがここ百年程見られておらず、しかし数年前から留萌、石狩、小樽と順に散見されるようになり、今年ついに道南江差でも百数年ぶりに観測されたと、つい先日ローカルニュースになった。

明治期に乱獲して生態系がズタズタになっていたのではないか。

百年たって、かつての鰊とは出自が違う(樺太近辺から流れてきたか?)とはいえ、ようやく従来の群落規模に回復してきた、ということか。

小樽市には、「毛無峠」という峠がある。

これはアイヌ語由来地名ではなく、ただ単純に、明治期に林を伐採してズンベラボウになってしまったため、毛無峠という身も蓋もない名前を賜った次第である。

伐採された木は、鰊油の精製などに使われた。

あちらこちらに、人間の乱獲・乱伐採の爪痕がある(今は「毛」のある山に戻っている)。

 

3.歴史の時間感覚

近代化以降、日本海側は日本の経済の主軸としての地位を失ったといわれる。

確かに貿易の相手としてアメリカが台頭し、太平洋側の開発が進んだという事情もあるだろう。

しかし、ニシン漁が残した環境破壊の爪痕を見るに、完全に均衡を失した乱開発で、自らの首を絞めたという側面も無視できまい。

北前交易の一方の起点である北海道で、出荷する産品自体が蒸発したように消えれば、交易路の維持ができなくなることは容易に想像できることである。

こうしたことをほとんど自覚することもなく、多くの日本海側の人々は、ただただ自らの住む地を「裏日本」と自嘲するのみである。

北前交易の歴史は、古いといってもせいぜい18世紀半ばから20世紀初頭である。

そして最も活況を呈し、空前の乱開発のフェーズに入ったのは、わずかに明治新政府の時代になって以降である。

北前交易について残された資料の多くはこの時代のものであり、時代の前半、さらには北前交易と呼ばれる前の時代については一層、資料が少ない。

現代のように情報の入手が平等に自由にできる時代になっても、所詮手にできるもの、不完全ながら甦らせ得る過去とは、ほんの少し前のもののみである。その過去とて、多くのピースを欠いた歪な像でしかなかろう。

過去は消せないなどとはよく言うが、客観的事実としてはそうであっても、主観としての過去は、容易に改変され、忘却・滅失されてしまう。

歴史の授業で年号を暗記させるのも結構だが(個人的には全く結構だとは思えないが一応一般論として)、むしろ過去とはこれほどにも脆い、確定性について何の保証もない事象であること、それゆえにいつだれが都合の良い改変を加えるかもしれない恐ろしいものであることをこそ伝えるべきではないか、と思う。

 

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鰊番屋

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鰊番屋近くの古民家(重要文化財)の玄関装飾