手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

日本国政府の「国家の責任」

1.国家としての責任

ウクライナのことではない。

昨日、日本司法書士会連合会司法書士総合研究所のweb会議にオブザーバーとして出席させていただいた。

相続制度、土地所有制度の国際比較を行いつつ、所有者不明土地の発生を防ぎ国土を荒廃から守るために、司法書士がより制度的に強い位置づけをされることを目指して研究活動を続けておられる。

具体的には、相続登記の義務化という今般の民法改正のさらに先を見据えて、司法書士専門職による相続手続きへの関与の拡大推進、それによる不動産その他の財産の散逸・荒廃を防ぐという制度の構築を提言するもので、非常に興味深く勉強させていただいた。

この議論の中で示唆を得たのが、「国家としての責任」という問題だ。

現在の日本では、不動産の所有権を一度取得してしまうと、それを「捨てる」ことができない。所有権放棄、という概念がないのである。

取得した不動産は、永久に持ち続ける義務がある。

本来、取得する自由があるのならば、手放す自由はセットで存在しなければならない。これは、日本国民法の重大な欠陥である。

ちなみに、総合研究所の方によると、フランスやドイツなどのラテン・ゲルマン法系諸国では、所有権の放棄が規定され、一定期間の権利不行使で以って放棄とみなされる「みなし放棄」に関するルールも存在するという。放棄された不動産は、国有財産となり、国が責任を持って管理する。

所有権放棄が存在しない日本。これは、国家の無責任の裏返しでもある。どういうことか。

例えば実務家としてよく相談を受ける話として、「自分にもしものことがあったら、土地財産は子供の負担になるので、自治体に寄付したい」というものがある。

回答は単純明快。「無理です。」

自治体も国も、不動産を受け取らないのである。ほとんどの場合、断固拒否。公共団体や政府は、土地建物を管理する責任とコストを嫌がるのである。

建物が老朽化して崩壊、失火した場合の周辺住民への責任。山林で土砂崩れが起こった場合の近隣所有者への補償。云々。

よほど街づくりに有用な駅前一等地などでもない限り、寄付を受けることはない。尤もそんな土地なら不動産屋が飛びつくので、自治体などお呼びでないのだが。

つまり、国や自治体は、国民が所有権を放棄して、その「お荷物」たる不動産を所有管理させられることのわずらわしさを、極度に、まったく病的といっていいほど忌み嫌うのである。

これを、不動産の所有権を放棄する自由を認めず国民にその管理責任を押し付け、国土を荒廃するに任せる国家の無責任と呼ばずしてなんと言おうか。

 

2.統治権と財産権

基本的に、ある国において当該国政府が公権力を行使する権限、すなわち統治権と、その国の土地を私有財産として所有して使用収益処分する権利、財産権は、厳格に峻別される。というか、まったく別次元の概念である。

所有権を持っていたとしても、その所有者が勝手に独立宣言をしてその国の中に別の施政権・統治権を確立することはできない。所有権とはあくまでその統治権力によって認められた財産権に過ぎない(本当は、法哲学的には自然法思想由来の考え方、法実証主義的考え方などがあるが、おおざっぱに言えば上記のようになる)。

統治権=政府は財産権者=所有者に、所有するうえでの様々な義務を課することができる。

例えば山林であれば水源の保全、農地であれば転用の制限などがわかりやすい。また、刑事事件があった場合には、令状があれば捜査機関がその土地に立ち入ることができるし、納税を懈怠すれば徴税機関はその土地を差し押さえられる。

土地を所有したからと言って、いきなり国家権力による立ち入りや徴税を拒否することはなしえないのである。こうした「荘園の不輸不入の権」を否定した上に成り立った制度こそが、「近代国家」という制度の本髄だからである。近代国家とは、不輸不入へのアンチテーゼである、と言っても過言ではない。

だから、よく言われるように、北海道の山林を中国資本が買い漁っているからそのうち北海道にミニ中国ができる、などというのは、以上の統治権と財産権の意義を理解しない人間の妄言であるとすらいえる。

そして、この統治権と財産権の関係を突き詰めた先にある、一考を要する事態が、まさに不動産所有権の放棄、という問題である。

 

3.「財産権の放棄」の近代国家における位置づけ

所有権とは財産権であるから、あくまでも私人に帰すべきものである。では、その所有権が放棄された場合をどう理解すべきか?無主物、つまり所有者なき物とするならば、誰も管理しないことになり得よう。

統治権と財産権を原理主義的に峻別して、統治権は民間の財産権には一切タッチしない、という姿勢であれば、政府が無主物をほったらかしにする、という理屈も導かれえないわけではない。

日本政府が制定し施行する日本国民法は、さらにそれ以前に、「所有権の放棄を認めない」(正確には、所有権の放棄を認める制度を用意しない)という不作為によって、民間の財産権への国家の関与を否定するのである。

(思うに、純理論的観点からいえば、所有権の放棄は認めてもそれを国家は取得・管理しない、という理屈ならば、まだわかる。所有権の取得と本来セットであるべき所有権の放棄は認めるのだから。しかし、所有権の放棄すらも認めないというのは、制度の欠缺、陥穽であるといわざるを得ない。取得できるならば放棄もできる。これは自由権の大前提であり、その一方(放棄)を用意しない制度というのは、ブレーキのないクルマと同じである。)

以上、放棄を認めない、というのはそもそもおかしいのである。それは一旦脇において、国が放擲された不動産を管理する義務があるか、という話に戻ろう。

統治権と財産権の峻別という観点からは、確かに国が放置された不動産を管理する義務を負わない、という帰結も導かれえよう。しかし、それは修正を要する原理、例外が求められるべき原則である。前述のように、仏独蘭伊西墺などの諸国においては所有権放棄が認められる(逆に、日本以外に放棄が認められない例が見つからないらしい)のは、上記原則が導く帰結への例外ともいえる。

これは、不動産というのは私有財産であると同時に、有限の「国土」に他ならない、という特殊事情が絡んでいる。

国土とは、国家としての成立要件「領土」「人民」「統治機構」の三要件の一つである。不動産は、私有財産であると同時に、国家の存在(=統治権の正統性)の根源でもあるという、二重性を持たざるを得ない特殊な代物なのである。

その国土の一部が放棄され誰の責任にも帰せられぬ状態は、領土の荒廃を招くことを意味し、とりもなおさず統治権の正統性に疑義を生ぜしめる事態でもある。

これを認識した通常の近代国家諸国は、私有財産としての不動産の所有権が放棄された場合に、その「財産権」を国家が取得して責任を持って管理処分する、という至極当然の、しかし統治権と財産権の関係という観点からはやや例外とも言いうるような、制度を設けているのである。

尤も、上記議論は不動産の財産権は「もともとは」誰のものか―初めに国家のものでありそれが国民に私有財産として分け与えられたのか、あるいは財産権としての不動産所有権は初めから私人に帰せられていたとするのか―という問題が前提にあり、今回はそれをすっ飛ばして検討していることはお含みおきいただきたい。

 

4.日本という「核」のない国

核兵器がない、という意味ではない。

いわゆる西洋的な意味での、核心になる価値観、コアヴァリューがない、という意味である。

日本国政府は、政府の根源的な役割、あるいは使命というものを恐ろしいほど理解していない組織である。

近代初期の最もプリミティヴな時期の議論から見ても、国家の使命として国民の安全の保障が挙げられる。いわゆる夜警国家論である。

しかし、アフガニスタンタリバン再侵攻を見ればわかるように、いやもはや毎度恒例のことだが、沈没船から乗客を置いて逃げる船長よろしく紛争地帯から国民を置き去りにしていの一番に逃げ去るのは、日本政府在外公館である。JICA青年海外協力隊員であった友人など、最初からそのことに腹をくくっていたというし、JICAのプログラム経験者のコミュニティでは端っから「そういうもんだ」とすら思われているようである。泣けてくるというより目まいがしてくる話である。

日本政府には、国民の保護こそ政府の使命であるという最も近代国家としての原初的な使命すらない。戦後だけではない。皇国の皇軍を僭称した愚者たちは国民を天皇の赤子など呼ばわって勝手に人の命を湯水のごとく使い、犠牲にし、自らの汚い組織防衛に汲々としたのである。

本題である不動産所有権に対する国家の責任というものも、同じ文脈で見ることができるのではないか。日本国政府は、国土の維持と荒廃の防止という、国家としての使命を知らぬのではないか。

確かに、近代国家としての使命、核となる理念、という表現は極めて西洋的である。もしかしたら、核心となる理念・価値感から行動原理や具体的な政策に具体化していくという、西洋的な手法自体になじまないという可能性はある。日本には日本流の、フラットな価値観同士が相互影響を与え合っていく中で、一定の落としどころが見つかっていくというアプローチもあるのかもしれない。

そういう手法自体を否定するつもりはないが、近代国家というのは西洋謹製の、極めてよくまとまったパッケージであり、最上位に理念がありその下にそれに従った原理・政策・制度があるというメカニズムまで含めて一個のシステムなのである。そうしたピラミッドのような価値の体系の表面的なところだけ抑えたつもりで最上位概念の価値を共有しそこねているというのは、木に竹を接ぐというよりピラミッドのてっぺんを切り取って天守閣を築くような拙さである。

 

5.前近代の日本から見て

先日紹介した「荘園」という本などを見ていてもわかることがある。近代以前の日本における権力機構=暴力を背景とした支配権力は、土地に対してどのような権利を有していたのか?

どうやら、権力機構が有していたのは、単なる「果実収取権」に過ぎないようだ。

つまり、ある土地から生じる米等の作物の一定量(鎌倉後期以降金銭化される)を土地耕作者から収受する権利である。

(これが、見方によっては「税」でもあるといえる。私は、どちらかというと近代以前の権力は、武力を背景に持つ農業生産物の収取・流通の経営母体という側面が強いように思う。年貢は、税という側面もあろうが、同時に現場における下請け企業である農業生産者=百姓による成果物の「納品」という側面が強かったのではないか。そういった感覚がなければ、あるいは近代国家的な「税と所得」の感覚から見たら、税として農作物の5割以上を取られるという重税では社会に不満が充満し、早々に維持できなくなっていたはずである。)

そして、彼らが売買したり、将軍の命令で転封されたりするのは、あくまで地域の「果実収取権」であったのである。領地経営において、領土の荒廃は彼ら支配層の収益にも直結するから、新田開発などの経営努力はしていたのであろう。

しかし、そこに「国家の責任」としての領土の維持義務を、果たして観念していたであろうか?

経営的観点から領土の価値向上というのは、いわば不動産事業者がその物件に高付加価値をつけて収益を得ようとするのと同じインセンティブでしかない。他方、「国家としての責任」となると、自らの公共財としての役割を自覚して、利益の出ない土地までも含めて、その領域の秩序維持のために責任を持って管理する、という責任感が問われるのである。これが、果たして近代以前の日本の支配者たちにどの程度あったのだろうか?

 

6.欧州の歴史的文脈

欧州がどういう文脈にあったのか、最後に雑観しておこう。

キリスト教が国教となりシステムとしてのローマ帝国が大きく変質、実質的には滅亡した後、「神の物は神に、カエサルの物はカエサルに」(新約聖書マタイ伝)という言葉が、法体系に大きなインパクトを与える。

動産と不動産で、相続のメカニズムが全く異なったものとなったのである。

統治権と財産権が未分化であった中世においては、財産権としての不動産に対する権利は第一に領主のものであった。よって、その土地を耕していた領民、支配していた騎士、その上位の貴族、さらに王が死んだときの、土地の相続に関するルールは「カエサルの法」によることとなった。つまり、ローマ法やゲルマン法などの、世俗法が適用された。

他方、動産は神が現世に与えたもうたものであり、死して神の国に持ち込むことはできない。よって、死した者の動産は、神の地上における代理人である教会が預かる。

なんとも胡散臭い蓄財のための方便である。

以上の(屁)理屈から、動産の相続には教会法=カノニスティークが適用されることとなった。

つまり、動産と不動産を現前と峻別し、前者に対しては世俗の権力による取得管理についての強い志向性が、中世以降形成されていったとみることができる。

その中で、フランス革命が起こった。

この革命により、私有財産としての財産権と公権力としての統治権が峻別されるに至る。しかし、おそらく統治権力の領土秩序の維持に対する責任は、中世以来の文脈からも強く意識され続けたのではないか。わからんが。

こうして、私有財産たる土地が放棄された際には、公共財たる政府の責任において、領土秩序の荒廃を防ぐべく、国家がこれを管理処分する、という観念が、自然に生じえたのではないか。

 

7.おわりに

以上が、あくまでも無根拠な飲み屋談義的程度の、日本の不動産所有制度に関する重大な欠陥に関する考察であった。

おそらく日本人は、西洋的なシステムをまねることはあっても理解することはないであろう。それが悪いとは言わない。ただ単純に、そんなことをしても遠回りであろう、というだけである。きちんと西洋的な近代国家の理念・本質を理解し、自らが何をせねばならないかを「ピラミッド的な思考体系」に基づいて理解すれば、適切な制度の解は容易に見つかるはずである。しかしそれをせず、表面的な猿真似を続けるだけならば、最適解に至るまでにあてずっぽうのトライアルアンドエラーを繰り返さざるを得まい。

あとは、そのうわべだけの真似事から、どこまで実態を適切に処理できる解を、速やかに導けるかという運の問題である。

 

なんだか、このブログを書いていて初めて本職の専門家らしいところに少しだけ引っかかる話題に言及したような気がする・・・