先月初め、小樽を訪れた際のものです。車の点検のために行って、待ち時間に暇だったので市内をぶらついていた時の一枚。
この町は、観光用の通りよりも生活に根差した商店街などに魅力があるように感じます。
小樽市花園のあたりは、和菓子屋(お餅屋)がいくつもあります。春には鶯餅や道明寺流の桜餅など、関西の人間にとってはなじみのあるものが多く、遠い北の地にいながら、ほっとするものを感じます。
小樽は北前船交易で栄えた街です。近畿地方の菓子の文化があるのはこのためでしょう。
北前交易において廻船を担った主力は、近江商人でした。水産加工会社の日魯(現マルハニチロ)の創業者も、新潟に拠点を置いた近江商人だったようです。
こうした交易により発展した小樽は、幕末に幕府がニシンの水揚げ量を石高に換算して行った「検地」で、10万石以上の生産力評価がされていたようです(函館にある北洋資料館の情報)。
コメの生産力のみで封土の価値を評価するという建前の「石高」です。コメの取れなかった北海道では、ニシンやサケの水揚げ高で評価せざるを得なかった、しかしその際にも無理矢理コメに換算した、というのは、なかなか面白いものです。
これを以って、「徳川体制は農本主義、豊臣体制は重商主義」と峻別する向きもあるようですが、私はこの石高という評価方法のみを以ってそう評価するのは、早計であろうと思います。
確かに相対的に徳川氏の方が、豊臣氏よりも対外交易に抑制的であったことは明らかです。しかし、「石高」による封土評価を統一的に行ったのは、ほかならぬ豊臣氏なわけです。
むしろ、重農主義か重商主義かにかかわらず、「石高」という概念は、織豊政権期、江戸時代の通貨価値の形成の根本に、コメが関わっていたことの証左ともいえます。尤も、江戸時代の複雑怪奇な(幕末に来た中央銀行制度発祥の地、英国の外交官も理解できなかった)通貨制度は、「コメ本位制」といえるほど単純なものでもなかったようですが・・・。詳しくは、佐藤雅美「大君の通貨」
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それにしても、小樽、余市それぞれの港が10万石相当の生産力評価をされていたというのは驚くべきことです。江戸時代、時期にもよりますが、幕府が認めた公式石高「表石高」でいえば、あの名門上杉家米沢藩が15万石であり、小樽と余市の港を合わせればこの外様大名を超えることになります。他にも、10万石格の大名としては、筑後柳川藩立花家、信州上田藩真田家、弘前藩津軽氏などがあります。いずれも美しい城下町、堅固な名城、洗練された天守を今に残す、外様の大藩です。
ここで疑問が湧いてきます。
松前藩についてです。
江戸期のほとんどを通じ、松前氏が蝦夷の商い場を支配し、蝦夷交易の独占を幕府に認められていた、とされます。松前藩が蝦夷を実質的に支配していたかのような聞こえ方もしてしまいますが、果たしてそうでしょうか?
10万石相当の漁港をいくつも抑えていたのなら、なぜ松前藩自体は1万石大名「格」という、ギリギリで大名に擬制されたような立場だったのでしょうか?また、アイヌの人々と紛争が生じた際に、わずか百数十人規模の戦力を派遣するのがやっとだったのは、なぜなのでしょうか?
この辺は、また改めて考えましょう。