- 1.これまでの振り返り~京アニという「人間性の再生」のプロジェクト~
- 2.以前の記事で筆者が投げかけた問い
- 3.「響け!ユーフォニアム3」の何がすごかったか
- 4.「響け!ユーフォニアム3」は今後の京アニ作品の方向性を示す
1.これまでの振り返り~京アニという「人間性の再生」のプロジェクト~
以前過去記事でこれの解釈について検討したことがある。
この作品は、京都アニメーションの作品の持つメッセージの点で、一つの転換点をもたらした作品だと思っている。
その京都アニメーションの、作品に込めるメッセージの変遷をたどった記事も、その後書いている。
京アニの作品群は、そのメッセージ性の変遷から、20年以上をかけた壮大な「人間性の再生」のプロジェクト、ある意味でルネッサンスのプロジェクトである、と解釈してきた。
要約すると、2000年代初期の京アニは、悲しみと寄り添う作風(Air、CLANNAD)、そこから「あったらいいな」という楽しい世界(ハルヒ)を描いてきた。
2000年代後半、無菌室のような優しい世界での永遠の日常(らき☆すた、けいおん!)が描かれた。
涼宮ハルヒの憂鬱第二期と、けいおん!!(第二期)を経て、「日常」というコアなシュールギャグアニメを挟んだ後、作風に転換がもたらされる。これが「氷菓」だった。従来から繊細な心情描写を得意としてきた京アニだが、その技芸を用いて嫉妬や挫折といったネガティブな感情にも積極的にフォーカスしていく契機となった。
その後映画化されたのが「聲の形」である。聲の形に関する上掲記事にも見られるように、これは視聴者自体をコミュニケーションの罠に突き落とし、その困難性を否応なく味わわせ、4DXなどそこ退けの疑似体験をさせる作品であった。
その後、京アニの小説レーベル作品の金字塔として「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」が世に送り出された。戦争によって心を失った少女が、手紙を書くことを通して人の心に触れ、取り戻し、やがて人を癒すまでに成長していく物語だった。
上述の記事「ヴァイオレット・エヴァーガーデンと京都アニメーションの歩み」の中でも述べてきたが、これまでの京アニ作品群は「人間性再生・再獲得のプロジェクト」という切り口で整理することが可能であると考えている。
2.以前の記事で筆者が投げかけた問い
近年、京都アニメーション以外のスタジオから送り出された秀作が、特に「ぼっち・ざ・ろっく」などを筆頭に、「世界は思っているほど怖くない、ちゃんと関われるようになる」という、「人が再び社会/世界と関係を結んでいく」プロセスを後押しするメッセージ性を備え始めた点を指摘した。
これは京アニが「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」で描いたステージであり、さらにその先につながるものでもあった。
上述記事の最後に私が述べたのは、今後の展開についての問いかけだった。
京アニは果たして、人間性の再生のプロジェクトのその先に、この現実社会と切り結ぶ作品の受け手(鑑賞者)に、どのような人物像、物語を提示して来るのか?
時代は今や、大きく変わってきた。「進撃の巨人」という空前絶後の神話が完結を迎えた。「チェンソーマン」などの野心的な作品、さらに「推しの子」といったハードなミステリの要素を持ち込んだ作品や、「ゴールデンカムイ」、「ヴィンランド・サガ」など、この世界のゆがみを自らの眼で見据える、あるいはこの世界の欠落した何かを追い求める、積極的に世界と切り結ぶ人々を冒険譚として描くものが多く支持を得てきた。
こうした時代変化の中で、京アニは次のテーマをいかに提示するのか?
これが筆者の問いだった。
京アニはついにその答えを示した。
その答えが提示されたのは、ちょうど「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」と時期を前後してアニメ放映が開始された、足掛け9年に及ぶ大作「響け!ユーフォニアム」の完結編、第3期だった。
3.「響け!ユーフォニアム3」の何がすごかったか
京アニは、挑戦する人の気高さ、正しくあることの高潔さを、描くに至った。
1)「響け!ユーフォニアム」のストーリー
「響け!ユーフォニアム」は、2015年に第一期放映が始まった作品である。
京都府宇治市の公立高校、北宇治高校の弱小吹奏楽部に入った主人公・黄前久美子が、若く野心的な指導者のもと、部内の様々な問題と直面しつつも、全国大会へと昇りつめるいわゆる「スポ根」ものに近い作品である。
しかし、その本質は大会優勝などの勝利を得ることのカタルシスではない。誰かの音が心に響いて、その音に魅せられ者がさらなる高みを目指すという、「共鳴し合う心」の物語が、この作品の本質だった。
主人公の久美子は、姉にあこがれて吹奏楽を始め、中学の大会で本気の悔し涙を流した麗奈(後の親友にして本作のもう一人の主役)に感化されて「特別」を目指し、同じユーフォニアムの先輩・田中あすかの音色を胸に、全国大会金賞を目指す。
だからこその「響け!ユーフォニアム」というタイトルなのである。
「久美子1年生編」でTVアニメ2クールを費やし、全国大会で涙の銅賞に終わるまでを描く。上述の通り、久美子には多くの宝になる出会いがあり、それが彼女の吹奏楽生活を支えていく。
「久美子2年生編」は、当時の3年生(久美子の1年先輩)の希美とみぞれの関係性に焦点を当てた「リズと青い鳥」編と、久美子が主人公のいわば本編に当たる「誓いのフィナーレ」編の二部があった。
ここで、久美子の下の世代が現れ、久美子の音や姿に心を動かされた(響いた)後輩たちとの関係性が描かれる。久美子は導かれる側から、導く側に変わっていく。残念ながら、部の成績は関西大会金賞、全国進出ならずで終わる。
2)完結編のあらすじ
「久美子3年生編」が、完結編となる「響け!ユーフォニアム3」であった。
久美子は部長となり、演奏指導のリーダーには盟友の麗奈、副部長には幼馴染の塚本。この布陣で、新たに加わった1年生も含めて、再びの全国を、悲願の金賞を目指す。
ここで、黒江真由が登場する。
九州の吹奏楽の名門高校からの転入者で、久美子と同じユーフォニアム奏者である。
完結編テレビシリーズ第1話から不穏な空気を演出する。他方、久美子は部長として、部員のメンタルケア、オーディションの方法や部員のモチベーションの維持、部に渦巻く滝先生への不満など、様々な問題に直面し奔走する。
そして、第12話、最終話の一つ手前で、事は起こる。
全国大会出場を決めた吹奏楽部は、全国メンバーを決定するためのオーディションを開く。部のエースでアメリカの音大留学を決めた麗奈の吹くトランペットとともにソリ(ソロ二人のデュエットのため、ソロの複数形でソリ)を吹くユーフォニアムを決める、最後のオーディションが難航する。これまでのステージでは、オーディションの結果、京都府大会では久美子が、関西大会では真由がソリパートに選ばれていた
久美子と真由の実力は互角だった。
部長で3年間部に貢献し続け、多くの後輩に慕われる久美子。名門吹奏楽部で過去2度とも全国金賞を手にしてきた実力者の真由。どちらがソリにふさわしいのか。
指導者の滝は、実力が伯仲していて判断しかねると考え、全部員の前での再オーディションを提案する。
そこで久美子は、ある提案をする。
奏者がわからないようにする、ブラインド・オーディションである。
実際に大阪の名門、淀川工科高校などで似たような方式が古くから行われているらしい。
結果、部員投票では全くの五分、最後に一票を投じて決めるのは、トランペット奏者麗奈だった。
音楽に絶対に嘘をつかない麗奈が選んだのは、真由だった。
麗奈の選考理由はおそらく、トランペットにより寄り添ってバイプレーヤーに徹する表現ができているのが真由だった、ということになろう(たぶん)。
3)第12話の衝撃
この展開は、原作小説とも異なるもので、アニメ版での大改変だったらしい。
「セクシー田中さん」のドラマ化で原作者自殺という悲劇が起こり、さらに現在放映中の「推しの子」第二期では、まったく同じシチュエーションで原作者と脚本家が対立する状況が描かれるという、このテーマが非常にホットな時期に、やってくれた。
本作では、原作者の武田綾乃氏自身もこの展開をどうするか相当悩んだ末、原作では久美子選出ルートとなったらしい。
しかし、アニメ版では監督の石原立也、脚本家花田十輝(花田清輝の孫らしい)と原作者で協議の末、黒江真由という登場人物の存在意義などをより深く表現できるものとして、別ルートを選んだという。
4)「久美子落選」ルートでこそ達成できたこと
「死ぬほど悔しい」
この作品の第一期の第一話冒頭シーンで、麗奈が泣きながら言った言葉である。
この感情を、今まで久美子が歩んできた道のりを共有してきた受け手(視聴者)は、否応なく追体験させられる。
死ぬほどの悔しさという挫折は、その人の考え方、世界観すらも変え、世界が今まで見てきたものと違って見えることすらある。その後の人生の分かれ道になるほどのものである。
筆者も大学受験時に医学部に落ちて法学の道に進んだ経緯があるため、世界の根幹から見かたが変わるような挫折、というのはわかる。
しかしこの作品は、その挫折を以って伝えたいメッセージがあるからこそ、このルートを選んだのである。それは何か?
1/ この悔しさも宝物になる
オーディションに敗れた日の夜、自らの手で引導を渡した麗奈は、久美子と同じくらい悔しく、彼女以上に自責の念を感じていた。
その場で久美子が彼女に言ったのが、冒頭のセリフ「この気持ちも、頑張って誇りにしたい」。
挫折や悔しさは、その時点では目標を達成できなかったというネガティブな事実でしかない。しかし後になってみれば、それがかけがえのない宝になることだってあるし、宝になるか傷としてのみ遺り続けるかは、本人の歩む道次第である。
おそらく自分ならば、負けた直後にここまでの達観したことは言えないだろうし、一高校生が本心からこれをいうのは相当難しいだろう。
このセリフは、きっとこの作品の作り手の思いだ。
この作品を通して、このストーリーラインを通してこそ伝えたかった事、それは、
「挑戦すればうまくいかないことは必ずある。でもそれはきっと掛けがえのない宝にできる」
という、ひたむきに生き続ける者への応援歌であり、賛歌だったのではないか。
京アニは、人間性の再生というプロジェクトの先に、やはり「次の曲」を用意していた。
物語の中で、癒すことに始まり、優しい世界を提示し、繊細な感情表現を育んできた彼らは、挑む者を励まし、その人にとって本当に大切なものを誇り高く掲げよ、と言っている。
2/ 正しくあることの高潔さ
オーディション後の回想シーンで、久美子と滝先生の会話が差し込まれる。
久美子「先生にとって理想の人ってどういう人ですか」
滝「そうですね。正しい人でしょうか。本当の意味での正しさは皆に平等ですから」
滝「黄前さんはどんな大人になりたいですか?」
久美子「私もそんな人になりたいです」
どこまでも公平に、正しく。
オーディションで奏者を決める。北宇治は実力主義。
だからこそ、部長か否か、3年間の貢献が云々、など関係なく、実力ある者が奏者となるべき。
自らの課したこのルールで、自らが敗れることの悔しさ。
しかし久美子は、ここで己に打ち勝つ。
真由は、高い実力を持つゆえに、オーディションで自らと競い合い落選した者が音楽をやめてしまうなどの苦い過去を持ち、オーディション自体に消極的だった。
久美子の敗れてなお公正で堂々とした姿は、真由のオーディションに対して、競い合う音楽に対して抱えてきたわだかまりを和らげるものだった。
久美子が敗れたことによってあらわされた第二点は、この「正しくあることの気高さ」である。
オーディションというルールは「真の実力主義」という理想のために作られた。そのルールは平等で、作った自らに対しても公正に適用される。
それを曲げるわけにはいかない。
音楽に嘘をつかず真由を選んだ麗奈。
実力主義という原理を曲げずに真由の勝利を讃えた久美子。
久美子の敗北があってこそ、この高潔さが描けた。
そして、滝との会話の瞬間、久美子はその言葉に共鳴し、彼女が後に教師の道へと進む、新たな道が開けたのだった。
再び、主人公には「響いた」のである。
姉、麗奈、あすかと来て、最後に彼女の心に音色を響かせたのは、教師・滝昇だった。
物語構成としても非常に美しい共鳴のリフレインだった。
5)この作品は本当の意味で「正しさとは何か」を投げかけた
余計な話だが、これは「法の支配」、あるいは正義の原理を端的に具現化した状況である。
これ自体にも、社会的な切り口から非常に重要な意義があると思う。
何せ、首相官邸は出鱈目な法律と予算措置を乱発しておきながら、自らに都合の悪いことは隠蔽し、法の支配の外にいるかのような昨今である。
さらに、日本の物語作品の多くに共通する問題点としての、「正義の本質的な空疎さ」に対する強力なカウンターですらある。
筆者は、「鬼滅の刃」や「呪術廻戦」をあまり高く評価していない。
なぜか。
これらの作品では、相変わらず「正しさとは何か」は描かれないからである。これらの典型的なジャンプ作品群において、正しさとは、単に「人に迷惑をかける悪を懲らしめるというリアクション」に過ぎない。少なくともその程度の思考の深みしか、感じられない。そこに、積極的に達成されるべき正義の位置は存在せず、ただ悪を倒すことこそが正義となる。それは、一人の出る杭をたたく衆人の眼と、究極的には相似する。
しかし本作では、最後の最後に、黄前久美子という存在を通して、「正しくあるとは何か」を積極的に問うたのである。
4.「響け!ユーフォニアム3」は今後の京アニ作品の方向性を示す
9年前に始まったシリーズで、その完結編で大改変を行い、それを以って多くの力強いメッセージを伝えた。
それは、「その悔しさもきっと宝になる」というこの上ない激励であり、「正しくあることはつらく厳しいが、それゆえにこそ気高い」という美しさであった。
京アニの作品は、今やここまで、シビアでリアルな状況を描き、かつそういった状況でこそ人を激励し、そこにある人の美しさを描こうとしている。
これまでの人間性の再生のプロジェクトの先に、積極的に世界に関与し、挑戦する人々への応援歌が待っていた。
単なる美麗な作画、秀逸な表現力を超越した、ほとんどのアニメ作品が未だ到達していない高みである。
「響け!ユーフォニアム」シリーズは堂々の完結を迎えた。
さて、京都アニメーションは、どのような進化を見せてくれるのか。
まずは、この言葉で結ばれるべきだろう。
「そして、次の曲が始まるのです」