手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

「主は何処へ行き賜うや」および「神の沈黙」

先日、読むものがなくなり、かといってアマゾンで頼んで数日待つのも邪魔くさかったので、とりあえず倶知安町の本屋、というより「申し訳程度の本売り場」というべきTSUTAYAに行った。

案の定何も読みたいと思えるものがない。

その中で辛うじてまともに読めそうだったのが、遠藤周作の「沈黙」だったので買った。

今日はその沈黙におけるキリスト教徒の信仰を、ヘンリク・シェンキエーヴィチの「クオ・ワディス」と比較した戯言である。

 

なぜこの両者を比較するのか。

両者とも、迫害にさらされたキリスト者が、いかにその信仰を維持しうるのか、をテーマにしているからだ。逆にそれ以外の共通点はないかもしれない。

この一点に絞って比較すると、作家の置かれた時代背景、文学の状況などが対照的で面白い。

 

www.amazon.co.jp

まずは、クオ・ワディスから。

帝政ローマ初期、第五代皇帝ネロの時代。

ご案内のように、キリスト教徒はローマ大火の濡れ衣を着せられ、苛烈な迫害を受けていた。そんな中で、キリスト教徒でゲルマンの部族長の娘であるヒロインと、放蕩のかぎりを尽くすローマ貴族の青年のラブストーリーをが描かれる。キリスト教の信仰に目覚める青年、迫害の中で信仰を維持する少女の物語だ。

この作品に見られるのは、合理主義とキリスト教信仰の折り合い、という問題である。

キリストの復活などの、奇蹟は一切直接的には描かれない。

いくら信仰を貫いても、キリスト教徒たちは迫害され続ける。

信徒たちは、神の沈黙に苛まれる。

かくなる状況下で、主人公らはキリストの復活があったことを、ペテロ(当時は存命)の口から聞かされる。極めて信頼をおける証人による証言だ。

さらに、物語のクライマックスでは、円形闘技場で獅子と対峙させられたヒロインは、従者による獅子の駆逐という奇跡によって一命を取り止め、信仰を得た青年と結ばれる。

合理的には存在し得ない奇蹟を直接的に描くことを避けるのは、これを描いてしまうと近代文学としての合理性を失うことをわかっていたからではないか。奇跡を登場人物が直接目撃してしまえば、それは近代文学ではなく、宗教小説やファンタジー小説だろう。

これが近代文学たりうるためには、奇蹟を直接描くことはできなかった。

そこでシェンキエーヴィチが導き出したギリギリの落とし所が、「ペテロらによる証言」である。

信仰とは、理解ではない。理解できないから、その存在は信じるしか術がない。だから信じるのである。登場人物も読者も、ペテロら当時の証人の証言を「信じる」しか、キリストの復活の奇蹟の実在性を肯定する方法がないのである。

キリスト教信仰と、近代合理主義のもとにある近代小説の相克という問題に、ギリギリのところで折り合いをつけたことは、見事というべきである。

さらに、クライマックスの「奇跡」(=ライオン絞め)は、万が一くらいには起こりうること、といえなくもない。「奇跡」とも「奇蹟」ともつかない絶妙の部分をつくことで、神の加護、神の存在を暗示しつつ、近代合理主義的理性においても許容しうるギリギリの一線を守っている。

最終的には信徒たちにハッピーエンドが訪れる。

近代的な、たいへん牧歌的な小説といえる。

シェンキエーヴィチのポーランド民族主義者としての一面にも言及できるかもしれない。

ローマ帝国は、迫りくる帝国主義と近代合理主義のメタファーだろう。キリスト教信者たちは、押し潰されつつあるポーランド人たちのことと見える。

これはそのまま、信仰という題材と、それを扱う近代小説の格闘とも二重写しになる。

ローマ帝国・堕落した世俗主義帝国主義・近代合理主義=近代小説」対「キリスト教・信仰を描くということ=前近代の理想的(?)的秩序=ポーランド民族の自立」という対立図式に修練させていく手法は、見事といえる。

 

www.amazon.co.jp

一方、「沈黙」はどうか。

こちらは幾分深刻である。

天草島原の乱を経て、本格的に禁教体勢が確立された日本に、ポルトガル人宣教師が布教のため潜入するところから始まる。

司教は隠れキリシタンたちの告解をきき秘蹟をあたえるが、やがて奉行所に捕らえられる。

自らが信仰を曲げない意志を貫こうと拷問に耐えるも、「転ばない」かぎり隠れキリシタンたちを虐殺していくという卑劣な奉行所の所業に屈し、「転ぶ」ことを決断する。

エスは、ユダに「汝はなすべきことをなせ」と、密告に行く彼をゆるした。棄教したのち、司教はユダの罪をも引き受けたイエスの愛を知る。

彼は自らが裏切ったのは「ローマカトリック教会」であって、主への信仰を捨てたわけではないと、その信仰をあくまで貫こうとする。

司教は、神の沈黙に苛まれ、神の不在を疑い、最終的には「組織としてのカトリックに背を向ける=表面的にはキリスト教に背を向ける」という選択をする。

同じキリスト教徒の迫害を描いていても、こちらの作品では、「神の沈黙」に対する回答は何もない。あくまで信徒の信じる力の強さのみが試され続ける。

奇蹟の証言により勇気づけられることも、ささやかな奇蹟に助けられることもない。徹底的に放って置かれる。信徒たちは無残な死を迎える。

クオ・ワディスに比べて、遥かに深刻な状態で物語は終わりを迎える。

この両者の違いは何か?

一つは、「沈黙」が20世紀後半の文芸作品であることかもしれない。

この作品の語りは、冒頭信仰に燃える司教を描く際には司教自筆の書簡体で描かれる。信仰が揺さぶられる中盤は「神の視点」といえる三人称体、棄教後の彼は第三者の視点から描かれ、彼の内面を知る術はない。

信仰という主観的信念に突き動かされる時点を主観のみで、信仰を揺さぶられる段階を客観性を交えて、カトリックの成員としての信仰が敗北を喫してからは他者の視点でーー距離感の付け=自在な語り手の変更は、20世紀文学では当然の手法である。

遠藤が日本人であること、現代人であることも、このような小説となった原因と考えられる。

日本においてキリスト教徒は圧倒的マイノリティである。常に大多数から見れば「他者」である。「他者」としての信仰の相対化、信仰を揺さぶる現実を自覚せざるを得ない。

常に信仰が相対化に晒される環境で信仰を貫こうとするが故に、その信仰が揺らぐことも多いであろう。神の沈黙を意識せざるを得ないのではないか。

加えて、20世紀中葉という、信仰が力を失いつつある、さらにはポストモダンの波の渦中にある時代状況も無縁ではない。

語り手の変遷という自在な手法にも見られるが、神の沈黙への深刻な対話というテーマ性も含めて、「沈黙」は極めて20世紀的な作品であるといえる。

その点、シェンキエーヴィチをくさすわけではないが、「クオ・ワディス」の中での「信仰に対する試練」は、作者にとって我がことではなく、想像の産物と言えなくもない。彼が描いたのは帝国主義と近代合理主義と対峙させられるポーランド民族主義のメタファーとしての、ローマ帝国に迫害されるキリスト教徒である。

遠藤にとって、彼の置かれた時代や文化状況そのものが、彼の信仰への試練であったのであろう。その分の迫真性が、沈黙にはある。

試練の中の信仰の維持という共通項を媒介として比較することで見えてくるのは、19世紀近代ヨーロッパ文学としての描写と、20世紀日本文学としての問題意識の明確な差であった。

前者は近代合理主義と信仰の整合化、帝国主義とマイノリティの対峙という問題意識であった。

後者は、信仰の否応なき相対化と、その中で最後のよすがとなるのは真のキリストの愛への気づきしかないという現実であった。