11月初旬、着物を着た若い観光客が多く行き交っていた。
コロナ禍がワクチンにより小康状態となり、さりとて外国人っ観光客が当面は入ってこられないこの奇妙な空隙は、日本人による日本人のための観光地、という在りし日の姿を、束の間思い出させてくれる。
約2年ぶりに、友人と京都市内を出歩くことができた。
尤も、ほぼ一方的にしゃべり倒していたのは私であったが・・・
11月初旬故に、ほとんど紅葉はないだろうと期待せずにいたが、案外と色づき始めていた。
ニセコのオレンジや黄色という、自然の荒々しさからくる穏やかな色合いに対して、京都のもみじは緋色に近い赤だ。ニセコの自然色に慣れていると、かなりケミカルにすら見える。
山門手前のもみじは色づいていない。
南禅寺は、京都五山の一角、臨済宗総本山の一であり、豊臣秀吉死後の不安定な政治状況下で、家康が京都掌握の拠点としていた場所でもある。
山門の堅牢な作事は、ただの寺のそれではない。周囲の石垣と相まって、相応の防衛力を有したであろうと想像される。
臨済などの鎌倉期以降の新仏教は、武家の権力との結びつきが強い。鎌倉五山といえば鎌倉幕府の権力を背景とするものだし、京都五山も北山文化期の義満と相国寺を筆頭に、もっぱら武家政治権力の呪力的後援者、権威付けという役割が期待されていた。
南都北嶺や善光寺などの古くからの独立性の高い寺社勢力とは異なり、その発生から武家と切っても切れない関係にある、政治の寺である。
続いて哲学の道へ
桜も葉が落ち、人通りは少ない。いるのは猫ばかり。
哲学の道は、蹴上から南禅寺を経由して入ってくる琵琶湖疎水の堤沿いの道である。
東山の給料に張り付くように通っており、やや高台になっている。西の京都市内を一望、とまでは言えずとも、家々の甍を垣間見ることができる。
哲学の道から降りて丸太町へ
ただただ西へと歩く。
途中、いくつもの私立美術館があったが、いくつかはまだ閉館中であった。
黒谷、あるいは金戒光明寺を右手に見ながら、岡崎神社前へ。
ここでも参拝客の若い女性のグループは、着物姿であった。
かつて京都の町を歩いていて、これほどまでに着物姿の観光客を見ることはなかった。
岡崎神社は、牛頭天王を祭る社であったらしい。
姫路の廣峯神社からの分社とのことである。
牛頭天王は、その名の通り牛頭人身のインドの神格であり、仏教とともにもたらされた。
「八坂神社」こと祇園社においても祭られている。
明治期の神仏分離令は、寺院そのものよりむしろ、牛頭天王社などの仏教と緊密な多神教、修験道などに対して、極めて重大な変質をもたらしたとされる。
仏教以外はみな神道、という国粋主義者どもによる極めて無知無定見かつ乱暴な分類により、神仏不可分の神秘主義の領域にあった彼らは、その存立の基盤を根底から揺さぶられた。
仏教、特に鎌倉新仏教以降の多くが、武家の政治力と近くありすぎたことは、呪力としての神仏、とりわけそれを行使する主体とされる寺院の存在意義、説得力を毀損してきた。あまりにも恣意的に、己の理論を、呪力を、行使しすぎたのだから、仕方がない。
こういった癒着関係が、それへのアンチテーゼとしての国学を産んだともいえる。朱子学という仏教の論理体系への対抗上作られた借り物の、かつ外来の実践哲学理論を核にしながら、それに何の疑問も抱くことなく、同時に日本古来の神々に存在の正統性の根拠を置いて平然としている不気味極まるキメラ以外の何物でもない「国学」なる怪物が、江戸中期には胎動し始めていた。
そしてこの理論、というより非理論は、もはや政治権力との癒着以外の存立の仕方を忘れ堕落しきった仏教と手を携えて、日本を1945年の破滅という終局へと導く、日本人の精神の案内人となるのである。