- 1.エジプト美術関連
- 2.ピオ・クレメンティーノ美術館/キアラモンティ美術館
- 3.地図の美術館
- 4.システィーナ礼拝堂への道
- 5.ペルセウスとメドゥーサ
- 6.ヘルメス
- 7.ラオコーン群像
- 8.「おらが町(国)が一番だべさ」のヤンキー的発想をへし折る世界遺産の凄み
1.エジプト美術関連
ヴァチカン美術館のグレゴリウス美術館には、エジプトからの収集品を展示している。
19世紀のリソルジメント前の教皇グレゴリウス16世によって開館されたという。
各国のナショナルミュージアムに、ほぼ必ずエジプト関連の展示ってないか?
「俺たちの」東博にもあった気がするが、皆そんなにエジプトから遺物を持ち帰るのが好きなのだろうか。
エジプトからは相当数の遺物が世界各国に散逸したことであろう。
ナイル川の神の像ということで、これはグレコ・ローマンの時代の彫刻である。
グレゴリオ・エジプト美術館にあったのか他のところにあったのか、美術館がでかく複雑すぎて、記憶が定かでない。
イタリアは歴史的にエジプトやアナトリア半島とは関係が深い。ローマ帝国は、カエサル、アントニウス、オクタウィアヌスを通してエジプトを皇帝私領化した。
中世以降も、ヴェネツィアやジェノヴァなどの港湾都市との貿易相手であった。
しかし、近代以降は、エジプトはもっぱらフランスとイギリスが好き放題やる草刈り場となってきた。ナポレオンのフランスがロゼッタ・ストーンを見つけたのも、18世紀末年、解読は19世紀初頭である。
エジプト館の開館時期からも、こうした近代のエジプトブームの時代である。
いずれにしても、特にこのエジプト関連の収蔵品を見るに、ヴァチカン美術館の俗っぽさを強く感じる。まぁ、美術館は特定の宗教臭さよりも俗っぽさがあった方が、すそ野が広がってよいのだが。
2.ピオ・クレメンティーノ美術館/キアラモンティ美術館
冒頭入った美術館はさほど人気がなかったようで空いていたが、絵画や彫像が陳列されている区域は人混みがすごい。
落ち着いてみるという雰囲気では全くない。
人が多いばかりでなく、展示物もやっつけ仕事みたいな感じで雑然と置いてある。
日本の美術館ではありえないだろう。上の写真など、骨董品蚤の市の雰囲気である。値札が付いていても何も不思議には感じない。
これだけの雑多な展示物をわりと適当に並べて、これだけの人を見境なく入場させるところが、なおのこと俗物である。
3.地図の美術館
システィーナ礼拝堂に行く途中であるためか、ここも混雑がひどく鑑賞どころではなかった。
イタリア各地の地図が描かれている。1500年代のフレスコ画らしく、であるとすればこの時代にして非常に正確な地図である。同時に、イタリア地区中心の地図ということで、統一イタリアはできていなくとも、当時すでにイタリア半島として一定の地域的な区分が認識され、そこが教皇庁の主な「シマ」であるという認識があったということだろうか。
4.システィーナ礼拝堂への道
美術館自体も美術品みたいなもので、美術品も雑然と置かれていて、見ようと思えばいくらでも時間がかかるのだが、人混みで結局何を見るともなく押し流されていくのが実に残念な美術館である。おそらくルーヴルとかも今はこんなことになっているのかもしれない。
5.ペルセウスとメドゥーサ
アントニオ・カノーヴァ、18世紀の作品で、新古典主義とされる。
メドゥーサって、なにゆえにメドゥーサなのか(=見た者石に変えるとか、メンヘラなややこしい女なのか)分からなかったが、ウィキペディアによると、もともとコリントスの豊穣の神だったらしい。それが、後からヘレニア=ギリシャを占領したドーリア人(?)によって、先住民の神として悪者に変えられたうえ神話に編入されたものと思われる。
ペルセウスはゼウスと人間の子で、こちらは伝説上はミュケナイの王家の創始者となったという。ミュケナイは、これもまたドーリア人がヘレニアに入ってくる前の文明である。
18世紀の新古典主義、ということだが、これはバロックから古典への回帰を掲げる思潮とされる。
後日見たベルニーニの彫刻(こちらはゴリゴリのバロック)などと比べると、言われてみれば違うもんだなぁ、というところがある。
一つ目に、全体の均整がとれている点である。構図としても降ろした右手に剣、挙げた左手に首を持ち、点対照的になっている。足も仁王立ちではなく、左に重心がある。これはギリシャ彫刻からみなそうで、バクトリア王国(アレクサンドロスの配下の将軍がインドに打ち立てたヘレニズム王朝)からガンダーラを通じて仏像にも取り入れられている。だいたい観音様の立像などは片足をすこしだけ踏み出している。
二つ目に、均整がとれていることと関係するが、全体がスタティック(静態的)である。掲げたポーズが、何か一連の連続した動きの中の瞬間を切り取った感じではなく、わざわざ写真におさまるべく「獲ったどー」ポーズをしているような感じ、といえばよかろうか。
後日見ることになるベルニーニの彫刻などのバロック芸術は、構図がグニャグニャと複雑で、それがなぜかというとめちゃくちゃ動いているワンシーンを切り取った感じ(=ダイナミック(動態的))だからである。
写真撮影に例えて言えば、古典主義・それに追随する新古典主義がポーズをキメて写真にとられる「ポートレート」系の写真だとすれば、バロックの動きの瞬間をとらえるのはスポーツ写真に近い。ように思う。
6.ヘルメス
こちらは古代のヘルメスの彫刻は、新古典主義でも、それが範をとった古典主義(要はミケランジェロの彫刻とラファエッロの絵画を規範・基準とする)でもなく、本物の古代の彫刻である。
立ち方などに、遠く仏像への影響が感じられる。体のねじれや腕の動きなど、仏像はもっと静態的ではあるが。
新古典主義は、バロックの行き過ぎたダイナミズムに対するアンチテーゼでもあったようで、それが意識的なスタティズムに行かせる。つまり、ダイナミズムとスタティズムをかなり意識して、若干こじらせてもいる。
古代ギリシャの彫刻の時代にもそういった議論はあったのかもしれない。しかしこの彫刻は、そういったテーマ性をまず前提にして制作されているわけではなく、その分肩の力が抜けているというか、自然な「まぁ、ヘルメスさんならこんな感じでしょう」感が出ている。こじらせた中二病になる前の純真な時代、ということができる、かもしれない。できないかもしれない。
ガチガチのポートレート撮影やゴリゴリのスポーツ撮影のどちらでもなく、オフショット感がある、みたいな感じか(違。
7.ラオコーン群像
ヴァチカン美術館回の最後を飾るのは、ラオコーン群像である。
ウィキペディアによると、この群像が発見されたことがヴァチカン美術館をつくるきっかけになったらしい。
この群像は、1506年にネロのドムス・アウレア跡とサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の近くで発掘されたという。
https://maps.app.goo.gl/oaW6pmYen6JuDitR9
地図で調べると、確かにこの二つはすぐ近くである。発掘された時代は、日本でいえば応仁の乱後である。
古代ローマの富裕層がオーダーして作らせたものであろうといわれている。
もともとは、アナトリア半島のペルガモン王国(紀元前3-2世紀のアナトリア半島のヘレニズム王国)で制作されたオリジナルがあり、それを複製したものとされている。
非常に躍動的で、古典古代の時代には動態的なものも静態的なものも様々造られていることがわかる。
動きの複雑さ、それに伴う構図の複雑さからも、非常に「取り込み中」であることがよくわかる。
何をしているのかというと、仕事でバタついているとかそういったレベルではなく、国家存亡の危機、かつ命の危機というかなりクリティカルな状況である。
場面はトロイア戦争の一場面で、現代では失われてしまったトロイア伝説の挿話、「イーリアス」を本編とするならばスピンオフ、外伝的なストーリーを基にしている。
ラオコーンはトロイアの神官で、像の真ん中の人物である。両脇はその息子たちである。
神官ラオコーンは、ギリシャ連合軍からトロイアに送られた木馬が、ただの友好の証などでなく、中に兵士が仕込まれていることを見抜いた。
で、木馬に向かって槍を投げつけて(かなり過激な方法である)、中に兵士が隠れていることを暴露しようとした。
しかしながら、それを察知したアテナイ(アテネ、ギリシャの味方の戦女神)に、使いの大蛇を送り込まれ、親子三人とも絡めとられて死亡、という話らしい。
トロイアの危機を察知しながらそれを伝えられず絶命する直前の無念と苦悶の瞬間、ということである。
ちなみに、トロイアの滅亡を察知(というか予知)した人間には、他にカッサンドラという予知能力を授かった女性がいたが、ラオコーンもそうした「ヤバい」と知りながら止められなかった少数派の一人ということである。
はじめは、
息子「おとん、こっちの足も絡まってもた」
ラオ「すまん、わしいま取り込み中やっ」
くらいのものかと思っていたが、けっこう深刻な事態であったことが分かった。えらいこっちゃ。
ローマ人はトロイアの話が好きであった。
ローマの建国神話では、ローマの創始者はトロイアの生き残りの末裔とされたからである。
トロイアを落ち延びイタリアにたどり着いた英雄アエネーイスの伝説は、紀元前1世紀の大詩人ウェルギリウスによって記されている。
このラオコーン群像(正確にはペルガモンのオリジナルのローマにおけるレプリカ)は、今や古代ローマの代表的文学とされるそのウェルギリウスの代表作「アエネーイス」の制作よりもさらに前に作られたと推定されている。
伝説の生まれるさらに前のものが現代に残っていて、しかも中庭に野ざらし(天井はあるけど)になっているというのも、なかなかすごい話である。
8.「おらが町(国)が一番だべさ」のヤンキー的発想をへし折る世界遺産の凄み
過去の時間のスケールが2000年前くらい、すぐ隣り合わせに生活をしているのがイタリアである。街中歩いていても、「あぁ、あれね」くらいのノリで古代遺跡が置いてある。紀元前数世紀くらいに遡って、ようやく「結構古いね」くらいの感覚ではないか。
国土の広大な国の人の距離感が日本人と異なる様に、イタリアは、特にローマは時間のスケールが日本とは全く違う。京都の洛中の老舗の町衆などが、300年続いて一人前とか鬼の首獲ったようにいきがって言っているが、そんなものしょせん児戯に等しい。*1
そういうマウントの取り合いしたって、おたくら中国や地中海文明の地に生まれた人と比べられたら粉微塵になりまっせ、という話である。
長く残ってきたものに触れてみると、時代の変遷ごとに人がどう考え、過去とどう向き合ってきたのか(古典⇒バロック⇒新古典vsロマンみたいな)がわかる。それぞれの考えを研ぎ澄ませた結果の超絶技巧などの到達点に触れることもできる。
長く残ってきたこと自体がすごいのではなく、それは結果でしかない。その過程で繰り返されてきた人間の試みにこそ意味がある。
結局、個々人のレベルでは自分自身の行いにどのような意義を見出すか、どれだけのことを考え、到達するかが重要であると、これだけの偉業の集積を見せられると改めて実感する。
試行錯誤、思索の軌跡を、人類の普遍的な遺産として語り継いでいこうとする姿勢に共感もするのである。ヨーロッパ人が普遍主義を掲げて文化遺産保護をしたがるのも、確かにわかる気がする。同時にそれは、単なるヨーロッパ中心主義(これでは京都人ごときのちんけな歴史マウントと同じである)であってはならず、各地の文化芸術をフェアに見る視点が求められるのであり、まぁそのためにUNESCOなどは活動しているのだろう。たぶん。知らんけど。
自分が何かに属しているからえらい、などというちんけなローカリズムを粉砕する力が、あるいはこうした遺産にはあるのかもしれない。まぁ、用い方によっては「俺たちの街にはこれがある。だから俺スゲー」的なローカリズムを助長しかねないのだけれど。
だからこそ、こうしたご当地自慢大会で一等賞獲りそうな連中から、「そういうの無意味ですよ。古いとか新しいとか、大きい小さいとか関係なく、人類みなの財産ってことでいいのでは?」という姿勢で音頭をとることが大事である。中途半端なマウント獲りで天狗になってる輩の鼻っ柱をへし折るには、こういう紳士的な振る舞いが最もいい薬である。
翻って見ると、そういう普遍主義のポジションをとるうえでは、特定の宗教的な立場(要はカトリック)はかえって食い合わせが悪い、とも思える。期せずしてかとは思うが、この美術館の俗っぽさ、というかもはや俗物主義が、「人類みなで素晴らしいものをシェアしましょう」的な普遍主義と相性がいいのかもしれない。
狭小なナショナリズム、ローカル主義(自分があるすげー共同体に属しているから俺もすげー、的なやつ)は、古代ギリシャ・ローマからの歴史の蓄積を人類みなの遺産として残そうとする普遍主義の「凄み」の前では、無意味である。人類スケールで見ると、歴史の長さとか、広さとか、人口の多さとか表面的なことだけでマウントとるのって、マジでつまんねーしダセーなと改めて強く印象付けられた。