手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

記憶色とは

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記憶色その1

Canonは記憶色、Nikonは自然色といわれる。

といっても、何が記憶で何が自然かなど、突き詰めれば結局人の視覚の主観でしかない。

そもそも、世界が人間が見たままに彩られて存在するのではない。人間の目が、赤・緑・青(RGB)の光の波長に感応する受容体を有しているから、世界がそのように見えているに過ぎない。

イヌが見た世界、蝶が見た世界、蜂が見た世界は、まったく異なる色彩に彩られた、まったく異なる世界である。

特によく言われるのは、「蜂には光の向きが見える」ということである。「光線の向き」という人間の認知能力外の事象など、にわかには想像しえないが、当たり前に存在する。

つまり、人間が見たままの世界が世界のありのままなのではなく、人間が見た世界とは、人間が切り取れる範囲で認識した、世界のごく一部・一側面でしかない。

さらに、多くの人間はRGBで認識するが、色弱の人はRとGの識別が苦手だ。

色弱でなくとも、視細胞が光に感応する「閾値」は、人によって、どころか各細胞ごとに異なる。

つまり、ある人が見て脳に造影された景色をモニターに出力できたとして、複数人のそれを見比べてみると、必ず微妙に色合いが違うはずなのである。

これをこそ、「主観」という。

そんな訳で、この世の中に「不変の画像」「真実の映像」というものは存在しない。

あまっさえ、カメラで撮った写真などなおさらである。

各メーカーの技術者が施したレンズコーテイング、センサーの感度、画像処理エンジンによる処理、などなどにより、何重もの「色眼鏡」がかけられていく。

そうして出力されたものに、もはや「何が真か?」などという問いは成立しない。

だから、結局は撮った写真のRAWデータを、自分なりにLightroomで調整しようが、メーカーの解釈任せでJPEG撮って出しにしようが、どちらが正しいなどということはあり得ないのである。

しかし一方で、インスタで流れてくるバエル写真などのように、コッテコテに画像処理したものはそれはそれで、「お前それホンマにそう見えとんのけ?目ン玉どないなっとんねん??」といいたくなる。

それでも相手が、「いや、わしにはこう見えんねん!」ということなら、まぁそっとしておくべきであろう。

これ、西洋絵画における「写実とは何か?」にもつながる話で、フェルメールあたりから、カミーユ・コローらのバルビゾン派や、ウィリアム・ターナーなどを経て印象派に到るまでの葛藤も、同じようなお悩みを抱えている。はずである。

 

いずれにしても、自分の主観に対して素直に謙虚に、「自分にはこう見えた」を再現するのが写実であって、そのタガを外して色をねじくって遊び始めたら、それは写実の外に出た何か別の遊びだ、という程度に認識しておく、というのが、今のところの自分の着地点だ。

 

ってことで、他の写真をば。

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記憶色その2

カメラとは人間の目よりはるかに性能の悪いもので、なかなか人間が見た風には造影してくれない。

本当は、雲がもっとこうなんというか逆巻いてイイ感じに「グオオオオッ」となっていた(語彙力)のだが、それを表現するのはかなり難しい。

 

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記憶色その3

これなどかなりいじった。

毛無から増毛(?)と思しき対岸が見えたのだが、レンズを通すと全く写っていない。ように見える(画像データとしてはちゃんと記録されているが、画像ファイルとしてそのまま再生すると全然見えない)。

なので、Lightroomで対岸の部分だけ無理くりいじって、何とか見えるようにした。

かなり雑なコラージュみたいになった(汗

 

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記憶色その4

これは、我ながらかなり納得がいった。

近所の畑からである。

思えば、最近ド逆光で撮ることってなかったなぁ。

目で見ると、下の畑は明るく緑に、上の荒々しい空は強烈な陰影で見えていた。

人間の目のダイナミックレンジの大きさはすさまじいものである。

しかし、これも写真に撮ると、上の明るさに合わせると畑が真っ暗、畑の暗さに合わせると空が真っ白、となる。

で、Lightroomで双方の明るさを真ん中に寄せるように調整して、出来上がったのが上の写真。

かなり目で見た記憶に近い。

 

写真撮影の悪いところは、ファインダーばかり覗いて撮ることにばかり気が行ってしまうことだ。

実際に直接目で風景をしかととらえて、その風景を記憶に叩き込む必要得がある。

そして、撮った写真をその記憶に沿って再現していく、これが現像の望ましい姿だろう。