手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

ローマ文明の象徴コロッセオへ

第一日目フォロ・ロマーノに続いて、コロッセオへ。

コロッセオのステージ横から

メインテーマ:建造までの歴史

1)ローマ大火

一世紀後半ティトゥス帝の時代に竣工した。

ティトゥス帝の治世は短かったが、大半の事業を先代で父のウェスパシアヌスから引き継ぎ、また次代で弟のドミティアヌス帝が引き継いでいった。

建造開始は紀元70年ころ、ウェスパシアヌス帝の時代とされる。

ウェスパシアヌスが皇帝となる前に、14年に及ぶネロの時代があった。

ローマ市内で大火が発生し、中心部の多くの建物が焼けた。

被災地は、現在のコロッセウムや黄金宮殿(ドムス・アウレア)の跡地周辺であり、フォロ・ロマーノの隣接地域であった。

ネロによる大火災後の対応は、歴史家タキトゥスも高く評価するところである*1

2)大火後の都市計画

火災が大規模な延焼に発展した理由は、密集しすぎた建物、乾燥した気候と水場の少なさにあった。

いまであれば、建築基準法や消防法などで、類焼を抑制する施策が取られる。当時は、木造4階建てのアパートなどが密集し、家にプールや浴槽などの水槽を置くのは贅沢税の対象とされるなどの社会背景があった。

ネロは焼け跡の再開発に、火災を防ぐ緩衝地帯として広大な公園、水場(貯水池)、公共施設を建築することを計画する。これがドムス・アウレアで、皇帝の宮殿とともに市民のための公共スペースを作る予定であった。

ネロはギリシャ文化に傾倒し、ドムス・アウレアでもってギリシャ的なアルカディア(理想郷)の再現を試みた。

しかし、これがローマ市民に不評であった。ギリシャの理想郷よりも、食い物と見世物を求める現金なローマ市民からの受けは悪く、従前の職権乱用による男女見境のない「お手付き」やら、ドムス・アウレア造営のための放漫財政やらを元老院に追及され、ついに皇帝の地位をはく奪される。その後、ネロは自殺する。

3)帝位はく奪後の内戦

当時、元老院には皇帝を罷免する権限があった。

現代的感覚からすれば、議会と元首の相互チェック機能として評価されえよう。しかし、当時のローマ帝国では、これが内戦の原因となった。

ローマの辺境を防衛する軍団の長で、有力な元老院議員でもある者たちが、帝位に名乗りを上げる。

一人目はヒスパニアのタッラコネンシス属州総督であった老齢のガルバ。

彼がローマに入って粛清を行い支持を失うと、元老院はドナウ軍団の支持を取り付けたオトーを皇帝として呼び寄せる。

しかし同時にライン軍団に御輿として担がれたウィテッリウスがローマ進軍を開始した。ドナウ・ライン両軍はイタリア北部で衝突し、辺境防衛軍最強決定戦の様相を呈する。

辛勝したライン軍団がローマに入城するも、軍が都市に駐留すると、食い物は徴発するは疫病は持ち込むはで、ろくなことがない。

御輿として担がれただけの、食材を消費する以外これといった才のないウィテッリウスは瞬く間に支持を失う。

有力属州であったシリアの総督ムキアヌスの支持を得て、当時パレスティナ属州でユダヤ戦争を指揮していたウェスパシアヌスが、帝位に名乗りを上げる。

彼は子のティトゥスユダヤ戦争の継戦を指示し*2、自らはムキアヌスの支援を得てローマへの進撃を開始する。

ウィテッリウスは放逐され、ウェスパシアヌスが皇帝としてローマに迎えられる。

3)ウェスパシアヌスの皇帝就任と皇帝権力の質的変化

皇帝就任後のウェスパシアヌスは、ネロ帝を罷免した元老院に対して、以後皇帝罷免決議を無効とする法案を提出、可決させる。

これで、元老院は皇帝の劣位に置かれることが決定的となった。

現代であれば民主主義の後退ということになる。

しかし、皇帝罷免権が帝位を流動化させたことも事実で、ウェスパシアヌスに到るまで3人の皇帝が僅か1年の間に乱立したのも、元老院が呼び寄せて皇帝に指名する、軍が皇帝に担ぐ*3、などの複数の動きがばらばらに起こったことに起因する。

最も注目すべきは、古代ローマ帝国には立法機関も裁判所も、その基礎となる判例法や成文法もあったが、唯一決定的に欠けていたのが「官僚制度」であったという点である。

安定した行政をつかさどる官僚制がない代わりに、広範な行政事務を軍団が担っていたとされる。また、ガルバやムキアヌスなどがそうであるように、属州総督は、当該地の軍団司令官を兼ねていた。軍人・文民が未分離であったといえる。

文民としての官僚であれば、自らは暴力機構を持たないがゆえに、権力者の下僕となる。しかし、暴力装置である軍団自らが行政権も兼ね、そのトップもまたしかりである場合は、どうだろうか。行政と軍事の権力奪取のために、容易に自らの暴力装置を駆使することを考えるだろう。

ローマの行政、軍事の未分離な制度は、権力の流動化を惹起し易いものであった。400年後の西ローマ帝国崩壊、あるいは東ローマ帝国の消滅する1400年後に到るまで、皇帝を選定する強固な、明確なシステムはついに生まれなかった。実子・養子を皇帝にするか、さもなくば戦乱か、を繰り返した。帝権の承継をめぐる問題は、ローマの名を冠するこの帝国の宿痾として、最後まで尾を引くこととなった。

こうした背景の下で、元老院に皇帝罷免権を持たせることは、次の帝位継承者を選定するシステムなきままに帝位を空白にする、すなわち出口戦略なき権力の流動化を引き起こすこととなる。

こうした点からも、ウェスパシアヌスの判断は無理からぬものであったのかもしれない。ローマ皇帝の地位は、これで一歩、元首から君主へとその属性を変えたのである。

話をさらに逸らすと、君主の地位の流動化と、代替わりの度のお家騒動というのは、オリエント地域のお家芸でもあった。対照的に、後世の西ヨーロッパ(オリエントの反対としてのオッキデントOccident)に成立した神聖ローマ帝国の帝位承継は、教皇の権威の下で正統性が承認される形態をとり、ゲルマンの族長の地位の承継に係る相続法や、「選帝侯」システムによって運用された興味深い制度である。

オッキデントに発したローマは、オリエントを包摂する帝国となると同時に、自らの権力システムもオリエント化していったともいえる。

コロッセオから覗くコンスタンティヌス凱旋門 コンスタンティヌスは4世紀の大帝であり、首都をアナトリア半島コンスタンティノポリスに東遷し、文民と軍人の分離を完成させ、キリスト教を公認した。従前と打って変わって、キリスト教を皇帝の権威に取り込んだ。ローマ皇帝のオリエント化の一つの達成を見た皇帝といえる。

4)コロッセオ建造へ

ネロ帝による不評なドムス・アウレア造営計画は中断した。

大規模な貯水槽の建設予定地であった土地はすでに大規模造成済みであり、そこを利用して建設されたのが、コロッセウム(イタリア語でコロッセオ)であったという。

ギリシャ的な理想郷ではなく、市民が求める血沸き肉躍るエンターテインメント施設であれば、市民の支持を取り付けられると考えたのであろう。

 

補遺:その後のコロッセオ

1)西ローマ滅亡後

コロッセオは、5世紀のゴート人の軍人オドアケルによって、最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルス(奇しくもローマ建国の祖ロムルスの名を冠した幼帝であった)を廃位して以降も、見世物興行の場として6世紀までは使われていたようである。

6世紀は、東ローマ帝国イタリア半島をゴート族から奪還した時期であり、イスラーム帝国が勃興する前のこの帝国の最盛期でもあった。オッキデントからオリエントを支配し、オリエント化していったローマは、一時期オリエントの帝国の一都市となってもいたのである。

その後、採石場として建材が取り出され、徐々に形を小さくして現在に至る。

コロッセオ内部から、かつて天幕が張られたとされる上階席を望む

2)殉教の聖地として

コロッセオは、キリスト教徒が見世物として迫害されたことから、殉教者の歴史を伝える施設として、聖地となっているという。

人皇帝の時代を終わらせたディオクレティアヌス帝(3世紀末から4世紀初頭)はキリスト教を弾圧したことでも知られ、その他にも複数の皇帝がキリスト教徒を迫害している。地上における皇帝の統治権を否定する、とまでいかずとも少なくとも承認はしない。天上の神が至高である。となると、現世に期待しないという特殊なアナーキズムのようなものである。多神教の下で比較的敷居の低かった皇帝の「神格化」という観念を用いつつ、オリエント的君主へと徐々に権威主義化していくローマ皇帝にとって、都合の悪い存在ではあっただろう。

3)プロパガンダとしての聖地

聖地とするだけの理由は確かにあっただろうが、それだけではないだろう。

ローマ教皇は、諸外国の大使などを受け入れ、王侯にも自らの街の遺産を見せつけた。

ローマ教皇庁の主だった事績を挙げると、例えば次のようになる。

すなわち、十字軍運動を煽り、レコンキスタを嚮導し、地中海ではトルコ帝国との戦争を、遠い外洋ではスペイン・ポルトガルの征服戦争に便乗した布教を行ってきた。

自らの権威付けのために、過去の遺産をどう見せつけ、プロパガンダに使うか?その目的が先にあり、そのための用法としての受難の歴史というストーリーであったようにも思える。

何せ、ローマ教皇といえば歴代、イタリア各地の都市国家の有力貴族(ローマのコロンナ、オルシーニ、ファルネーゼ、ミラノのスフォルツァフィレンツェメディチヴェネツィア元老院議員の名家、スペイン貴族等々)であり、いわば俗人、というか俗物ですらあったのだから。聖職者が俗物であった場合、考えることは俗物なりであるはずである。それゆえにルネッサンスが勃興したともいえるのだろうが。

コロッセオの内部

 

*1:もっとも、現代においては大火に伴ってキリスト教徒がスケープゴートにされた問題などが語られる

*2:これによってティトゥスユダヤ戦争を終結まで導くこととなり、その名の凱旋門が建立される。先述のマサダ要塞攻防戦のような凄惨な事件も発生することとなる。

*3:ここに、賢帝の世紀の後の3世紀、軍人皇帝時代の、軍が皇帝をすげ替える現象の兆候を見ることができる