二日目、ヴァティカンに向かう。
1.ヴァチカン美術館群の概要
ヴァチカンは、俗物の殿堂である。
まず、収蔵品である。
宗教絵画などばかりかと思ったら、大違いである。
入ってさっそく古代ギリシャ・ローマの彫刻に出くわす。
その後、ルネサンス期の宗教画を中心とした絵画の美術館を経て、今度は古代エジプトの収蔵品の美術館に入る。
宗教などお構いなしの本音がダダ洩れな感じである。
なにせ、この美術館の正式名称が"Monumenti, Musei e Gallerie Pontificie"、教皇の記念品、博物館、美術品収蔵室、である。
そもそも、蒐集するという行為自体が俗物的以外の何物でもないのだが。
パリのルーブル、ウィーンの国立博物館、マドリーのプラドなどと並ぶものをイタリアで探すならば、それはヴァチカン美術館群であろう。
地中海世界のものをことごとく収集している、いかにもその覇権を誇示するようなコレクションは、他国のナショナルミュージアムにも通底するものがある。ただ、この美術館の驚くべきところは、こうしたコレクションが必ずしも近代の帝国主義時代の覇権の波に乗って収集されたものばかりとは言えない点である。イタリア半島の諸国家が地中海世界の貿易を牛耳った時代やその前後の中世末から近世にかけてのものも多く蓄積されてきている。
周回遅れの三流帝国主義国であった日本の、上野の東京国立博物館のコレクションなど、帝国主義と博物館とは何であったかと自問することから目を逸らした陳列と、自らのそうした忌避行動にすら無自覚である姿に感じる痛々しさには、思い出すだけで共感性羞恥(あくまで恥をかいているのは東博であって私ではない、念のため)を禁じ得ない。
2.ギリシャ・ローマ時代の彫刻コレクション
さて、話を戻すと、ギリシャ・ローマ時代の美術品が陳列されるピオ・クレメンティーノ美術館では、早速カエサルとアウグストゥスの胸像が迎える。
紀元前後のローマ帝国の始祖二人の他にも、歴代皇帝の全身像が多くおかれている。先述のセプティミウス・セウェルスや、初期の暴君カリグラ(ネロの二代前)などである。
アテナイ(アテネ)に率いられ闘う男たちの彫刻が施された石棺などもある。
異教の宝物、遺物だらけである。
時代にもよるため一概に言えないが、歴代教皇は、特に東方の文物がイタリアに流入した11世紀前後以降は、どうもさほど真剣に教義や戒律を順守する気がなかったように思えてならない。
ヨーロッパ各地の教会では教会法(カノニスティーク)に基づく裁判も行われ、異端審問などで火あぶりにされる者もいたわけだが、これは末端に行くほど行動が先鋭化する、という例ではないか。どこも、末端に行くほど中央の意向を気にし、それを過剰に忖度するという傾向がある。
いまの日本でもそうで、中央の立法側にいるキャリア官僚の弁は意外に自由なもので、その天命を通達で受けるだけの地方の木っ端役人が通達を釈迦の金口直説よろしく過大解釈する。そして市民が困る。世の中を息苦しくするのは、上の意向を忖度する息苦しさを生きる連中による息苦しさの要らぬおすそ分けによる場合が多い。
案外、中央の人間などいい加減なものである。でなければ、教皇庁の中枢に近いイタリアでルネサンスが起こるまい。
3.ピナコテーカ
入り口に、ミケランジェロのピエタ像の第一のレプリカ(現物はサン・ピエトロ大聖堂らしい)がある。
マリアたんが若すぎる。ママみというより萌えみすらある。
「マリア若杉問題」は当時からあったようで、依頼者であるサン・ドゥニ修道院の枢機卿からもツッコミがあったようである。
枢機卿「これ聖母じゃなくてマグダラの方のマリアじゃね?ちょっとエロ過ぎくね?」
ミケランジェロ「いや聖母だし。聖母マリアは原罪ないから歳とらないのでセーフ(白眼)」と強弁した模様である。
原罪がないと年を取らぬというのもよくわからぬが、そういうものだと言われればそういうものかもしれない。
若いってそんなに正義かね。ここら辺の感覚が、老荘思想のある東洋とは根本的に違うように思われる。
オーソドックスなピエタはこんな感じである。
号泣しているし、マリアはイエスの母なりの年恰好である。
そこから見返すと、ミケランジェロのピエタがいかに異質かわかる。
マリアが若く、妙にかわええ、というのはさておき、静謐である。
号泣してもいない。
彼女は、イエスが人類の罪を背負って贖ったことを知っていたからであろう。
そういう一枚上手のトリッキーな解釈をブッ混むチャレンジを、大口の依頼の中でもやってのけるのが 彼の我の強さであったのだろう。
近代の「芸術家」というものが誕生する前の時代、画家は絵師であり、彫刻家は彫り師であった。
求められる定型のテーマに沿って作品制作をすることが求められた。そこに、独自の解釈や自らが信じる美しさを入れ込み始めるのが、芸術家の始まりであった。日本でいえば、中世初期の慶派がそうである。
これも、思いのほか周囲の反応は静かで、号泣して取り乱している者がいない。ただ沈鬱に、悲嘆にくれる人々である。
カラヴァッジオの作品を始め、ジオット、ラファエッロなどが収蔵されている、最も見どころの多い展示室である。
ラファエッロの傑作で、Trasfigurazione=変容という。
キリストが神の子として生まれ、死、復活して天に戻り、マリアも被昇天を得て天国に迎えられる。
ちなみに、ラファエッロは天上の天使たちを首から羽の生えただけの姿で表現しているが、これは偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテースの天上位階論によってそう言及されたから、らしい。この天使たちはセラフィムやケルビムという、天界の最上位の天使らしい。
受胎告知にやってくるガブリエルや、大天使ミカエルは、みな長身痩躯である。どうやら彼ら地上に降ってくる連中は「大天使」という。名こそ偉そうだが、実は使いっ走りである。下っ端ほど、人間に似た格好をしているらしい。天界から降りてこず、地上からは雲で姿が暗示されるだけの、首から下がない天使の方が偉いということである。