京都帰省時の散策シリーズの最終回。
夕方の伏見、稲荷大社に行った。
稲荷大社もまた、古くから「稲荷大権現」と呼ばれた神仏習合の社である。
稲荷神は観音菩薩などと同一と考えられていたようである。
鳥居はあるが、いわゆる明治以降の国家神道系の神社に見られるような、演出された整然性・静謐性とは無縁である。
石の鳥居や祠、狐に苔むして、ところどころにビビッドな朱色が射す。
人工と自然が同居する雰囲気が、他の「作られた」神社との違いである。
緑と朱の社寺の山道の傍らには、同じ色合いのナンテンの実がなっていた。
それにしても、Z6のカラーはかなりクール寄りだ。どうもNikkor Z 24-70 F4.0のレンズのせいでもあるらしいが・・・
雲は出ていたが、幸い日は覗いていた。
枯れ木と雲影のエヅラでは、色はむしろ邪魔になる。
逆光部分はハイライトを下げて、陰になっている部分のシャドウを上げた。
苔むした狐さん。
あまり意識したことがなかったが、狐は巻物(経?)を加えている。
やはりこれも神仏習合の名残であろう。
前掛けは新しいもので、「奉納」と書かれていることからも、今も信徒が世話をしていることがわかる。
表面的には、世の中から宗教信仰は姿を消しているようであるが、ローカルに目を凝らしていくと、こうした文化・習慣としての信仰が、まだ息づいているのだろう。
山一帯が神社で、中にいくつも茶店があるというのは、意外と珍しい。
同じように神仏習合の歴史がある八幡社(八幡大菩薩などといわれる)の一つ、石清水八幡宮でも、ここまでの数の茶店はなかろう。
稲荷大社や八幡社も、やや規模は小さいとはいえ、南都北嶺などと類似した「寺社権門」、あるいは宗教アジールであった。つまりは、一つの支配勢力だったといえる。
山全体が宗教都市であった時代の面影を伝えているように思われる。
安易に西ヨーロッパと比較するのもよろしくないのは承知だが、あえてそうするならば、トリアー大司教座などの司教座都市国家などに似ているかもしれない。トリアーやマインツ、ケルンなどの司教は、神聖ローマ皇帝の選挙権を有する選帝侯であった。彼らは、カトリック教会という一つの堅牢なヒエラルキーに属する権力でもあった。
日本の場合は、全宗教勢力を集約する権力は存在せず、互いに区々ばらばらに、武家権門(武士)や王家(皇室・公家)と迭立し牽制しあっていた。
こうした山の参道の茶店は、「宗教都市、稲荷」の往時を偲ばせる。
稲荷大社は商売の神の面目躍如である。
ご利益を期待する人々から鳥居の寄進を受ける→鳥居を並べて千本鳥居にする→インスタ映えするから観光客がわんさか来て儲かる→さらに鳥居を立てる人が増える
無限ループの勝ちパターンである。
必勝ビジネスを編み出して自ら実践しているところなど、日吉大社を頂点とする山王社などほかの商売の神々とは各が違う。
「私はこうして成功した!!」とか言って講演で全国行脚している胡散臭い実業家=講演家よりも、はるかに説得力がある。
ちなみに余談だが、比叡山のふもと、坂本にある日吉大社はもともと「ひえたいしゃ」と呼ばれた。
比叡山延暦寺は、寺院であるため自ら商業活動ができなかったらしい。しかし、神社ならばそれができる。
目の前の琵琶湖を使った日本海からの物資の交易に手を出すため、延暦寺がダミーカンパニーとして作ったのが日吉大社である。金持ちが節税対策で英国領ヴァージン諸島にペーパーカンパニーを作るのと同じだ。
江戸幕府が崩壊したころには、日吉大社の神職は延暦寺の僧侶からアゴで使われ、不遇をかこっていたらしい。このことから彼らは、薩長連合がクーデターで政治権力を掌握した際、真っ先に廃仏毀釈の流れに乗って、自らの社殿内にあった経典を焼き、延暦寺に武力闘争を仕掛けようとしたという。
この話は、今後日吉大社などについてレポートすることがあれば、その機会に述べよう。
日は傾き、いよいよ足元が見えづらくなるかという時間帯。
山頂に達して、急いで下山ルート(登りとは違う)に入る。
しかし、この瞬間でなければ見ることができない風景がある。
中腹の四つ辻に戻ってきた。
大山崎あたりであろう山に、日が沈んでいく。
広く見晴るかせる場所ではないが、悪くない。
今回撮影した中で一番気に入った写真がこれ。
70mm望遠画角で撮った。
日没後に本殿に戻ると、このように灯篭が灯っている。
この神社には桜やモミジなどはないが、暮れなづむ中に明かりが灯るのは、よそではお目にかかることはないかもしれない。
意外に貴重なイベントだと思う。
門の両側には、木像が置かれているが、当然仏像ではない。
これが神仏分離の爪痕だと、気づく者は少ないだろう。
神仏分離に限らない。
人は、ほんの数十年前まであったものでも、たやすく忘却に埋もれさせる。
自らの来し方を見失うことは、かくも簡単にできてしまう。
歴史は、あるいは事実は、容易に「作り出されて」しまうのである。
私は、historyという言葉が嫌いだ。
history, histoire, historiaこれらは、物語を意味するstoriaを源とする。
歴史は物語としてあってこそ後世に語り継ぐことができるという側面は否めない。
しかし、歴史が一個の物語となってしまった時点で、事実が持つ多面性や多義性は、その多くが捨象されてしまう。
そういう意味で、中国語の「歴史」という言葉には、幾分かの客観性が感じられる。
「歴」は「経過」を、「史」は「時勢の変遷」を意味する。
実際に中国で編まれた歴史書の内実がどうであるかは別にして、少なくともこの言葉からは、これまでの事実経過を、記録としてとどめていく、というニュアンスを汲み取れる。
一個の物語、それは語り手の主観である。
しかし事実の経過として意識され記述されるのであれば、まだ事実の多義性・客観性への意志が残されているようにも思える。
歴史は、やはり多種多様な事実の断片を張り合わせたモザイク画として見るべきように思う。そこには力強い一つの物語は成立しえないかもしれない。しかし、ミステリアスに絡み合う多くの物語が存在するはずである。
物語の暴力により埋もれてしまった多くの記録を、どれだけ掘り返すことができるか。目を凝らしさえすれば、我々は多くの埋もれていたものに、意外と容易に触れることができる。
稲荷大社の朱と苔は、そうした埋もれた「歴史」の断片であった。