神護寺などの高雄方面には、ほとんど行ったことがなかった。
仕事で付き合いのある外国人のお客さんが、「神護寺は素晴らしかった!」と勧めてくれたので、行ってみた。
まだモミジは全盛ではないが、少しずつ色づき始めていた。
有料道路・嵐山パークウェイに入ってすぐの駐車場に車を入れて、神護寺へ。
まず驚かされるのは、石段のアップダウンの連続だ。
山中の寺であることはわかっていたが、まさかノッケからここまで激しいとは・・・。
後で調べると、神護寺の境内地に入ってからだけで、400段の石段のある「石段の寺」として有名なようだ。
さらに調べてみると、どうやら神護寺の道が過酷な理由の一端がわかった・・・。
神護寺は、城だったのである。
写真の庵は、神護寺境内地の境界と思われる清滝川を渡る前にあった。
この清滝川が、おそらく堀の役割を果たしていたのだろう。
思えば、神護寺は周山街道沿いにある。丹波・丹後から洛中への交易路であり、愛宕山から連なる京都の西山全体を扼する軍事拠点として格好の立地だ。
城であったことの出典を示そう。
出典:
上記講座の第254回の資料が該当する。
出典:
https://www.kyoto-arc.or.jp/News/s-kouza/kouza254.pdf
そらキツイわけだ。
真言宗の寺のようだが、おそらく寺社勢力として武装していたのは確かだ。
PDF6ページ目の城郭図を見てみると、連郭式か梯郭式のような、まさに山城の城郭というべき縄張りが見て取れる。
山肌を上下に穿つ堀切まであったとされており、ますます軍事拠点としての色彩が濃い。
石段と土塁が多く、ぱっと見では寺のようであるが、石段のつづら折りの激しさ、急峻さは、今思い返せば、納得させられる。
険しい参道には、ところどころ茶店がある。
おそらく茶店の立つ平坦地も、もとは子寺院、塔頭や、あるいは城郭の一部だったのかもしれない。
息を切らして上っていくと、ようやく山門が見える。
山門は修繕中で、足場が組まれていた。
まだ紅葉の本格シーズンではないが、観光客はぽつぽつと見られた。
日本在住外国人のグループ(イギリス英語のグループと、ドイツ語のグループがいた)
も何組かすれ違った。
私に教えてくれたお客さんもそうだが、どうやらこの寺は外国人(特に欧米系?)に人気らしい。
彼らに、「実はここは中世の城で、寺が武装していた」という話を聞かせたいものだ(興味ない人も多いと思うが・・・)。
こういうストーリーを観光客にどのようにアピールするかも、観光旅行の「ストーリー作り」として大事になってくるように思う。
山門をくぐると、平坦な境内が拓ける。
中には金堂や楼門等の寺院施設があり、さらにここから奥に踏み入ると、神護寺と一体をなしていた中世城跡、高雄城の曲輪となる。
楼門や金堂がある場所は、写真のようにさらに高い石段を上った先にある。
山城であれば、それぞれが独立した曲輪を形成していたことになる。
金堂は、先述の細川氏との抗争で焼け落ちた後再建されず、昭和9年に寄進により再築されたという。
しかしそこへと至る石段は、おそらく中世からのものではないかと思われる。
見たところ、野面積みのようであるが、かなり稠密な積み方がされている。野面のように、大きな石と石の間を小石で埋めるようなことがなく、自然石そのものががっちりと組み合って、隙間がない。かなり新しいのだろうか?
古いものだったとしても、「野面」というより「打ち込みハギ」あるいは「乱石整層積」への移行期のような石積みにも見える。あくまで素人の見立てだが。
石段には通常施されないのかもしれないが、石表面にノミを打ったような「化粧彫り」も見られない。織豊政権期の城の石垣などとは、異なる雰囲気がある。
いずれにせよ、タダの寺ではなく、武装勢力の拠点だったと知って、いろいろと納得がいった。
そういうことはもっと早く言えといいたい(笑
これが、中世の寺の実体である。
彼ら自身が、武士団などと離合集散をし、独自の武力を持って抗争にも参画した。
叡山や南都の大寺社などそうであるが、中世の寺社は上層部と実権を握る者が分かれていたようである。
門跡寺院や稲荷大社・八幡宮などの上層部は公家や武家の有力者、王家(中世における皇室・皇族の呼称)が占めていたが、彼らは「寺社勢力」としての寺院大社の政治的意思決定能力を有しなかったようである。純然たる学問的・呪術的能力を期待されていた。
実際に政治・軍事勢力としての意思決定や行動を取り仕切っていたのは、「衆徒・国人」といわれる平民層だったそうだ。僧兵・悪僧などもここに含まれる。
寺社勢力は、武士の支配などによる迫害から逃れた平民層をかくまうアジールでもあり、そうした平民層が実権をもち、上層部が持つ「呪力」をも駆使して武家や王家と切り結んだ、強大な勢力だったようである。
神護寺の激しい階段に遺された城の名残から、そうした中世に躍動した寺社勢力の姿の一端を見た。
※おまけ
神護寺を出て、せっかく入った嵐山パークウェイを嵐山まで走った。
ところどころ眺望ポイントがあった。
京都タワーの背にある叡山や東山が大きい。
自動車雑誌「Option」で、よくこの嵐山パークウェイを貸し切りにしてタイムアタック企画をやっている。
その影響か、フェラーリやランエボなどの走り屋たちがバンバン走っていた。
そんなものはよそにして、展望スポットからちょうどトロッコ列車を撮れた。
列車が陰になっているのが惜しまれる。
まぁ、初めての鉄道写真なんてこんなもんでしょう。
帰りは、河原町通りまで東進し、あとはひたすら南に向けて帰途についた。
道すがらホテルオークラ京都(京都ホテルオークラから改名)で買った豪華かつリーズナブルなお弁当は、改めてこのホテルの高品質さを思い知らせてくれた。