手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

東京出張

非道い目にあった。

 

11月下旬のことだ。

特に必要もない会議を、どうしてもやりたかったとしてもZoomで済ませられるものを、わざわざ東京で対面でやるというのである。

日司連が、である。

そんなものに付き合わされて、業務に割く時間と体力を奪われるのははなはだ迷惑である。

仕方なく行くついでに、普段なかなか会えない取引先の方々、仕事でも世話になっている友人とも会ってくることにした。

その友人と食べに行った新橋の焼き鳥屋(が原因ではないかと強く推定している)が原因で、出張後五日間ほども腹を壊して動けなくなるとは、想像だにしなかった。

中が生焼けの焼き鳥を、揃いも揃って10本コースなどいって10本も食わせる焼鳥屋に行ったのは初めてだ。

体調を壊して家事・仕事が止まっていた期間も考えると、大損失と言わざるを得ない。

むやみに東京に呼ぶのは、もうやめていただきたい(苦笑

というか、もう行かない。あんなつまらん町、こちらから願い下げだ。

 

というわけで(?)、東京にも懲りずにフルサイズミラーレス、わがZ6を持参して撮ってきた写真を載せていく。

いい加減、フルサイズはビジネストリップに携行するには重すぎることに気づいた。気づくのが遅い。

特にレンズが重たい。でかいセンサーサイズに合わせて、レンズ口径もでかくなる。自然、重たくなる。こんなデカブツを、体力もない輩がもののついでに持って行ったのである。阿保としか言いようがない。

 

さて、一発目はこちら。

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浜松町/Z6 + Nikkor Z 24-70 f4.0

なんとわざとらしい写真。といいたいところだが、加工は施していない。RAW現像も、露光量と彩度の微調整を行った程度である。

70mm画角、F5.0でSS1/13である。

手振れが厳しい状況だったが、Z6の手振れ補正は意外と優秀だ。

以前、春に祇園で、つい先日伏見稲荷で撮影した時も感じたが、かなり頑張ってくれているように思う。フルサイズという手振れ補正には不利な大型センサーでありながら、ここまである程度アシストしてくれるのはありがたい。

ニコンはスペックシート上は控えめに5.5段手振れ補正と記載しているが、おそらく実際はもう少し歩留まりがいいと思われる。地味にスペックシートより良い性能を発揮するのは、同じニコンでも「瞳AF」などとは逆である(あちらはほぼ役に立たないので使わない)。

 

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レインボーブリッジ

ホテルの部屋からはレインボーブリッジが見えると聞いていたので、喜び勇んで夜景を撮ろうとしたのだが、このザマである。

窓が汚い。

これが、春に泊まった「シャングリ・ラ 東京」との絶対的な、決して埋まることのない差である。

窓が、もはや強力なソフトフィルタとして機能している(笑

おそらく今までブログに挙げてきた写真の中で一番の駄作と思われる。

 

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芝桟橋近く

翌朝。ちょうど太陽が低く真正面から昇ってきた。

この時私は、前日食べた焼き鳥のために、翌日以降ひどい腹痛にさいなまれることを知らない(汗

 

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朝、港区のマンション群

東京に人口が集中しすぎている。

さらにその一部に、富が集中しすぎている。

衆議院選挙区の区割りも、5増5減で、増えるのは東京都と周辺だけである。

港区は平均所得が、10年前の資料で600万円から700万円ほどだったはずだ。

都内でも足立区が350万円ほどであったにもかかわらず、である。

 

人口吸引とは、要は人の搾取である。

北海道など、田舎の人を札幌が吸い上げ、そこにいる人を東京が吸い上げるという二重搾取構造である。笑えない冗談だ。

これは私の主観なのかもしれないが、現時点でかように人の搾取の中心として威勢を振るっている都市、すなわち地方レベルならば札幌が最も顕著であり、全国においては言うまでもなく東京であるが、こういう所、なんか面白いか???

正直、東京で写真を何枚か撮っていて、かつそれなりにきれいな写真も撮れるのだが、何か、自分自身が心を動かされるものがない。

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奥にスカイツリー

浜松町の東京タワーも、レインボーブリッジも、スカイツリーも、確かにマスメディア上ではアイコンとしてよく取り上げられるものだ。

ニュースなどだけではなく、ドラマやアニメなどでも。

目にすれば、「あ、よくテレビに映ってるやつだ」とはなるものの、どうもそれ以上のものではない。

コンテクスト性がない、あるいは非常に薄弱であることが、一因ではないか。

これは私の主観でしかないため、レインボーブリッジを見て感動のあまりぼろぼろと泣き出す人がいようが、それを否定するつもりはない。どう感じるかは自由だ。

極端な話、レインボーブリッジが天下分け目の戦いの戦場であったわけでも、東京タワーで史上有名な政変が起こったわけでも、スカイツリーがいつかの経済恐慌の象徴なわけでもない。

ただそこにある、何かの役に立つ便利な構造物、というに過ぎない。

これだけ人を搾取して、これだけ富を独占しようとも、しょせんはここまで極端な富の偏在が生じたのは、遅く見積もっても戦後以降の話である。

ゆえに、この都市が、特にその搾取のアガリで作ったアイコンの持つコンテクストの厚みなど、しょせんはその程度に過ぎない。

このコンテクストの厚みが、レコード=歴史の厚みであり、それは見方によってはヒストリー=物語お厚みにもなる。

困るのは、東京に住み富の偏在を当然の前提として生きる者たちが、それゆえに自らの存在を相対化できないことだ。

相対化とは、つまりは批判的考察である。

それを自らに向けること、自己の相対化・自己の批判的考察というのができて初めて、「知性」の初期段階に立てるのではないか。

 

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羽田空港第一ターミナル、富士山

東京にも、太田道灌の江戸に遡らずとも、歴史的基層はある。

しかし、東京のアイコンとして語られるのは、そうした本来の歴史的基層に発するコンテクストではなく、皮相的な、マスメディア謹製の浅薄なカルチャーに過ぎない。

なぜか。

おそらく、東京に住む人間の大多数が、東京に根差した「地元民」ではないからだろう。

よそ者風情がしたり顔で都会人ぶるから、その土地の基層にある本来のコンテクストに目もくれず、表層的なアイコンで文化を形成しようとする。

だから、東京はつまらない。

 

出張の最後に、ANAに乗るにもかかわらず、わざわざ東京湾の西側を望めるJALの第一ターミナルでモノレールを降りた。

あまりにも皮相的で浅薄な、エセものの塊のような雰囲気に嫌気がさして、せめて最後に、富士山くらい拝みたくなったからだ。

 

富士はその点、全てに寛容である。フジヤマ・ゲイシャなどという俗悪なステレオタイプも受け入れるし、他方古来よりの富士講の聖地でもあった。世界最古のSF小説(?)かもしれない竹取物語の舞台(=ヲタク的には「聖地」)でもある。

これを拝んで、ようやく気が落ち着いた。

翌日から、腹が下った。