手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂

ローマ7日目、移動日を除けば最終日である。

 

1.サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂へ

地下鉄サン・ジョヴァンニ駅で降りてすぐに、大聖堂がある。

ラテラノ地区は、かつて教皇庁が置かれた地であった。紀元4世紀初頭、コンスタンティヌス大帝がこの地の邸宅(もともとラテラヌス家の敷地だった)をキリスト教徒たちに譲渡して以降、教皇のバビロン捕囚と呼ばれたフランス王による教皇庁アビニョン移動までの1000年にも及んだという。

ラテラノ宮殿はもともと教皇庁の庁舎だったことから、現在も教皇庁保有であるという。

そのとなりにあるのが、ローマ四大聖堂の一つ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂である。

サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂ファサード

GiovanniはJohannes=ヨハネを意味し、洗礼者ヨハネ、福音記者ヨハネの二人に奉献された教会ということらしい。

なお、サンタ・マリア・マッジョーレは、マリアに、サン・ピエトロはペテロに、残る四大聖堂の一つサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂はパウロにささげられている。

 

2.内部

入り口

どの教会もそうだが、外観は大きい割に地味である。

ミラノから北にあるゴティック様式の教会は、外観からして派手で、ここが南欧のバシリカ様式・ロマネスク様式の建築との違いかもしれない。

中に入ると、これももはや驚かなくなってしまったが、またもや一国の首都の大聖堂を軽く上回るほどの豪壮さである。

この聖堂は、教皇アヴィニョン捕囚で荒れたラテラノ地区の再興のために、16世紀に建てられたものという。延々と敷き詰められた大理石の床や、太い柱、アーチの天井など、四大聖堂の一角とあって、ローマの並み居る教会・宮殿建築の中でも出色の規模である。

大聖堂のスケール

上の写真は、フルサイズで焦点距離50mmで撮影したもの。焦点距離50mmは、遠近感がだいたい人の眼と同じといわれ、実際に見たままの風景に近いとされる(視野角は人の眼の方が広い)。つまり、現場の遠近感、スケール感を最もリアルに伝えられる焦点距離である。

ミサ用のいすが敷きつめられ、天井ははるか高く、内陣近くに立つ人は豆粒のようである。

朝10時ころだったと記憶しているが、南側の窓から光が射していて、陰影が演出としても使われていることがわかる。

内陣のモザイク

右に大きめに描かれている二人が、真ん中寄りから福音記者ヨハネ、洗礼者ヨハネである。

二人の間に小さく描かれたSan Toriusはだれかわからなかった。左側に小さく描かれているのが聖フランチェスコらしいことから、十二使徒ではない後世の聖人ではあろう。

オルガンにも光が差す

 

3.400年前の日本人司祭

安土桃山期から江戸初期を生きた豊後(大分)出身のペトロ岐部という人物が、ここで司祭としての叙階を受けたという。1620年という。

彼はキリスト教禁令が出て以降、マカオバグダードイェルサレムを経てローマに渡り、司祭、イエズス会士となった。この際、このサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂で叙階されたのである。

その後、ポルトガルから喜望峰を経由してゴア、マカオと辿り、禁教下の日本へ戻った。鹿児島、長崎を経て仙台に潜伏したところを捕まり、拷問の末凄絶な死を迎えたという。

叙階の当時には、この建物はあったことになる。

19世紀の産業革命によって決定的な差がつくまでは、欧州と極東の生産力や技術力において、まだ決定的な差は生じていなかったとされる。西洋人の極東を見る視線も、この当時はまだ近代のような圧倒的な優位を前提としていなかったとされる。

しかし、さすがに極東の中華文明圏の端に組み入れられるか否かという境界領域の狭い経済圏であった日本と、かたや西欧の中心の地位は滑り落ちたとはいえ、スペイン・ポルトガルとともに世界分割を僭称した教皇庁である。この圧倒的な石造りの文明の規模の大きさには、彼も瞠目したに違いない。

彼の信仰は純粋に内面的に培われたなものだったかもしれない。一方で、この教会のような豪壮な建築、それにより演出される神聖さや神々しさは、信徒を増やし、信仰心を喚起する舞台装置として作られた訳である。時代はまさに、宗教改革とそれへのカトリックの対抗宗教改革の時代であり、その変形である新しく台頭したオランダ・イギリスと、スペイン・ポルトガルの海外貿易の主導権争いの時代でもあった。

信徒の獲得と版図の拡大で各勢力がしのぎを削った時代の、ある意味必死さのようなものが、この教会の豪壮さから伝わってくるように思う。

元来カトリックを始め多くの宗教勢力は、その信仰心を喚起し鼓舞するために、こうしたスペクタクル・エンターテインメントを提供してきた。その意味で、宗教はその時代の最大のエンターテインメントでもあったのかもしれない。聖地巡礼がツーリズムの礎となったように。

その幾年月も積み重ねられ、研ぎ澄まされた演出の感性の到達を見たのが、16・17世紀、熾烈な競争の大航海時代のこうした大聖堂なのであろう。

計算しつくされた演出、湯水の如く富を注ぎ込んだ豪壮さをピラミッドの頂点とするならば、同時に、その足元では「神の沈黙」の前に凄惨な拷問にも棄教せず殉教したペトロ岐部がおり、異端審問の名のもとに苛烈な粛清を行ったドミニコ会士たちがいた。また絢爛たる装飾の元となった金銀は、南米での苛烈な奴隷労働によってもたらされた。

拷問に信仰を試された信徒、敵対者の粛清、血塗られた強奪を礎に、この何よりも美しい聖性と豪壮さが形作られている。

娯楽とスペクタクル、芸術の極致が、地獄のような社会構造により形成され、それを一顧だにせず糊塗するという全体の在り様もまた、人間の恐ろしさである。