ローマ滞在7日目。
1.カピトリーニ美術館
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂の後で、もう一度フォロ・ロマーノを見たいと思い行ってみたが、案の定、当日券は長蛇の列で断念した。
理由は、フォロ・ロマーノ地区はコロッセオと一体のチケットになっていて、圧倒的に多いコロッセオ目当ての観光客によって、チケット売り場も混雑するためである。
フォロ・ロマーノが目当てでも、事前予約が必須である。
フォロ・ロマーノがだめでも、行きそびれているところはいくらでもある。
すぐ隣のカピトリーノの丘に行った。
2日前の昼頃に行って、祝日で混雑して入れなかったカピトリーニ美術館を目指す。
この日はまだ朝の10時過ぎだったことから、すんなり入れた。
この美術館こそが、世界最古の美術館・博物館である。
ラテラノの教皇庁に保管されていた古代からの美術品が、コンセルヴァトーリ宮殿、ヌオーヴォ宮殿にて一般公開されるようになった。これが1734年で、美術館・博物館というものが世に誕生したのがこの時とされる。
複数の宮殿で構成される美術館のため、palazzo, museoの複数形palazzi, museiであり、準じて修飾語のCapitolinoもCapitoliniとなる。
宮殿群に囲まれた広場は、ミケランジェロの設計によるという。
Google Mapで上空からの写真を見ると、地面には楕円形のレンガ敷きのデザインが施されている。
ミケランジェロはルネサンスの大成者とされるが、同時にバロックへとつながる萌芽を生み出したともされる。楕円形といういびつな(バロックな)デザインがここに現れていることに、彼の次の時代への示唆があったのかもしれない。
1)コンスタンティヌス帝頭部像
入ってすぐに、教科書にも載るコンスタンティヌス大帝の頭部像がある。
ローマ帝国末期といえば、この頭部像が必ずと言っていいほど出てくるという有名彫刻である。
2)絵画
他にも、この美術館に来たからこそようやく見られた古代ローマ関連の有名作品が多く展示されていた。
フレスコ画である。
コンセルヴァトーリ宮殿の中で唯一16世紀のころのままの形で保存されているのが、この「ハンニバルの間」と呼ばれる場所で、絵画自体はルネサンス期のものである。
これも名画で、コルトーナの「アレクサンドロス大王とダレイオス三世の戦い」である。この絵画は、世界の名だたる絵画をレプリカにして保存する鳴門の大塚国際美術館にも、陶板レプリカが展示されていたと記憶している。最近は、あそこに保存されているのだから世界的な名画なのだろう、とレプリカを収める大塚国際美術館に対して妙な信頼が生まれている。
3)古代の彫像
ヴァチカン美術館にあった、新古典主義時代の、ペルセウスに首を落とされたメドゥーサ像もそうだが、顔の造形ではなく表情の醜さを描くことがテーマになっている。
ローマ帝国には多くの暴君がいる。カリグラ、ネロ、ドミティアヌス、カラカラなどもそうだが、このコンモドゥスもその一人である。
「暴君」と評されるが、その多くの実態はどちらかというと「愚帝」あるいは「暗君」というたぐいである。それが暴力装置である軍のトップになるがゆえに、その行いが暴力性を帯びていき、すなわち暴君という評につながりやすくなるのであろう。
軍という暴力装置を背景としているがゆえに、かつ行政機構が文武で分離されず、軍人=行政官という構造であったがゆえに、皇帝権力が直接的な暴力として顕現しやすい構造が、古代ローマの権力構造の特徴であった。これが、首都ローマでの粛清や弾圧につながりやすい状況を作っていたと考えられる。
また、上掲の暴君らに共通するのは、血縁で帝位を継承した点である。
カリグラは二代皇帝ティベリウスの弟ゲルマニクスの子、ネロはさらにその甥、ドミティアヌスはネロ自害後の内乱を平定したウェスパシアヌスの次男であり、ティトスの弟である。カラカラはセウェルスの子である
ローマ帝国の帝位継承システムの不在というものが、後に15世紀まで続くビザンツ帝国の崩壊まで克服されえなかった帝国の宿痾とされる。禅譲、共同統治、暗殺や軍によるクーデター、内乱など多くある帝位継承の中の1パターンに過ぎないのが、この血縁者の後継指名である。こうして指名された者が、高い確率で暴君化するのも皮肉なものである。権力基盤を血族から引き継ぐため、一代皇帝より「わがままが通りやすい」状況にあることと、同時に帝王教育を受けておらず、広大な帝国と伏魔殿のようなローマの政界、権力闘争の激しい軍部を前に、彼らを御する素養が担保されていないことも原因かもしれない。
自ら剣闘士としてコロッセオで戦い、その際にはヘラクレスに扮した(コスプレでプロレスのリングに上がる国のトップとかイカれてる)コンモドゥスは、五賢帝最後の皇帝マルクス・アウレリウスの子である。
こちらがそのドラ息子の父親である。
その治世は北方のマルコマンニ族との戦争に釘づけにされ、さらに東方ではパルティアの崩壊とササン朝ペルシャの勃興があるなど、激動の時代、崩壊の序曲の時代を生きた皇帝であった。
アウグストゥスから始まる帝政の時代、中原には漢があり、インドには大月氏、中東にはパルティアと、交易路を管理する安定した大帝国が割拠した。
互いにしのぎを削りながらも、交易の維持と発展を志向していた。
しかし、2世紀後半以降この前提が崩れ始める。
地球全体が寒冷期に入ったとされ、作物の生産量が変わり、交易の維持に必要な帝国の支配システムがほころびを見せる。
中華はやがて三国時代、そこから五胡十六国の長い中世となり、7世紀末の隋による再統一を待たねばならない。
パルティアは崩壊し、騎馬民族であるペルシア人の帝国が勃興する。
ローマは長年パルティアを最大の仮想敵国としてきたが、この崩壊でとってかわったササン朝ペルシャは、もはや仮想敵などではなく、後にウァレリアヌス帝を捕虜にし、ユリアヌス帝を戦死させる不倶戴天の敵となる。
同じ理由で古の匈奴の末裔とされるフン族が西方に移動、侵攻した先の各原住民を圧迫し、玉突き状にゲルマニアのマルコマンニ族をローマ帝国領内に押し出した。
この後ローマは、北方からのゲルマン人、当方からのペルシャによる圧迫を受け続けた。元来相対的に生産力が低く、海などの自然障壁の少ないガリアなどの緩衝地帯しか持たなかった帝国西側のローマは、ゲルマン人の浸食と猛攻を受け、5世紀後半にその圧迫に耐え切れず崩壊する。
その崩壊の端緒にあって、アウレリウスはどこまでの起こり得る最悪の恐れを予想していただろうか。以上の崩壊の機序は、人智でどうにかできるものではなく、もはやシステマティック・クライシスであり、コンモドゥスが多少まともだったところで崩壊を遅らせられたわけでもないだろう。
ただ、顛末を知る後世の者としては、この二つの像を見るに何か暗澹たる気分になるものである。
これも有名な像であり、ローマ建国神話のエピソードである、初代王ロムルスと弟レムスは、孤児として狼に育てられた話を表している。
なお、古代の像は狼のみで、ロムルスとレムスの二人はルネサンス期に付加されたという。
2.ジャニコロの丘へ
カピトリーノの丘から一度ホテルに戻って、近くで昼食をとる。
これがローマで最後の外食である。
ホテルのすぐ近所にあったレストランに入ったが、美味しかった。
店によって味の濃いところや薄めのところなどだいぶ幅があるが、多くは日本人でもそのまま口に合う食べやすさである。
食べ終わって、改めてローマ市中心部へ向かう。
最後のローマ市内を見晴らしたく、テヴェレ川を越えて、市内を一望できるジャニコロの丘に向かった。
写真で撮るより、目で眺めた方がいい。一望のもとに収めて、あちらに何がある、などと見ていくには、静止画は不都合である。
丘があり、それらが建物で埋め尽くされている。あのドゥオーモは何だったか、と一つずつGoogle Mapsと突き合わせてみるのもいい。
最後のご挨拶にはちょうどいい場所ではないかと思う。
3.最後に~世界遺産、博物館、公共性~
1)街全体が博物館
もともとピサにも行く予定だったものをキャンセルしてローマ市内に7日いたが、まったく見て回れていないところだらけである。
なにせ、サンピエトロ大聖堂に行けていないのが痛恨の極みである。
他にも、カラカラ浴場、トライアヌスのフォルム、ナヴォーナ広場、ジェズ教会、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア大聖堂、ドーリア・パンフィーリ美術館、コロンナ美術館、ヴェネツィア美術館など、古代からルネサンス、近世末に到るまでの芸術作品を含めて、見られていないところはいくらでもある。
これらだけでもう一週間は余裕でいられる。
ローマは、街全体が美術館としてよく保存されており、同時に現代都市としても機能している。これは、気候風土の違いもあろうが、日本では考えられない。京都のビジネス・商業街と遺跡の完全に分かたれた状況を見ればわかる。
2)公共性という観念の違い
京都では、町屋が毎年40-80軒ほど取り壊されている。
高い固定資産税を払わねばならない一方で、せいぜい2階建ての木造で人に貸すより、6階建てのマンションにして貸したほうがより多くの賃料が手に入るからである。
京都市は景観規制などはかけているものの、建物自体を取り壊し、現代の何のデザイン性もない集合住宅に変えること自体にはほぼ規制はない*1。
日本人は、あるいは極東アジア全般で共通するかもしれないが、こうした景観の公共性、そのための所有権の規制*2に無関心である*3。
一方で、街にごみを捨てない、落書きをしないなどの公共性は、極東アジアの方が高いように思われる。
おそらく公共性の発露する場の違い、社会において何を重視するかの違いでもあろう。それはもとをただせば、気候風土の違い*4などによるものかもしれない。
3)世界遺産、博物館という概念の根底にある公共性とは
世界遺産や博物館という概念も、こうした古くからのものを遺し、駆使して社会を形成していく、それを公の共通する価値として保持すべきと考える社会で生まれてきたものであることは、注意しておく必要がある。
世界遺産を守るとか、都市の歴史的景観を守るとか、という概念には一定の普遍性はあるものの、その根幹はやはり彼ら西欧の現実――現代に歴史的建造物が生きていて、その景観こそが公共的価値として保持されるべきという思想的基盤――に根差しているのであって、それはどこかで極東の都市景観、生活空間に生きる我々と齟齬が生じうるものなのである。
こうした即座には言語化できない齟齬が、実は近現代社会の価値の奥底のあちこちに埋まっており、その直感的な違和感や気持ち悪さが、あるいはオリエンタリズムであったり、あるいは反西洋主義的な言説となって表出するのであろう。
4)ローマと、日本の都市の都市景観の違いから
都市も文化それぞれの歴史的文脈(経路選択)の中で形成されるため、途中から木に竹を接ぐ真似はできないのは当然である。
ゆえに、ローマにあるもの(優れた美術と古い町並みが現役の都市機能を担っている)は日本では絶対に手に入らないものであり、逆(清潔で安全な都市空間)も然りとなる。
であるからこそ、やはり実際に行って確かめてみて初めて、世界遺産とは何か、なぜ彼らはそれに大きな価値を置くのか、が多少とも実感できるようになる。
彼らの現実生活の中に歴史的景観が分かちがたく一体化しており、それを守り、新しく加わる景観もそれに調和せねばならないという公共性の観念が、西欧、特にイタリア、なかんずくローマには内在する。
彼らは、これまでの来し方の歴史そのものを自分たちの守るべき価値として自認している*5。
価値を象徴する空間を、個人が行き交い議論をする場として維持することが、彼らの社会の守るべき価値である。自らの在る公共空間そのものの景観を守ることも、価値を保守する姿勢の一表象である。
世界遺産、博物館という観念は、すなわち彼ら自身の来し方という公共の価値を、そうした公共の場において再認識し、以って社会の成員として人々を統合し、社会の在り様を保守せんとする精神の発露として生まれたものである、と。
5)ここでふと、西欧と極東の公共性のニュアンスの違いに思い至る
世界遺産や博物館というものが、公に共有すべき価値の表現なのであれば、ある程度の普遍性はあろう。しかし殊西欧においてはさらに、その保守されるべき公共空間というものが、あるいは議論の場であったり、学びの場であったりと社会を前進させるドライバーである=社会の枢要な機能であるからこそ、それを守らんとするのである。
他方で、少なくとも日本における公共とは、あくまで状況的な「秩序」という観念が先行しているように見える。公園などの公共施設というものも、「みんなで使える場所」程度の意味合いであり、それが社会における議論や表現の場という積極性を持たない。
西欧の「誰もが自らを表現できる場」としての公共の場には、人が何かをする「自由」がある。行動をする者の、行動をする自由が先行するのである。
他方、日本をはじめとしたアジアの公共の場は、誰もが使うのだから他人に「迷惑をかけるな」という「公共の福祉」あるいは旧明治憲法の「法律の留保」のようなものが先行する。行動を受ける側の「衆人の迷惑」という受動的な観点が先行するのである。
西欧においては、自由、表現のための公共空間があり、それが社会の駆動装置である。
その空間は歴史的に醸成されてきたそれ自体価値のあるものであり、それゆえにそれを守ることが、自らの社会の価値を象徴するものとなり、市民の統合をも促す。ゆえに、都市景観という公共性や、遺産は守られねばならない、という結論に至る。
先ほど公共性の発露の違いといった。しかしどうやらここに至って、公共性という語の立脚点が根本的に違っているようにも思えてきた。
西欧において都市景観や遺産の保護に見られる公共性とは、「人に迷惑をかけずに生きましょう。そのためには個々人の権利は制限されてもしゃーないよね」というアジア的なものと根本的に違い、「我々の作ってきた社会の価値を象徴するものであり、それを守ることが社会を前進させる駆動力となる」という信念の発露なのではないか?
都市景観そのものが、自らの来し方と現在のありようの表現形であり、社会の成員自らの決定の結果であり、故に社会の成員の統合の象徴であり、故に守られねばならない、ということではないか。
6)自由放埒の対義としての他律性に依存する公共性(日本)と、自律的な自由(西欧)と
福沢諭吉はlibertyを日本語に訳すとき「自由」と訳すことを批判したという。自由とは中世には「自由放埒」という語で使われたものであり、「好き勝手」の ニュアンスが強かった。
他方、ジョン・ロックの自由は「抑圧への抵抗」であり、ルソー的な自由は「自己決定と自律」であった。自らの意思に基づき決定し、その結果に責任を持つということである。
他方、日本における自由とは、その所有権の観念に象徴されるように、好き勝手できる権利*6であり、それには手をつけられない、という観念が前提する。こうした自由放埒的な権利観があるが故に、その反作用、アンチテーゼ、リアクションとしての公共の福祉という、他律的な抑制概念が出てきやすいのではないか。すなわち、日本人の持つ自由と権利の観念が、西欧のlibertyのようになそれ自体に内在するブレーキを持たないがゆえに、外在的な抑制原理としての他人の目を求めざるを得ないのであろう。そのようにして、「好き勝手」vs「衆人の目」というどうにも居心地の悪い相互抑止関係になっているのではないか。
日本の都市景観の基礎には、「自由放埒」に基礎付けられた所有権という「権利」がある。それは自らの所有する空間のうちであれば基本的に好き勝手してよいものという観念となる。都市景観に公共性を見出さず、特に他人からしても不細工な建物を建てて景観が悪いことを迷惑と思っていない(周りの人間もそれぞれ好き勝手な建物を建てているから)故に、互いに迷惑としてそれを抑止する原理も作動しない*7。さらに、「衆人の迷惑」による相互抑止が作用しない「自由放埒」の総体である都市景観には、「社会の総体による自己決定の結果としての都市景観」という「自己決定と自律」の関係性が存在しないため、都市景観そのものを公共の資産とする考えも生じない。
故に、日本の都市景観は、西欧の歴史的都市とは根本的に異なるものとならざるを得ない。
しかしそのさらに大元には、先述したような、気候風土の差も関係していよう。すなわち、もともと建築物が木造で、高温多湿のため物持ちが悪い風土ゆえに、歴史が景観として残りにくく、それを自らの来し方の象徴として認識しにくい風土があった、ということである。
同時に、不断の衛生環境の維持が、こうした風土のもとでは極めて重要だったとも言える。
そんなことをこねくり回して考えるきっかけになった、ローマ滞在であった。
また行きたい。
トレヴィの泉でコイントスしてないけど、まぁまた意地でも行くわ。
*1:景観条例上の規制など、安普請なデザインを防ぐ実質的な規制にはなりえていないのは、街を歩けばすぐにわかる
*2:建物のデザインの規制や、デザインをよりよくしたり統一することに補助金などのプラスのインセンティブを与えること
*3:ギリシャのサントリーニ島は壁を白く塗る補助金を出しているという。
*4:石造りの建物、冷涼乾燥で物が腐りにくい欧州に対して、石造の他に木造を多用し、高温多湿で腐敗しやすい極東
*5:守るべき明確な価値が存在し、それを保守しながら漸進的に世界の変容に対応する、これはエドマンド・バークが英国の政治史において掲げた保守主義とも似た姿勢である。
*6:福沢はこの語についても「権理通義」と訳すべきとしている。「利」でなく「理」こそが大事だ、と言っているのである。
*7:デザイン性の皆無なを建てることは、迷惑にはならない。他方で、葬儀場やラブホテルなどは周辺住民が忌避施設として建設反対運動を起こす。これは、周辺住民が自分でやっていない事業であり、一方的に排斥できる「迷惑」な対象だからである。