ローマ4日目。
今日も今日とて、街中を散歩して博物館をハシゴする。
しかし、マッシモ宮殿から派生する話題の記事が長くなるため、本記事はマッシモ宮殿に関するもののみとなる。
続きは別記事で。
1.マッシモ宮殿(ローマ市美術館マッシモ宮殿館)
テルミニ駅の北西、地下鉄Repubblica駅を取り巻くように、マッシモ宮殿とディオクレティアヌス浴場の二つのローマ市立の美術館がある。
https://maps.app.goo.gl/yWae3HygdaUYinVx9
マッシモ宮殿の方は、古代ローマ帝国の時代の彫刻などを中心とした展示で、建物の3階までびっしり彫刻が展示されている。
アウグストゥスの彫像の中で、ヴァチカン美術館にある甲冑を身に着けた姿のものが最も有名だが、次に有名と思われるのがこれである。
最高神祇官(Pontifex Maximus)という、ローマの神官の最高位の職にある者として、祭礼に出る際の出で立ちを彫像にしたものである。
ここで、ローマ皇帝という地位について解説する。
1)ローマ皇帝とは
古代ローマには「皇帝」という法律上定められた正式な地位があったわけではない。
「法律の文明」である、このローマにおいてである。
ここが、私がアウグストゥスを政治的天才と考える理由でもある。
どういうことか。
カエサルは、ガリア戦役とポンペイウスとの内乱を平定した後、「終身独裁官」という新たな法的地位を創設し、自ら就任した。共和制護持を掲げる元老院議員や市民の多くの反発を招き、これが暗殺の一因(おそらく主因)ともなった。
これを見ていたオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)は、こうした「目に見える」独裁者を、ローマは容易には受け入れないと思い知った。
オクタウィアヌスが最終的に手に入れた「ローマ皇帝」という地位は、実は「たまたま一人の者が複数の役職を兼ねただけ」の状態であった。
オクタウィアヌスは、行政の最高責任者である「執政官(Consul)」、元老院議会のトップ(米国の上院院内総務や、各国の議会議長の中間のような立場)である「筆頭元老院議員(Princepus)」、全軍絶対指揮権を持つ「終身全軍総司令官(Imperator Perpetua)」、そして、ローマ多神教のトップであり権威ある名誉職であった「最高神祇官(Pntifex Maximus)」を、「あらやだぐーぜん(棒読み)」兼ねちゃったのである。
行政のトップ、立法諮問機関(事実上の立法機関)の首席、軍最高司令官、宗教界最高権威で、カエサルの遺言を継ぐ者(ユリウス・カエサルの相続人)という、権力と権威と相続権の束こそが、実はローマ皇帝の地位の本質である。
資格マニアの人が色んな国家資格とっていって、何でも屋みたいになるのと同じで(違)、一つずつのポジションをコレクションしていったら、いつの間にか独裁的な元首が誕生していたね、という鮮やかな流れである。
オクタウィアヌスは、共和制ローマの体制を転換したのではなく、体制の枠組みの中で後に「皇帝」と呼ばれる空前の地位を生み出したのである。カエサルの失敗を見ていたからこその、実に慎重で周到な、あるいは詐術的なやり方であり、私が彼を政治的天才を考える理由である。
2)その後の皇帝の地位
以後、全ての皇帝は「諸々の権限と権威の束を、カエサルとアウグストゥスの遺志によって引き継いだ者」としてその地位の正統性を認められていくことになる。
よって、歴代皇帝はみな、同時代人から「カエサル」や「アウグストゥス」(一応彼らの衣鉢を継ぐ者なので)、「インペラトール」などと呼ばれることになる。
カエサルは後にロシア語で皇帝を指す「ツァーリ」の語源となり、インペラトールは「エンペラー」の語源となった。
よって、ローマ皇帝は、少なくとも東ローマ帝国の時代にオリエントの君主のように変貌する前は、「即位」というよりも「就任」と呼ぶにふさわしい地位であった。
3)アウグストゥスの政治的配慮と配慮をする豪胆さ
皇帝という地位の実質的な力の源泉は、暴力装置である軍の絶対的指揮権であった。
しかしここでも彼は、元老院とローマ市民に対して慎重な配慮を見せる。
軍を、イタリアには駐在させなかったのである。具体的には、イタリアと属州の協会に当たるルビコン川を境界として、立ち入りを禁じた。
ローマという、自らの身を脅かす政敵の巣窟にいて、自らは暴力に頼らぬと言い切ったのである。ただの政治的配慮の一言で片づけることが出来ようか。冷徹でありながらも胆力のあった彼の人となりが想像される。
なおこの政策は、後にネロ帝自害後の内乱を収束させコロッセオ建造を開始したウェスパシアヌスによって変更され、近衛軍団(Praetoriani)がローマ市内に置かれることになる。
ちなみに、宿泊していたホテルのあるテルミニ駅北の地区、ポルタ・ピアの近くにはCastro Pretorioという地下鉄駅がある。
https://maps.app.goo.gl/8xJWjKeg65WZhyQLA
近衛軍団陣地を意味し、ここに近衛軍団の駐屯地があったことがわかる。
現在は、イタリア国立図書館とサピエンツァ大学のキャンパスが隣接している。
4)「最高神祇官」という皇帝権力の「一部品」
皇帝というものが、複数の権力の束、いくつものモジュールを接続してできた一つの彫刻のようなものであれば、最高神祇官はその一部品=モジュールである。
驚くことに、この地位だけはどうやら現在も残っているようである。
ヴァチカンや諸々の石碑、教会の碑文を見ていると、Pontifex Maximusという語が、教皇の公式の地位として記載されている。
書籍には当たっていないためwikipedia情報だが、ローマ帝国のキリスト教公認後、西ローマ帝国ではこの地位が皇帝からローマ大司教に移譲され、教皇という地位を形成していったらしい。現在も、教会法(カノニスティーク)というカトリックの法律上は、公用語のラテン語で、教皇はPontifex Maximusと呼称される。
そして、このPntifex Maximusが、フランク王国の時代にもはや滅びた「ローマ元老院」の代行者*1として、フランクの王カール1世をローマの皇帝として認め、戴冠させたようである。
その後、神聖ローマ皇帝は、その候補者を選挙で選び(選帝侯選挙)、選定された人間を、教皇が戴冠させることとなたった。神聖ローマ皇帝は、事実は伴わない屁理屈上のものではあるが、一応ローマ皇帝だったのである。これは、ヨーロッパ全体に号令をかける軍事・政治の支配権の正統性の根拠として、非常に重要なものであった。これが西暦800年前後である。
後で行ったディオクレティアヌス浴場の遺構から覗く十字架が見えた。帝政ローマ後期の皇帝ディオクレティアヌスは、キリスト教徒を弾圧したことでも知られる。結局最後まで残ったのは、最高神祇官=神の代理人たる教皇で、皇帝は滅びた。
上述のように、西ローマ帝国が滅びた後も、最高神祇官の地位だけが生き残り、ローマ教皇という、世俗権力に正統性の根拠を与える地位となった。ある意味、キリストの勝利か。
しかし現在は、教会も浴場も観光地化していて、十字架の上にはカモメが乗っている。
現時点では、物質文明の勝利である。
5)日本の王家(天皇・朝廷)と武家との関係
以上と似たような話は、日本でも聞いたことがある。
「征夷大将軍」である。
平清盛も源頼朝も、武力においては在京貴族を圧倒していた。しかし支配とは、それだけではできないものである
彼らが抑え込まねばならないのは、無力な在京貴族ではなく、むしろ自らに従う、暴力的センスの権化=武士団だった。彼らを従わせるためにこそ、自らの血統(桓武平氏・清和源氏・秀郷流藤原氏など)の他に、朝廷から「支配権を認めらえたという証拠」=「おまえらに命令する法的根拠」が必要であった。
それが、清盛における太政大臣職であり、同じ官位がかなわなかった頼朝にとっての征夷大将軍職だったといえる。
征夷大将軍は、朝廷の指令の下、朝敵であるまつろわぬ民を討伐する総大将の地位であり、その軍事指揮権に兵は従わねばならなかった。ローマ軍のインペラトールみたいなもんである。
豊臣秀吉の時代になっても同じである。
小牧長久手の戦いを経て、全国に号令する地位を強く欲した秀吉は、その血統から正統性が認められず、征夷大将軍、太政大臣いずれも就任を拒まれた。結局一条家藤原氏の猶子となり、関白に就任する。
関白は、「冠位十二階」に定められる、古来の律令上の正式の地位ではない。正式に天皇を輔弼する官職は「摂政」である。関白はアドホックな、あるいは事実上の地位で、その本質は「天皇に上奏する内容を事前に申し受け、天皇に申し送る=内覧」という業務である。「関白」とは「関り白す(=預かり申す、あずかりもうす)」を指す中国語である。
秀吉ごときに正式の官職を与えるわけにはいかぬ、という貴族側の意地もあったものと推測するが、その関白の地位に基づき、彼は全国に号令を出している。
すなわち、「関白として朝廷の意思決定の代行者であり日本全土に対する政治軍事指揮権を有する羽柴秀吉は、以下のように命じる・・・」という書状である。
いかに彼が自らの支配権の正統性の根拠を欲していたか、重視していたかがわかる。
6)政治の技芸
アウグストゥスが見せたような政治的技芸は、システムを壊すのではなく、システムの範囲内の事柄をロジカルに積み重ねて、システムが想定しない、飛躍した結論に至るというものであった。
暴力を持っているからと、振り回せば皆が従うわけではない。従わせるには納得させる理屈が必要である。理屈で従わせる方が、暴力で押しつぶすよりはるかに安上がりである、ともいえる。
他方でアウグストゥスは、権力行使の費用対効果を厳密に見極め、さらに政敵が多い首都に軍を置かないという「豪胆な譲歩策」(という言葉自体逆説的だが)をも用いた。
彼の作り上げた複雑怪奇にして精緻な権力のモニュメント=ローマ皇帝の地位は、後に西方で400年、東方で1500年続くローマ帝国の基礎を作った。
交渉能力と俯瞰的視野、豪胆さ、冷徹さ、論理性、それと同居する非線型的な(飛躍的な)発想力。これらの相矛盾する数々を調整し同居させるの能力が、真の「政治の技芸」なのだろうと思われる。アウグストゥスは、その分野で、少なくとも西洋において1000年に一度の逸材だったのではないか。
中世から戦国期の日本においても、こうした技芸を持ちうる人間は(アウグストゥスほどではなくとも)いたのだろうが、果たして近代以降はいないのではないか。