- 1.中世日本の生産体制と家族構造(「人口から読む日本の歴史」より)
- 2.日本社会の構造の変容~社会システムとしての戦争の時代へ~(「雑兵たちの戦場」より)
- 3.都市の完成~システムとしての戦争の終焉~
- 4.補遺~村落と武士・農業生産体制の捉え方、寺社勢力の凋落を背景に~
1.中世日本の生産体制と家族構造(「人口から読む日本の歴史」より)
久しぶりのブックレビュー
最近本を読む気力が続かなかったため遅読であったが、ようやく一冊読み終えた。
縄文期以降の各時代の人口推計をして、日本の環境・社会経済について分析したもの。
平安末期から織豊政権期までは、人口を推計するに足る資料がないそうで、霧に閉ざされている。
しかし、江戸初期以降の宗門人別改帳等から、それ以前のこともある程度は推測ができる。
そこから見えてくるのは、中世の生産体制の変化である。
遅くとも織豊政権期より前まで(おそらく応仁・文明の乱前後か)くらいには、村落におけるイネの生産体制が大きく変わったのではないかという。
中世の大半を通して、イネなどの農作物は、領主層が消費するためにその支配する村落で作られていた。ここでは、支配層と被支配民である村落民を賄えれば十分であり、農産物の生産拡大のインセンティブが生まれにくかったという。
この時代、村落の農産物生産体制は、長子が相続したイエと、それに付随する傍系親族(次男以下の弟、おじ等)によって担われた。傍系親族は有配偶率が低く、子孫を残すことが少なかったという。こうした傍系親族は、隷属農民として名主(直系親族)の支配下に置かれ、農業生産に使役された。
それが、時代が降るにつれて、生産物の余剰を取引する市場が生まれた。村落ではより多くの農作物を効率的に生産することへのインセンティブが生まれる。
ここで、家族構成に変動が生じる。効率的な生産体制を確立すべく、逆説的ではあるが、長子の一家だけによる少人数での生産に移行していく。隷属農民に頼らず、信頼できる小規模の親族のみで農業を行う体制である。従前に比べると一戸ずつの規模は小さくなるが、各戸の生産力は上がったようである。
こうした中で、余剰人員となったのが、それまでの隷属民あるいは傍系親族たちである。
2.日本社会の構造の変容~社会システムとしての戦争の時代へ~(「雑兵たちの戦場」より)
本書で描かれる中世の農民の家族構造の変化は、ここまでである。しかしこの話には、当然続きがある。それを描いている、あるいは本書の分析とリンクしうると思われるのが、以下の書物だ。
かつての隷属民、あるいは傍系親族は、食い扶持を失う。ではどうするか。村を出るのである。村を出てどのように生きていくか。二つの道がある。
一つは、都市への流入である。
二つ目が、戦場で稼ぐ、である。
上記の家族構成の変化は、室町期を通じて徐々に起こっていたと考えられる。そうした基層の潜在的変化が表出したのが、応仁・文明の乱であるとみられる。そう、足軽の登場だ。
足軽という、従前の領主支配地での兵力の募集によらない、いわば歩く傭兵(騎士階級の傭兵ではない)が登場したのには、以上のような背景があると考えられている。
つまりこうだ。
農業生産力の漸進的な向上→余剰生産物の販売市場の形成(≒都市化)→生産力強化のための村落家族構成の変化による余剰人員の発生→余剰人員の都市への流入→都市の大規模化→さらなる人員の流入と市場化→都市に流入した求職者の傭兵化=足軽
こういったスパイラルが生じたと推測できる。
応仁の乱の起こった室町後期は、当時日本最大の都市であった京都において、土倉・酒屋といった金融業者が存在感を増した時代でもあった。同じ都市であっても、それが金融市場化していったことがわかる。新たな都市ができるとともに、既存の都市がより高度な市場化していったといえる。
こうして都市化の進行の中で、流入してきた人員になお余剰を生じる(都市に行ったからといって仕事があるわけではない)わけで、足軽という傭兵はこうした市場の成長・生産体制の変化の中で、溢れた食い扶持の吸収先となっていったと言える。
もう一つ注意すべき点がある。
「雑兵たちの戦場」で指摘されている、当時の農業技術の水準である。
中世後期、織豊政権期の取っ掛かりに至るまで、五月から八月は農閑期、あるいは端境期であった。この時期に、人は最も多く死ぬのである。この点は、「人口から読む日本の歴史」においても同様に指摘される。
注目すべきは、例えばあの幾度も闘われた「川中島の戦い」は、ほぼこの農閑期に行われていた、という事実である。
応仁の乱以降の戦争は、一面において「口減らし」であり、幾分かポジティブに見ても「余剰人員の食い扶持確保のための略奪」または「略奪という名の公共事業」とでもいうべき側面があった。
市場化→足軽の登場→足軽としての雇用による領民の餓死を防ぐ公共事業としての戦争
という、かなり救いようのない公共政策が打たれていくのである。
信長の戦争にしても、当時の基本は夏季に戦争を行い、農繁期は戦闘行為を行わない、あるいは戦争が消極化するという傾向がある。
しかし時代を追うごとに、端境期が徐々に解消されていく。二毛作の登場である。
麦秋と呼ばれる五月に麦を実らせ、秋にコメを刈ることができるに至り、徐々に余剰人員の食糧確保の圧力は弱まっていく。これが、おおよそ織豊政権期の頃のことである。
秀吉の戦争も、多くはこうした余剰人員の吸収策としての意味合いも持っていたと思われる。もちろんその前提として、戦争が必要な事情もあったのだろう。
重要な点は、「戦争の理由=日本のヘゲモニー争い」と、「その戦争を可能とする人頭=余剰人員」、さらに「その余剰人員を吸収する社会経済上の必要性」という、三つのピースがこの時代にガッチリ噛み合ったということである。
秀吉による天下統一後、朝鮮出兵などを行なったのも、こうして噛み合ってしまった「社会システムとしての戦争」の膨張を止め得なかったという側面はあるかもしれない。磯田道史氏は、秀吉など当時の政権担当者が、朝鮮半島の大きさを九州程度と誤認していた可能性が大きいと指摘している。
上記の日本国内の膨張主義的エネルギー、手段が自己目的化し暴走するシステムの矛先が、大陸に容易に向けられてしまったのにはこうした背景もあったのかもしれない。
3.都市の完成~システムとしての戦争の終焉~
さて、徳川政権期にはいり、三代将軍家光の治世で天草・島原の乱が鎮圧されて、ようやく戦乱の世は終わる。システムとしての戦争を終結させたのは徳川政権であるが、終わらせるヒントは、実は秀吉、遡れば信長、いやさらには関東の後北条氏などが与えていた。
それは、「都市の建設」である。
余剰人員が流入し形成された市場、それを取り巻く都市を、公共政策として建設する作業が、戦争以外で余剰人員を吸収する手段となっていった。
その象徴的なものが、「築城ラッシュ」である。
秀吉は、大阪城築城後も、二条城、聚楽第、伏見城、淀城と、取り憑かれたように禁城周辺に宮城を築く。さらに、小田原攻めの一夜城、朝鮮侵攻の際の名護屋城などもある。
各地の大名によっても、江戸初期に一国一城令によってクールダウンが図られるまで、驚異的な数の城と都市が建設される。
こうした公共事業が、戦争に変わって余剰人員を吸収した。それにより建設された都市が、職人・商人や労働者として、恒久的に余剰人員を吸収し続けうる態勢を作った。
システムとしての戦争は、都市の完成という形で、その暴走を徐々に止めていった。
4.補遺~村落と武士・農業生産体制の捉え方、寺社勢力の凋落を背景に~
さて、「雑兵たちの戦場」の著者、藤木久志氏のもう一つの著書を見てみよう。
中世から江戸期の村落生産態勢をどのように理解すべきか、である。よく中学の歴史などでは、農民は農作物の7割などを課役され、重税に苦しんだ、とされる。これは、農民が自らの職業として農耕を行い、そこで得た成果の7割を武士に持っていかれる、という解釈である。
そうだろうか?
私には、どうも根本的に考えを誤っているように思えてならない。
まず初めに断っておくが、領主層の厳しい収奪に苦しむ農村があったことは事実であり、それを否定するつもりはない。
根本的に違うというのは、こういうことである。
村落が自らの意思で自らのために農作物を作り、それを支配者が収奪しているのではない。
支配層と村落双方のエネルギー源として、農作物が生産されていた。武士は武力を以って村落を防衛する代わりに、農産物の貢納を受けていた。
村落と武士を一体として見ると、彼らによる農作物の生産という共同のプロジェクト見ることができる。そこで上がった成果を、村落と支配層でどのように分配するか、という問題である。
その論拠になるのが、「中世民衆の世界」の指摘である。すなわち、村落民は、支配層から課せられた生産ノルマを達成した後であれば、村落から離脱することができるが、ノルマ達成前にはそれができない、ということである。
これは、支配層側から生産ノルマが提示され、それを達することのみが条件づけられ、あとの部分は村落の自治に委ねられていたことを示す。
武士は、村落の治安維持とその対価として、村落に農産物の生産ノルマの提示、貢納の請求をした。
村落は、支配層の武力による防衛を享受するとともに、その対価として農産物生産ノルマが定められこれを達することが求められた。しかし、村内秩序や余剰生産の取り扱いについては、村落の自治権に委ねられていた。
さらに先述の市場化が興る。余剰を市場で売ることができるようになった。ここで、武士も自らの支配地域の市場の振興を行うようになる(信長の楽市楽座、後北条氏の小田原の都市の形成、甲斐武田氏の国内経済の振興策等)。
武士は、従来の治安維持のみならず、流通経済の差配にも乗り出していったと言える。
これは、早くは平清盛が描いた武士像であったかもしれないが、それから400年ほどを経て、ようやく武士階級が通商を掌握するに至ったのである。
余談だが、それまで通商を掌握していたのは寺社勢力、いわゆるアジール勢力であった。ここで、通商に新規参入した武士と寺社勢力でコリジョンが発生し、寺社はその支配力を徐々に失っていったと見ることができる。明確な形で全面衝突し、敗北した例が信長に対する比叡山である。最後まで自らの勢力を拡大し、武士と渡り合って行ったのが、一向宗である。
豊臣政権の五奉行の一人、前田玄以が、寺社勢力対策のエキスパートとしてその役についていたことは、彼ら寺社勢力の武家支配の完成期においてもいまだに保持していた存在感の大きさを示唆する。
話を戻そう。江戸時代になり、各藩は稲作を中心とした、領内の農産物生産を管理し、それの流通を支配する組織となる。その上部組織に割り当てられた作物を生産するのが、村落の義務と言える。しかし、村落民あるいは領民は、当然のことながらこの農業生産のみを生業としていたわけではないのである。
我々が当時を見るに誤解するのは、現代的な先入観で「労働」というものを考えがちであることに起因する。
当時は、「専従」や「副業」という概念はない。
村落として藩から課されたノルマだから米は作る。しかし、それ以外の生業を持ってはいけないなどというわけではない。「百姓」とは「あまねく人々」の意であり、「農民」を意味するものではないことを喝破したのは、網野善彦であった。
彼の能登「時国家」に関する研究などからも明らかなように、当時藩から「村落」として農業生産ノルマを課せられた「農民」であっても、実は日本海交易の廻船業を営む豪商でもあった、などということは、当然あり得たのである。
農業生産は、支配層(流通)と村落(生産)の共同事業体として行われたものであり、当時の社会のごく一面でかない。
それ以外の時間と労力を、各社会の構成員達は十全に駆使して、今は容易に見ることのできない、多彩な社会を形成していた。
だいぶ書評からは道が逸れたが、複数の書籍の論点を総合すると、こうした実像が見えてくる。
改めて思うに、歴史はモザイク画であり、一枚ずつのバラバラのピースだけを見ていてもわからず、つなぎ合わせるほどに、さらにそのピースが細かいほどに、より精緻な全体像が見えてくるものである。