ローマに丸1週間滞在したうちの第一日目。
1.ホテル周辺
ホテルはテルミニ駅北西の官庁と在外公館が集中する地域に合った。日本でいえば、赤坂、溜池山王あたりといえようか。
しかし、赤坂界隈の権威主義的なムカっとくる雰囲気(笑)はない。なんとなく庶民的でもある。
ローマの朝は、遅い。
理由は子午線の位置である。
ヨーロッパ大陸標準時子午線は、イタリアの領土の大半より東側を通る。
だいたいポーランドとドイツの国境線を辿り、チェコ・オーストリアの真ん中を通り、イタリア東端のトリエステを経て、南イタリアのナポリの東からまっすぐ降りてシチリアとの海峡の街ブリンディシを通る。
経度線はローマの東にある。
6時前後に朝の街を歩くと、ようやく日が昇り始めるくらいの時間帯である。
日本の標準時子午線より30分以上早い東にある北海道に住んでいると、これだけでも大きく感覚が狂う。
散歩してたら、普通にローマ帝国の遺産にぶち当たった。
アウレリアヌスの城壁である。
セウェルス朝断絶後の混乱した軍人皇帝時代、3世紀後半の皇帝である。
当時ドナウ川北岸でゴート族の動きが活発化し、その侵入を許しイタリア半島ポー川流域まで一時侵入を許した。
このことから、従前共和制初期のセルウィウス城壁以来700年ほども存在しなかったローマ市域を囲む城壁を建造したことで名の残る皇帝である。
彼は、中東パレスティナや現ヨルダン等を含むパルミュラにて、当該地域を領土とする帝国を僭称して独立を主張していたゼノビアを撃破、ゴート族の侵入に対しても反撃を加えている。さらに先代のデキウス帝以前より問題となっていた、これまた皇帝僭称者が率いるガリア帝国の吸収併合にも成功し、不安定ではあるがローマ帝国の領土的統一の回復を達したともいえる。
彼が帝国の混乱期に築いた城壁は、その後動乱と衰退の中世を経て近世に到るまで、都市国家ローマの城壁として機能してきた。
城壁の内側には、城壁の構築物の一部であろう建物に彫像が据えられている。
調べていないのでどういったいわれのものかは不明である。
しかし、これは後世のものではなく、おそらく築城当時、つまりローマ時代のものであろうと推測される。彫刻の下の碑文が、ギリシャ語とラテン語が併記されているからである。
ラテン語のみであれば、中世の後期ラテン語であることも考えられる。しかしギリシャ語併記がされるとなると、ローマ時代か、遅くとも中世初期5-6世紀のビザンツ帝国支配期のころまでではないか。
1700年ほど前の、古代と呼ばれた時代区分のものが、そこら中にごろごろ転がっている街であることを、初日の朝に図らずも思い知った。
2.トルローニア公園
時差ぼけ対策に朝8時過ぎに散歩してみた。
近くにトルローニア公園という旧邸宅の講演があるため、歩いて行った。
アウレリアヌス城壁に設けられたミケランジェロ設計の門、「ポルタ・ピア」を抜けて城壁街に出る。この周辺は高級住宅街である。
写真のポプラ並木の通りをまっすぐ歩いた先に公園がある。
通りの名はノメンターナ通りである。
後で調べてわかったが、古代からのローマ街道らしい。
ポルタ・ピアの周辺には旧国鉄のトレニタリア本社、国土交通省(イタリアでも同じ区分の役所らしい)、英国大使館等がある。城壁外、門の前にあるのが、ベルサリエリの像である。
イタリア統一事業リソルジメントをなしたサルデーニャ王国に起源を持つイタリア陸軍の精鋭部隊らしい。
快晴であった。
日曜日の公園では、野外ピラティス教室やら、犬の散歩やらの人が多くいた。
ローマは圧倒的にイヌ派が多いようで、猫はほぼ見なかった。