手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

明日香~熊野 前編 明日香という内陸から見る通商と政治

1.ゴールデンウィークに動かざるをえないことへのボヤキ

今回は奈良・明日香を経由して熊野に向かう強行日程である。

実家から奈良に向かうにもルートがいくつかあるが、高速道路・幹線道路である限り必ず詰まる。

しかも今回は、慣れない初ルートを選択したからう回路もわからない。

第二京阪道で門真まで行き、近畿道に乗り換えたが渋滞。

下道に下りて、旧大和川が南から北に流れるのを渡って、富田林の太子から高架道路に乗り、奈良県内へ。

通常ならば1時間半弱で行く道のりが2時間半ほどかかった。

ゴールデンウィークの真ん中に動くというのは予測がつきにくい。

しかし、ゴールデンウィークくらいしかまとまった休みがとりにくい(ほかのタイミングで休もうとしても、仕事の顧客の動きは止まらないわけで、調整が難しい)。

日本は休暇の貧しい国である。

 

2.明日香へ

yamatoji.nara-kankou.or.jp

 

火野正平が自転車で手紙に読まれた場所をめぐる旅番組で出ていたのを目にして、行ってみたいと思ったのがここ。

本当は、他にも高取城など行きたかったが、それは次回。

甘樫丘その1

公園内にはマムシらしき蛇がのたうって歩いて(?)いた。

以前もここら辺に来たときに、畑の中で何かを加えて逃げるイタチを見た。

どうも野生動物が多い地域らしい。

畝傍山

 

3.ヤマト王権と通商・政治機能の分離

手前が畝傍山とのこと。

古墳が雑木林になった公園などが非常に多い。

ヤマト王権は、もともと大阪湾に面した海運を扱う豪族だったというう説がある。

高句麗新羅百済の三国があった朝鮮半島情勢の不安定化などが起因となって、海辺の摂津・和泉から、大和川を遡上した内陸の奈良盆地に引っ込んだともいう(諸説あり)。

 

www.kkr.mlit.go.jp

大和川が江戸時代などの工事を経て現在の形になる前は、大阪平野に入ってから南から北に大きく蛇行、摂津大坂(大阪城周辺)に至って海に出たという。

下流の流路は、難波宮跡の近くだ。最初はヤマト王権は海近くにあった。しかし大和川に沿ってより内陸に移動した。

政庁機能=都市を臨海部から内陸に移し、海運でもたらされた交易品を、最後は河川水運や陸運で都市中心にもたらす。

海運=通商と、消費&政治を分離する都市機能の配分は、すでに古代ヤマト王権期に形成されていたといえ、京都はその延長上で、後者の機能が遷都を繰り返した末に定着した場所といえる。

首都を福原に移そうとした清盛は、その強引な政策と後白河を中心とする院の勢力、さらに荘園管理者層の支持を調達しきれずに挫折した。それまでの「政商分離」というべき長年の間に定着した構造の大転換を迫るような、海運から政治までを一拠点で掌握する体制には、抵抗が大きかったことだろう。

東京はといえば、港湾都市であり政治都市でもある。日本の富と人口が吸引され続けるという、持続可能性のない状態がある。いよいよ人口減少下でその破綻の入り口が見えてきたか、そろそろ入ったか、という状況である。

 

4.港湾と政治の都市機能

世界的に見ても、通商・港湾機能を備えた「首都」(=領土国家の政庁都市機能)というものはあまりない。

ローマは、古代から外港としてオスティア港をもち、そこへは「塩の道」サラーリア街道がアクセスしていた。

都市国家であったがアテナイにも、外港ピレウスがある。今でも貿易港として健在である。尤も、ピレウス港の経営権を中国企業に渡してしまったがために、今外交問題になっているようだが。

ロンドン(ローマ帝国の軍事都市ロンディニウムが起源)もテムズ川を介して海とつながっており、ロンドン市内まで小型の航空母艦ならば入ってくることができる。

古代都市でいえば、ネアポリスナポリパレルモカルタゴなどは、(いずれもローマによってであるが)征服を受け、独自の政治都市機能は失った。

中世に目を転じると、イタリア四大港湾都市アマルフィ・ピサ・ジェノヴァヴェネツィアは、いずれも独立した政治機能を持つ通商都市として成立したが、領土国家として精強を誇ったのはヴェネツィア共和国くらいといっていい。アマルフィルネサンス謳歌することなく早々に没落し、ピサはフィレンツェの外港に収まった。ジェノヴァ都市国家としては存続するが、クレタバルカン半島アドリア海沿岸諸都市を抑えたヴェネツィアほどの勢力圏を維持することはなかった。

欧州を見ると、外港と都市中核が分離しているものは、多くは古代からの都市であり、港湾都市として独自の発展を遂げた都市は、中世以降の都市国家である場合が多い。

難波津を外港とした大和の朝廷や平安京は、日本における古代体制の領土国家の首都であった。頼朝により滅亡させられた奥州藤原氏の首都平泉は、古代大和朝廷のありようと似ていて、内陸の北上川沿岸に都市を築いたものだ。中世末・近世になって都市化された港湾(といっても港湾都市としてどの程度の機能を持っていたのかは不明だが)江戸・東京などより、成立した時代が段違いに古い。

都市の成立時期が古いほど、交易を重要視しながらも、外港と都市中心を分けるという都市づくりが一般的だったのかもしれない。

 

5.中世期の交易

他方鎌倉はといえば、臨海都市である。

三代将軍実朝の時代に、日宋貿易を見据えた大型船を建造、進水式に失敗してあえなくとん挫した巨大プロジェクトの存在は、吾妻鑑にも記されているという。

歴史家は非常に遠慮がちな物言いをするようだが、根拠のない想像としては、頼朝は当初より海運を行うことも考えて鎌倉を起点にしようとしたのではないか。

平氏政権が福原で日宋貿易を行い、巨万の富を得てるのを横目で見ていたのである。

同時に、奥州藤原は、間違いなく自分たちが目の前にしている太平洋を航路として、渥美・知多、紀州、瀬戸内、さらには大陸の文物を入手していたのである。

さらに言えば、頼朝はもともと伊豆→鎌倉→房総→鎌倉と、一貫して関東の沿海部に居続けている。これは、三浦・北条・和田などの沿海部の豪族を側近としたからに他ならないが、それはすなわち沿海部に対して強い権益を持っていたということでもあると思われる。目前の海運の益を、指をくわえてみているはずがない。

中世初期において、政治機能を持つ港湾都市とすることを狙ったのが鎌倉と思われる。

実際に、鎌倉の由比ヶ浜には多くの船着き場が用意され、西国の文物が入ってきたという。中世都市国家、ではなく、中世の領土的支配力を有する権力機構の政庁機能が、同時に港湾都市としての機能を有していたという例といえる*1

 

6.まとめ

古代と中世で都市形成やその性質に違いがありうることはわかった。

古代都市は、特にローマ帝国を始めとした領土国家が成立すると、その首都は多くの場合外港と都市中心をそれぞれ有するか、あるいは純然たる内陸都市であった。例としては、ローマであり、セレウキア(セレウコス朝シリア)、ペラ(マケドニア王国)などである。例外としては、プトレマイオス朝エジプトのアレクサンドリアがあろうか。

領土国家として内国の生産力で食料を賄っていた国においては、都市だけでは成立せず、農業生産地を「面」として維持する必要がある。交易のみならず、面の支配に適した立地、攻撃されにくい立地を要したと考えられる。

他方、中世は権力が分散化した時期であり、領土国家という概念が崩壊した時期でもある。ヨーロッパにおいては都市が自立した権力となり、海港都市は貿易を収益の頼みとした。内陸の都市は、こうした複数の港湾都市と交易をするハブとなることで存続した。中世のローマやパリ、ウィーンなどがそうである。

日本においても、中世において京都や南都は、こうした港湾都市のハブという機能があったとみられる。日本海側の小浜、敦賀、瀬戸内の大阪・福原、さらに琵琶湖の大津、坂本などである。

鎌倉は、港湾都市としての機能と、防衛上の要害という要件を満たしたがゆえに、港湾都市・領土国家政庁機能の両義性のある都市であったとみられるが、津の規模、都市後背の面積の狭小さから、発展には限界があったようである。

 

飛鳥寺

平泉と同じく東西を山に囲まれた奈良盆地に都市が築かれた経緯を考えるにつけ、こうしたとりとめのないことが頭をよぎった。

 

*1:中世に北欧のヴァイキングが侵略して占領、シチリア王国の首都とした、シチリアパレルモなどに似ているかもしれない。この国際都市は後に、5か国語を操り中世にありながら神を意に介さなかった神聖ローマ帝国の大帝フェデリーコ2世(フリードリヒ2世)を生む。