先々週、弘前に出張した。
天気は雨が降ったり黄砂が飛んだりで最悪であったが、まぁ弘前城にだけは何を措いてもいかねばならぬので、出張の予定に割り込ませていってきた。
1.土塁と石垣
追手門の周囲を見ればわかるが、石垣ではなく土塁である。
本来関東以東・以北の城は、石垣は一般的でなく土塁による縄張り形成が普通であった。
西日本の土地が岩がちで土地がやせていて、東日本は関東平野など肥沃など車窓があったことも関係していると思われる。
また当然、岩がちな西日本で先に石垣築城技術が発達したため、東日本に伝播するのにタイムラグがあったことも考慮されうる。
いずれにしても、弘前城も東日本の城の例に漏れず土塁中心の城であるが、同時にステータスシンボルとして石垣を配置した城でもある。
二の丸までは土塁の城であったが、本丸はどうやら石垣に覆われている。
東北の城でも、特に関ヶ原後に築城された白石城、仙台城、盛岡城や、この弘前城では、本来防衛上は土塁でも何ら問題がなくとも、あえて石垣を配することでその威容を知らしめたようである。
技術力と財力を誇示する、一種のステータスシンボルといえる。
いまでいえば、田舎で広い土地があるのにわざわざ高層ビルの本社を立てる地場企業みたいなものである。
松江の山陰合同銀行ビルとか、
新潟の朱鷺メッセとかね
2.天守
もとは5層の大型天守であったらしい。
再築時は幕府に「御三階櫓」として申請し建築の許可を得たらしい。「天守」は新築不可の時代だったので、こうしたエクスキューズが使われた。類似例として讃岐の丸亀城などがある。ちなみに、御三家の城、和歌山城は、さすがに御三家だけあって、幕末に至っても火事で焼失した「天守」の再築が認められた。現代でも、木造で500㎡以上の床面積だと大規模建築物となり建築確認等が面倒になるからと、わざと床面積を498㎡にするといった手法がある。これと似ていなくもない。
3.城郭規模
仙台藩の藩領が、生産力評価の指標である石高(表石高)65万石、会津若松藩が25万石。対する弘前藩は青森県の西半分のみの藩領で石高わずか10万石である。江戸時代の石高は、現に稲作生産をしている土地のコメ生産量と、水田に転用可能な土地(畑や宅地の一部も含む)の推定コメ生産量を、それぞれ検地してして合算したものという。後者などはある程度恣意的に、筆を嘗められたのではないかと想像される。
いずれにしても、弘前藩はその生産量に比して、著しく大きな城を構えていたことになる。
1)都市と城郭
さらに、弘前は周囲を日本の川に囲まれ、町全体を架線・水路で囲んだ総構えを持つ都市である。
日本には、都市を城壁で囲むという発想があまりなかった。
大陸のように戦争が苛烈・酸鼻を極めなかったからだなどといわれるが、違うと考える。戦争の醜悪さは、どこの民族でも同じである。
違いは、都市そのものの性質にあったのではないか。
まず、日本は木造建築が多く、火事も多かった。
さらに中世後期に至っても、「〇日市」のような臨時の市が多く、恒常的な「町」の形成が大陸に比べてされていなかったのではないか。
多くが村落での定住者であったのが、応仁の乱前後から村落であぶれた者たちが市場(のちの都市)に出てきて傭兵(足軽)や工事人夫として溢れた。このころは荘園の生産が為替や手形などで取引される「証券化」されてきた時期で、生産力も向上してきていた。他方で、未だ5月から8月が端境期となり、人口支持のボトルネックとなっていた。つまり、技術の改良などにより徐々に穀物生産力の向上が見られ始めたが、人口がそれにああせて極端に増加したり飢饉で減少したりした。マルサスの人口論でいうところの食糧生産は幾何級数的に増加するが、人口は等比級数的に増加する、というアレだ。増加速度が違うため、バランスが悪いのである。
そうこうして、現場では食い扶持を失い路頭に迷う人間と飢饉で餓死する人間というおよそ地獄絵図となるわけだが、そうした事実を一切捨象してただの図にしてしまうと、上下にギザギザしながら徐々に全体の数が増えていく、身も蓋もない移動平均のグラフになるわけである。
2)都市城郭発展段階
話が逸れたが、要するに中世の日本において「城壁都市」が生まれなかったのは、戦争が穏やか(爆)だったからなどではなく、単純に恒常的・定住的な都市が未発達だったらと考える。戦争になれば、皆家を放って出ていくし、火事になればまた木を切ってきて建て直す。
それが、徐々に定住化し、戦争時には領主の城に逃げ込むようになる(周防大内氏の鴻巣城、安芸毛利氏の吉田郡山城、越前朝倉氏の一乗谷城などなど)。それが、「いちいち逃げ込むのダルくね?」となり、いっそ街を城で囲っちまおうということでできたのが相模、後北条氏の小田原城である。これを「総構え」という。
秀吉は執拗にここを攻めるに際して、この水堀に囲まれた城郭都市の攻略に著しく手を焼いた。
その経験から「京都の町をカベで囲っときゃぁええんだわ」となり「お土居」を造るに至る。
以後の築城トレンドは、「総石垣」&「総構え」である。
関ヶ原前後の外様大名は、大型天守と総構えを構築したが、大坂の陣後に江戸幕府が最大勢力となると、これらを構築することはともに禁止された。
1600年代半ばに至って改修・築城された城は、これらを持たないものが多い。
例えば讃岐高松城は、水戸徳川家傍流の松平氏の親藩にもかかわらず、総構えの構築を幕府に認められなかった。
3)弘前城の総構えと統治
よって、総構え、石垣、大天守という三つをそろえた、過剰な城が弘前に建った。
10万石の外様にもかかわらず、蝦夷に対する最前線(松前は両属的だが、それゆえに幕府も信用していなかったか?)ゆえに、巨大城郭の構築が認められたようである。
付言すると、生産力は10万石だが、弘前には外港の青森湊がある。以前別記事で書いた、長岡藩にとっての新潟港と同じようなものである。
青森以外にも深浦など、複数の西回り航路の交易港を有した。ここで通行税を収取することもできたことは、収入源として勘案すべきである。
なお、江戸時代には幕府に隠れて新田開発を行い、藩内の裏検地ではトータル30万石にもなる耕作面積を有したらしい(仙台藩も裏石高80万石くらいだったようだが、割合でいえば3倍に増やした弘前は異常といえる)。
しかし、どうやら農業というのはただ開墾をすればいいというものでもないらしく、広げ過ぎた田畑の面積に対して労働力が圧倒的に足りず、またコメにとって寒冷で不安定な気候のためもあって、何度も飢饉を起こしたようである。
田畑を広げたがゆえに飢饉が起こるというのも皮肉なものである。
4.その他
鶴ヶ城御薬園もそうだが、たいてい城の近隣に庭園があるものだ。
金沢城と兼六園は向かい合っていて有名だが、岡山後楽園、彦根の玄宮園、高松城の栗林公園、広島城の縮景園、姫路城の好古園など、貯水池としての機能も果たしたとされる。
で、弘前も同じか、と思ったらどうやらこの城に隣接する庭園は明治期のものらしい。
天守の後景は、表側より簡素である。
弘前藩領は青森県の西半分に当たるが、港湾を多く有して、西回り航路のみならず江戸に向かう東回り航路の起点にもなっていたという。