ローマ3日目。
今まではローマの古代を中心に見てきた。
今回は、中世から近世の側面を見ていく。
有名どころばかり行くと人混みで疲れるので、市内を散歩して回ることに。
しかし市内全体が博物館で、全体が大混雑しているので、結局は人混みにもまれることに。。。
- 1.テヴェレ川の西岸に渡る
- 2.レパントから南に歩いてサンタンジェロ城へ
- 3.サンタンジェロ城
- 4.サンタンジェロ城から、テヴェレ川東岸へ戻る
- 5.カンポ・デイ・フィオーリ広場へ
- 6.パンテオン前へ
- 7.ヴェネツィア広場へ
1.テヴェレ川の西岸に渡る
テルミニ駅近くのホテルからは、ローマに2本ある(しかない)地下鉄のどちらにもアクセスしやすい。
Repubblica駅からMetro Aに乗って、テヴェレ川をわたることにした。
テヴェレ川東岸に、コロッセオやフォロ・ロマーノなどの古代からのローマ市の中心部がある。西岸のトラステヴェレ地区などには、サン・ピエトロ大聖堂などがある。
レパント駅は、サン・ピエトロ大聖堂の最寄り駅の一つ手前の駅で、テヴェレ川を渡る際に地下鉄がいったん地上に出て、また潜ってすぐの駅である。
駅名の元は教皇庁・ヴェネツィア・スペイン連合艦隊がオスマン・トルコ帝国艦隊をギリシャのレパント沖で破った、「レパントの海戦」の戦勝からとった通りの名と思われる。
レパントの海戦が戦われたのは1571年で、それまで東地中海の制海権を握っていたトルコ帝国に、世界周航で覇権を握ったスペイン帝国と、それにより没落しつつあったヴェネツィアなどのイタリア港湾都市の連合軍が勝利し、その後さしものオスマン・トルコ帝国の長い衰退の始まりの象徴ともなった事件である。
同じ年、日本では信長が比叡山焼き討ちをしている。
2.レパントから南に歩いてサンタンジェロ城へ
駅からチチェローネ通りを南に歩いて、サンタンジェロ城を目指す。
ローマ市内は路肩に駐車スペースが広くとられているため、道本体の車線は少ない。よって一方通行だらけであり、市内を車で移動すると、慣れないうちは何度もぐるぐる回る羽目になると思われる。
こうした複雑な道路事情から、二輪が街中の移動で使われるのはよくわかる。イタリアも日本に次ぐバイクメーカーの多い国で、Ducati, Aprilia, Motoguzziなどの高級ブランドが複数ある(もっとも、市内に路駐されているのはもっぱらスクーターばかり。高いのは外に置いておくとパクられるんだろうね)。
レパント駅周辺の地域は、金融機関などが多く立ち並び、経済の中心地のようである。南に歩いていくと、最高裁判所が見えてくる。
写真の、通りのドンツキにあるのが最高裁である。
日本の最高裁よりも瀟洒で伝統的なデザインで、いかにも南欧風のきれいな建物だった。
裁判所の周りには、Notaio(公証人)やAvvocato(弁護士)の文字がいくつかあり、公証役場、弁護士事務所があった。
日本でも、例えば大阪西天満の大阪高裁・地裁前には大阪弁護士会館や弁護士事務所が集積しているし、どこも似たようなものだろう。
ちなみに、裁判所・法律事務所の近くには、レストランも多い。これも似たようなものである。
3.サンタンジェロ城
テヴェレ川の岸に近づいていくと、城塞の堀が見えてきた。
砲撃戦を想定した、稜堡式城郭である。
日本の城は、堀の両岸のうち、外側の方が内側の石垣より低く作られる。
これは、火縄銃や弓矢での攻撃には高い場所からの方が有利、という思考からである。
しかし、大砲が登場した後のヨーロッパの城塞、近世以降の稜堡式城郭では、内外の高さはほぼ同じで、外側の堀の斜面をなだらかに、内側の堀の斜面を急にしている。堀の内側から砲撃する際に、死角を作りにくくするための工夫という。
堀自体は日本の大型城郭に比べると浅く、一方で幅が広い。空堀である。
弓矢と小火器ではなく、大砲を用いた攻城戦という観点から見ると、内から外に砲撃がしやすく、外の攻め手の大砲が内郭に迫りにくいような形状になっていることがわかる。
この堀の縁を辿っていくと、本丸(?)であるサンタンジェロ城が見えてくる。
もともとは、五賢帝の一人で2世紀初頭から半ばにかけての皇帝で、五賢帝の3人目であるハドリアヌスが、自らの霊廟にするために建てたという。
よって、この施設はもともとの名をハドリアヌス霊廟という。
これだけデカい墓を生前に自分のために作るかね、普通。
その後、ローマ帝国にゲルマンが侵入してイタリア諸都市を荒らすようになると、例の3世紀に建設されたアウレリアヌス城壁と接続され、都市の防衛施設としての機能がメインとなった。これが5世紀初頭である。
アウレリアヌス城壁が19世紀のイタリア統一までローマ教皇庁による都市国家ローマの城壁であったように、この城塞もその城壁とともに都市防衛施設として存続した。
教皇庁の城塞として、6世紀末には「サンタンジェロ城」と呼ばれるようになっていたという。
構造はコンクリート製とみられる。
現代のコンクリートより強度が優れているとされる、ローマンコンクリートである。
当初は、他の古代遺跡と同様、コンクリートの構造を大理石等の化粧板で覆っていたと思われるが、現在はむき出しである。
城内には長いらせん状のスロープがあり、弾薬等を荷車で運んだことが推定される。
本城塞は、サン・ピエトロ大聖堂から城壁がつながれ、その上に直通する通路Passeto di Borgoが敷かれている。
ローマは、何度も神聖ローマ帝国やフランス王国の攻撃にさらされた街である。神聖ローマ皇帝カール5世=スペイン王カルロス1世の時代にはローマ劫掠といわれる略奪を被り、それが後のサンタンジェロ城の機能強化にもつながったとされる。
ローマ劫掠は、スペイン国王と神聖ローマ帝国皇帝と兼ねたカール(カルロス)と、両国に挟撃されかねなくなったフランスの紛争の巻き添えを、イタリア諸都市が、特に教皇庁が被った事案である。
フランスは、かねてよりイタリア諸都市に干渉し、王権の相続法に基づいて、ナポリの支配権を、はたまたミラノの支配権を相続したなどと僭称し、各都市に干渉戦争を仕掛けていた*1。
フランスの干渉に始まり、神聖ローマ帝国によるローマ劫掠を経ながら約70年間断続的に続いた戦争をイタリア大戦争という(何となくゲームのタイトルのような能天気な響きがある)。
フランスと、それをけん制し得る神聖ローマ・スペイン両国が加わり、さらに儲かるならば戦争もビジネスである無節操の鑑、ヴェネツィアなどの諸国が入り乱れて混乱を拡大させる。
こうした中で、教皇庁は、自らの幹部(枢機卿など)に各国の有力貴族を抱えるゆえに、どっちつかずの態度を繰り返した。その挙句、結局フランスの肩を持つに至り、フランスと敵対していた神聖ローマ帝国のカールを激怒させ、ローマ侵攻・略奪と相成ったわけである。
ローマ教皇は、各王権に正統性を与える権限を持っている点では、中世日本における王家=天皇家に似ている。中世のローマという都市も、そうした点では中世の京都と似ているといえる。実際に京都でも、しょっちゅう似たような「劫掠」は行われている。平家を追討した木曽義仲然り、後鳥羽上皇を北条氏が制圧した承久の乱、南北朝期の倒幕⇒後醍醐政権⇒室町幕府成立⇒観応の擾乱、応仁・文明の乱など、枚挙にいとまがない。
一連のイタリア戦争は、70年間断続した末に、フランス王とスペイン王が突如、「金がない」と金欠による自己破産を宣言して終わる。
結局何がやりたいのかよくわからない戦争となっており、この点でもよくわからんままとりあえずぼちぼち戦っていた応仁の乱と似ていなくもない。あれも、日野富子が「もうええやろ。ええ加減にしよし。解散や解散!」と言って、よくわからんまま各陣営引揚げていった模様である。
イタリア戦争勃発時期の1494年前後は、日本では応仁の乱後の時期。
イタリア戦争終結時期の1559年頃は、桶狭間の戦いの前年であり、信長が入京する前に、阿波から入京した三好長慶が室町将軍を追放し、地方大名が中央政権を操作した、「プレ・全国統一政権」とされる三好政権(信長はこの構想を参考にしつつ、後に安土から京都を支配しようとしたとも指摘される)が存在した時期である。
奇しくも、日本もイタリアも似たような状況で、すなわち権威以外形骸化した政権を、外部勢力が震撼させるという形での内乱状態であったことがわかる。
サンタンジェロ城とは、日本列島もイタリア半島もともに戦国時代であった頃に、グダグダの戦争の中で使われた砦であった。
4.サンタンジェロ城から、テヴェレ川東岸へ戻る
サンタンジェロ城の真正面から、対岸に橋が架かっている。
10人の天使像が橋の両脇に並べられている。これは1667年に教皇クレメンス9世がベルニーニに命じてデザインさせたもので、ベルニーニの自作の天使像も2体あるという。
どうでもいいが、ローマ市内は海から離れているにもかかわらずカモメが多い。カラスを圧倒し、カモメ優勢の社会である。
橋を渡ると、聖堂や市場が広がる歴史地区(どこでもそうだが)で、路地の風景などが数百年前にタイムスリップしたような区域である。
この地域には革製品や香水の専門店や、菓子、パンなどの食料品店などの小売店が多く立ち並んでいる。
さすがに三枚目の写真の道幅であれば、バイクか徒歩でしか通れない。しかし、二枚目くらいの道幅なら、車が強引に通っていくのがすごい。京都の柳馬場や富野小路などの比ではない(わかりにくいたとえ)。
5.カンポ・デイ・フィオーリ広場へ
路地裏に合ったトラットリアで食事(量が多い)を済ませ、市場を目指す。
車道はほぼすべて一方通行で、街自体がコンパクトなことから、街中の移動は徒歩がよい。ただし、古代からそうだったようだが、道が複雑に入り組んでいて、七つの丘の起伏も激しいため、非常に迷いやすいらしい。迷路みたいで面白かったけどね。
ローマ市は、町全体が博物館だが、博物館自体も町全体にある。
ローマ市が運営するものだけでも、この翌日に行ったディオクレティアヌス浴場・マッシモ美術館・アルテンプス美術館などの美術館群と、ローマ博物館などの博物館がいくつも分散して存在する。いずれも収蔵量がただ事ではなく、一館だけでもなかなか見切れない。
ローマ博物館は、その中でも近代以降に取得した日本の浮世絵などの外国美術の収蔵品の多い博物館という。たまたま、浮世絵の特別展をやっていた。時間がないので惜しくも割愛。
市場は広場で催されており、食品や土産物が売られていた。
売り子は、ほとんどが中東系か北アフリカ系で、この国の移民の多さ、移民の就業状況がよくわかる。
ここで売り子の口車に乗って、30ユーロ(4800円くらい)の10年ものバルサミコ酢を買ってしまった。
6.パンテオン前へ
さらにここから歩いてパンテオン前へ。
既に2キロ以上は歩いている。
どこを歩いても、路地でも、人混みがすごい。
京都がオーバーツーリズムでどこに行っても混んでいるというが、そんなもの比ではない。
ここ数百年世界有数の観光都市としてオーバーツーリズムが常態化しているであろうローマでは、これは普通の光景のようである。
万神堂と訳され、日本風に言えば八百万の神々を祀っている神殿である。もともと、初代皇帝アウグストゥスの政権の重鎮、マルクス・アグリッパが建立したが、後に火事で焼失し、ハドリアヌス帝が再建したという。
アグリッパはアウグストゥス政権の軍事部門を担当した。クレオパトラと結託したアントニウスとの内戦、東方諸国との戦争を指導した。彼と同様、アウグストゥスを支えたもう一人の重鎮がマエケナスで、彼は外交政策の専門家であった。アウグストゥスは、カエサルと違い軍事・外交・内政のオールラウンドでカリスマ性を発揮するタイプではなかったようだが、こうしたトロイカ体制で帝政ローマを基礎づけた。
ちなみに、カエサル暗殺により彼の遺言でオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)が後継指名を受けたのは若干18歳で、そこから彼の大帝国のリーダーへのキャリアが突如としてスタートしたのである。彼を支えたマエケナスは7つ上、アグリッパはオクタウィアヌスと同年輩である。20代の時期にガリア戦役や内乱の歴戦の猛者、政治家たちを向こうに回して渡り合い、やがて内戦を制してローマの第一人者となるのであるから、これはこれでとんでもない天才的なリーダーであったものと思われる。
7.ヴェネツィア広場へ
最後に、ヴェツィア広場に向かった。
ここは、カピトリーノの丘のふもと、フォロ・ロマーノの隣の、古来からの一等地である。広場の名前は、そのような一等地に傲然と巨大な大使館を構えたヴェネツィア共和国からとられている。ちなみに、ヴェネツィア大使館の西隣はイエズス会の本部、ジェズ教会である。この位置関係も、プロテスタントやイスラームとパワーゲームを繰り広げた教皇庁とヴェネツィアの、ただならぬ関係を示唆していて面白い。
ヴェネツィア共和国は、ローマ教皇庁とは中世から近世を通じて、常に微妙な緊張関係を持った、イタリア半島諸都市の中でも異色の国である。
まず、フィレンツェ、ジェノヴァ、ミラノなどの有力諸都市が、共和制からことごとく特定の貴族の僭主制へと変貌していく中、ヴェネツィアはその滅亡の19世紀に到るまで、貴族共和制(寡頭制)を堅持し、イタリア諸国中でも孤高の存在であった。
全盛期には、ビザンツ帝国を最大の貿易相手国として地中海貿易において支配的な立場に立った。
第4次十字軍の結成に際しては、軍の輸送を担う立場を利用して教皇庁を翻弄し、なぜかイスラーム勢力に支配された中東地域ではなく、同じキリスト教を奉じるビザンツ帝国を、そっちを攻めた方が儲かるからと十字軍に攻撃させ、挙句ラテン帝国なる有象無象の「帝国」を作らせた、筋金入りの「死の商人」であった。「口先」が人心を動かし、カネが信仰心に打ち勝ち、かつ武力を支配した好例である。
スペイン・ポルトガルの世界周航で地中海貿易の重要性が下がったことから、ヴェネツィアは没落を加速させるものの、先述のレパントの海戦では、これまた地中海覇権を奪還する好機と教皇庁を焚き付け、「カトリックのためなら」とスペインの金と兵力を引きずり出し、見事海戦に勝利、ビザンツ崩壊後西欧勢力が連戦連敗し、ヴェネツィアにとっても不倶戴天の敵であったオスマンを没落へと向かわしめたのである。
その後、結局地中海貿易が復権することはなかったが、ヴェネツィアは商業とレースやガラスなどの手工業の国として、また東地中海に海外植民地を多く持つ国として、独自の存在感を持ち続けた。
衰退期に入った後も、地中海中に張り巡らされたヴェネツィアの情報網は、いわば現代の英国のSIS(通称MI6)を始めとしたインテリジェンス当局のようなもので、その老獪さはイタリア大戦争などでフランス等の戦争当時国への貸付や債権者としての圧力として威力を発揮した。死の商人の面目躍如である。
その旧ヴェネツィア大使館、現ヴェネツィア美術館の内庭を見ると、シダや蘇鉄、その他東洋の植物が大きく育っており、その昔ヴェネツィアが東洋から珍しい植物を取り寄せては庭に植えてきた時代を偲ばせる。
大使館でのレセプションなどに他国大使を呼び、自国の貿易活動の範囲の広さを誇示したものだろう。
ローマは、教皇庁の膝下に合ったことから、イタリア諸国やフランス、神聖ローマ、スペインなど、多くの国の外交・戦争の舞台でもあったことがわかる。
ヴェネツィアの他にも、枢機卿や教皇が多く輩出したフィレンツェのメディチ家、ミラノのスフォルツァ家、ドーリア家など、多くの貴族(日本でいえば大名家)にゆかりの施設や美術品も多い。ゆえに、街全体が博物館で、街中に博物館がある状態となったのである。
中世から近世にかけての西欧の歴史を見るうえでも、まずローマを見てから各地を見るのはよい順序かもしれない。