手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

86-エイティシックス-視聴完了レビュー(ネタバレあり)

anime-86.com

 

1.アニメーション技術面 55.5/60

1)キャラクター造形(造形の独自性・キャラ間の描き分け) 10/10

2)作り込みの精緻さ(髪の毛、陰影など) 8.5/10

3)表情のつけやすさ 9/10

4)人物作画の安定性 10/10

5)背景作画の精緻さ 9/10

6)色彩 9/10

 

2.演出・演技 73.5/85

声優

1)せりふ回し・テンポ 3.5/5

2)主役の役者の芝居(表現が作品と調和的か・訴求力) 4.5/5

3)脇役の役者の芝居(表現が作品と調和的か・訴求力) 4/5

映像

4)意義(寓意性やスリル)のある表現・コマ割り 4/5

5)カメラアングル・画角・ボケ・カメラワーク 4/5

6)人物表情 5/5

7)オープニング映像 5/5

8)エンディング映像 5/5

音楽

9)オープニング音楽

作品世界観と調和的か 4/5

メロディ 4/5

サウンド(ヴォーカル含む) 4/5 

10)エンディング音楽

作品世界観と調和的か 4.5/5

メロディ 4/5

サウンド(ヴォーカル含む) 4.5/5

11)劇中曲

作品世界観と調和的か 4.5/5

メロディ 4.5/5

サウンド(ヴォーカル含む) 4.5/5

 

3.ストーリー構成面 46.5/60

1)全体のストーリー進捗のバランス 7.5/10(第一期5/5、第二期2.5/5)

2)ストーリーのテンションの保ち方のうまさ(ストーリーラインの本数等の工夫等) 7.5/10(第一期5/5、第二期2.5/5)

3)語り口や掛け合いによるテンポの良さの工夫 7.5/1(第一期5/5、第二期2.5/5)

4)各話脚本 7.5/10(第一期5/5、第二期2.5/5)

5)全体のコンセプトの明確性 9/10

6)各話エピソードと全体構造の相互作用 7.5/10(第一期5/5、第二期2.5/5)

 

4.物語の基本方針の分析

1)語りの視点

第一期:二者(シンとレーナ)の視点からの二つの物語。デュエット的なポリフォニカ

生き抜く希望(レーナ)と死者を導く絶望の行軍(シン)の対比により進められる。

第二期:シンのみによるモノフォニー

2)ストーリーラインの本数

第一期:シンとレーナの二本のストーリーライン

第二期:シンの視点の一本のみ

3)時間の流れ

第一期・第二期ともにミメーシス的詳述。

4)語り方の手法

ドキュメンタリタッチ、長回しなどの特殊な技法はなし。色(生=動脈=赤、死=静脈=青)や、聴覚情報と視覚情報の対比、映像による寓意的表現(彼岸花、桜、線路の行き止まりの標識など)を多用。

 

 

総合スコア 175.5/205(85.609%)・・・Aランク

 

SSランク・・・95%以上

Sランク・・・90%以上95%未満

Aランク・・・75%以上90%未満

Bランク・・・60%以上75%未満

Cランク・・・45%以上60%未満

Dランク・・・30%以上45%未満

Fランク・・・30%未満

 

シンを目指し、追いかけ続けたレーナはシン達と遂に再び出会い、永い物語に一つの区切りがついた。

数年に一度のレベルの非常に丁寧に作り込まれた良作であるが、分割2クールの第二クールで評価が落ちた。減点となってしまった理由は、「語りの技術」によるように思う。

 

1.作品の通奏低音:「声の力」と「影の無力」

この作品では、差別されながらも戦場でたくましく生き抜いてきたエイティシックスたち、安易でパターナリスティックな善意は差別を助長するだけであるという警句的ストーリー、自分自身の幸せのあり方とそれを妨げかねない自己決定(ギアーデ連邦に保護されながらも再び戦場に身を置く決断をするエイティシックス達)の衝突という問題が克明に描かれる。

差別や、他人に対する善なる行いのあり方、偽善、自己決定とパターナリズムなどという問題が、作品の中心的テーマと見る向きも多いだろう。確かにそれは注目すべきテーマだ。しかし、この作品に通奏する「縦糸」にあたるものは、別にある。

それは、「声が伝える思いの力」と「視覚情報の欺瞞性」である。

 

2.二人のヒロインの担う役割

そもそも、物語の第一期と第二期で、ヒロインというべき存在が交代する。

前半は、いうまでもなく我らがヴラディレーナ・ミリーゼ(レーナ)である。後半は、フレデリカである。

この二人には、担わされた対照的な役割がある。

レーナは、「声=聴覚」によって、声に乗せた想いによって、シンたちエイティシックスを生へと導く存在。

対するフレデリカは、自らが目の前にある(視覚的に見える)存在として、シン達をなんとか生の世界に引き留めようとする存在。

レーナは、パラレイドを通してその声を、思いを伝え続けた。それによって、シンはレギオンと化した兄に引導を渡した後もなお、未来を生きようと「死への行軍」に赴く。レーナは、先に彼岸へと羽ばたいて行った彼らの後を追うと誓い(死ぬという意味ではない)、エイティシックス達の自由への戦いに自らの存在を懸ける。

第二期では、死地に赴いたシン達エイティシックスは、運良くギアーデ連邦に保護される。そこで出会うのが、第二のヒロインフレデリカだった。

フレデリカは、シン達がギアーデ軍に入隊した後も行動を共にし、自らの体を張って、戦場に自分自身が赴き続けることによって、シン達に自分を守らせ、死を望ませず、戦場から生還させようとする。一方で、本作品のラスボスにあたるキリヤ・ノウゼンを殺すという無理難題をシンに頼まざるを得ないという、アンビバレンツな行動もとる。

思うに、レーナに比したフレデリカの本質的な無力さが、物語全体のバランスを悪くしていたのではないか。

フレデリカは、最初から「不能性」を担わされているからである。

 

3.聴覚情報と視覚情報の対照

この作品では、パラレイドを通して、一度も互いに姿を見たことのないシンとレーナが言葉を交わし、思いを理解し合い、自由への戦いに起つ勇気を奮い立たせる。思いを乗せた言葉こそが、彼らの力となる。

声の力を担うのが、第一期ヒロインのレーナである。

他方、視覚情報は欺瞞に満ちている。サンマグノリア王国においては、欺瞞に満たされた「人の死なない戦争」が視覚情報であるニュース映像として展開されている。

物語第二期では、この視覚情報を担うヒロインとしてフレデリカが登場する。先述のように、彼女は常にシンたちに姿を見せることで彼らを生に引き留めようとする。(ここで注目すべきは、レーナが声によりシン達を生に「導いた」のに対して、フレデリカは自らの体を張っても彼らをなんとか生に「引き留め」られたにすぎないことである。)

フレデリカが視覚を担うヒロインであることを象徴するのは、キリヤが暴走した経緯である。彼は、幼帝フレデリカを守るため籠城を続けるが、彼女の身柄は寄せ手であるギアーデ連邦軍の手に落ちる。幼帝を手にかけることを忍びなく思った連邦軍総司令官(のちの大統領)は、幼帝フレデリカのマントを槍に刺して空高く掲げ、彼女が死んだと偽装する。それを「見た」キリヤは、フレデリカが死んだと誤解し、レギオンの頭脳となって周辺各国への大侵略を開始する。

わかるように、視覚情報の「嘘」が発端となって、キリヤという救いのない悪の暴走が始まり、戦争が起こったのである。

さらに象徴的なのは、シンとレーナの力は「聴覚=声」を共有するパラレイドなのに対して、フレデリカの特殊能力は、人の過去を「見る」能力なのである。

声を共有する力は、その声を、思いを届けることでお互いを勇気づけることができる。しかし、見る能力は、フレデリカ自身が劇中で言うように、ただ見ることしかできない無力なのである。

 

4.音声情報の力と視覚情報の脆さ

詰まるところ、この作品の本質はこれに尽きる。

音声情報と視覚情報の本質的な違いについて、私がよく参照する理論派カメラマン・写真講師の伴貞良氏の指摘が興味深い。

www.youtube.com

 

音は、ながら仕事で聴けてしまう。写真などの視覚情報は、受け手が「見る」という能動的行為をしなければ受容できない。ながら仕事で受容できないのである。

言い換えるならば、音は、受け手にとっては聞こえる限り強制的に耳に入ってくる(手で耳を塞げば別だが)。他方、視覚情報は、自ら「取りに行く」行為が必要なものである。ここに、二つの情報の質の違いが浮かび上がる。

「人は、自ら見たいと欲する事実しか見ようとしない」とは、ユリウス・カエサルが喝破した真理である。見るという行為は、主体的に行うことが基本である(もちろん「見えてしまう」こともあるが)。見る者は、見たい情報を選択する。見たいと欲する事実しか見ない傾向がある。いくら発信者が自らの姿を晒して情報を発信しても(フレデリカ)、それを受け手が見ようとしなければ(シン)思いは届かない。

他方音声は、強制的に入ってくる。作中のパラレイドは、音声を強制的に共有するデバイスで、音情報の持つ本質をより強く象徴している。発話者は、その思いを乗せた言葉を、強制的に相手に伝える。この強制性が、作中でシンとレーナという二人を結びつけていってもいるのである。

 

5.第二期ラストへ向けて

フレデリカは、第21話で、戦場で戦うシンとキリヤの前にその「姿を現す」。最後の最後で、自らの姿を示すという視覚情報でキリヤを止めようとし、半ば成功するのである(姿を見せたことでキリヤの攻撃を鈍らせこそすれ止められはしなかったのが、あくまで視覚情報の無力さとして描かれてもいる)。

他方、ジャミングを受けてかすれた声ながらも、無電を通じてシンに聞こえてくる声、その声に導かれてキリヤの操るモルフォに着弾する無数のミサイル。声の主はレーナ。力とともにあらわれたのは、レーナの声だった。

先日放送された第22話では、激戦の後で戦う意味を失った「お人好しの死神」シンは、絶望の淵に立つ。過去が走馬灯のように蘇り、フレデリカの残像と言葉は虚しく響くばかり。敵の残党に狙い撃ちされそうになったその時、言葉の力で彼を生へと引き戻したのは、レーナの声だった。

戦場に現れたレーナの声が、シンを生へと引き戻し、未来への一歩を踏み出させる。

 

6.第二期の構成の妥当性

第二期ではヒロインが交代したが、そのヒロインが担ったのは、この物語で無力を象徴する視覚情報だった。第一期では、声を通じてシンとレーナの想いが通じ、自由への戦いという力強い物語が展開されたが、第二期はその展開の根本において、力強さを持ち得なかった。

第二期の物語の熱量を高める方法は、あったはずである。単純に、物語をシンとフレデリカの物語の単線的なストーリーにせずに、シンとフレデリカのストーリー/レーナの奮闘のストーリーという二本のストーリーラインにすることが、最も簡単な方法だ。

レーナとシン、声の届かぬ場所に離れてしまった互いを思い、目指しながら、自由への戦いを続ける物語。要は、レーナ側のストーリーを、全体の半分とは言わずとも3−4割ほど入れればよかったのではないか。

しかし、作者はこの最も容易で、かつ間違いなく面白くできる戦術を採用しなかった。おそらく、シンの周りを克明に描き、差別・偽善・戦争という、この物語の横糸にあたる部分を丁寧に語りたかったのだろう。

意図は理解できるが、そのためには根本的にフレデリカという存在は無力すぎた。

率直に言って、第1期ではシンとレーナのダブル主役だったものが、第二期になって突然レーナがほぼ放置される展開となるのは、ドラマの描き方として不自然とすら言える。もしシンのみにフォーカスして描くのであれば、ただ「そうしたかったから」では足りず、「あえてレーナを描かずシンのみの物語として展開せねばならない理由」という積極的根拠まで必要だったように思う。第二期がシンの物語のみとして展開したことについては、ドラマツルギー的な理解の仕方を考え続けているが、いまだにストンと腑に落ちないのである。

尤も、実際には単純にアニメにするには「尺が足りなかった」というのが最大の理由だろう。原作では、サンマグノリア側の苛烈な戦闘も描かれているという。尺のやりくりというのであれば、ユージンとの話は残しつつも、士官学校のエピソードや各地転戦のくだりを切ってでも、レーナの物語に割くべきだったように思う。

おそらくアニメ制作者は、シンのみの物語として進めることの困難を分かった上で、あえてこの道を選んだのであろう。実際に、第二期に入っても寓意的な映像演出など、非常に凝った映像が展開され、その力量は間違いなく高かった。リーダビリティを犠牲にしてでも、戦争と差別という重いテーマを優先したかった。これが作り手の意図ならば、その挑戦には敬意を表さねばならない。

しかしそれならば、第二期をドキュメンタリータッチの手持ちカメラ風にするなど、映像演出面でより臨場感を出すなどの工夫があってもよかったかもしれない。

また、レーナを長く登場させなさすぎたために、「きっと最後にはレーナが救いに来る」という予定調和の予感を持たせてしまった。もし、レーナの物語に一定のボリュームを割き、そのうえでレギオンの大攻勢に押しつぶされるか!?という展開で一度「引き」を作っておけば、レーナのその後へのドキワク感はもっとでただろう。

エンタメに徹すれば、容易にもっと見やすくなっただろう。それをあえて「外す」のであれば、湯浅政明山田尚子などのような、独自の語り方まで用いて物語の緊迫感を維持させるアイデアが欲しかった。それがあれば、上記スコアリング的にはSランクだっただろう。

以上より、本作品はAランクとなる。

 

7.補遺

芝居に関しては、レーナ役の長谷川育美が突出している。シン役の千葉翔也は抑制的な芝居が印象的で、最終話の少し柔らかくなった雰囲気の出し方などメリハリがあった。フレデリカ役の久野美咲は個性的な役者だが、ややクセが強すぎたように思う。演出でもう少し抑制しても良かったような印象がある。

音楽は、澤野弘之のオーケストラ編成のBGMは、丁寧な映像演出と相まって良質なものだった。澤野は進撃の巨人やRe:CREATORのような壮大さをあえて控えた楽曲だった。この作品が戦争という一見「大きな物語」の舞台設定の中にあって、その本質は個々の人間のミクロを描いた作品であることからも、ふさわしいように思う。