ローマ4日目。
ローマ国立美術館のマッシモ宮殿分館を見た後で、広場のはす向かいにある、同じくローマ国立美術館ディオクレティアヌス浴場に向かう。
1.ディオクレティアヌス浴場の場所
https://maps.app.goo.gl/96Y2N1nzsfboe3aN9
2.展示
この建物がすべて昔の浴場かというと実は違い、オモテの壁だけが残っている。
壁の後ろにある建物は近代的な博物館の棟である。
隣接する教会などは、旧浴場の施設の一部を転用しているそうである。
マッシモ宮殿がローマ時代の彫刻中心だったのに対して、ディオクレティアヌス浴場はローマからそれ以前の時代、エトルリア、ギリシャ人のイタリア半島植民時代、さらにその前の先史時代の遺物が展示されていた。
先史時代の展示は博物館2階、ローマ時代の彫刻は博物館1階の中庭に野ざらし、ローマからそれ以前の遺物は博物館の別棟?の2階から地下にかけて広く展示されている。
ここでも例によって、非常に貴重と思われる古代の彫刻などが非常に無造作に置かれていて、展示物が渋滞している。
さらに、この博物館の展示は観光客には人気がないらしく、先史時代の歴史などマニアックなものに一家言ありそうな玄人風の客しか来ていなかった。
マッシモ宮殿もそうだが、ガラガラで非常に快適な、じっくり見て回れる博物館である。しかしじっくり見て回ると半日は余裕でかかるので、足も疲れてきたしある程度はしょって出てしまった。。。
雑草(だよな?)が生い茂る中庭に放置されている石、というか岩というか、全て古代の建物の一部と思われる。
上の写真の石碑は、ギリシャアルファベットが彫ってあるようなので、ローマ帝国時代かそれ以前のものと思われる。
意図的な展示の仕方なのか単に放ってあるだけなのかわからんが、あまり日本人の感覚ではやらないと思う。
遺跡の保存や展示と日常生活の中での過去の遺物との接し方、使い方の関係などは、日本と根本的に違うところがあるように感じる。
ここら辺は、改めて考えてみようと思う。
これなんだ?アイリスか何かか?
菖蒲は水の中から、かきつばたは湿気の多いところに、アイリスは乾燥した土の上で、ということなので、たぶんアイリスあたりなのでしょう。知らんが。
3.ディオクレティアヌス浴場とは
ディオクレティアヌス浴場は巨大で、現在のRepubblica広場を囲むGalleria Essedraという商業施設を丸ごと飲み込み、横の教会なども施設の一部であった。
ディオクレティアヌスは4世紀末の、蛮族の圧迫と内乱に苛まれたローマが最後の努力をした時期の皇帝である。
帝国を4つの領域に分割し、四帝分割統治として後進に引き継いでいった。領土を東と西に分け(これが後に西ローマ帝国・東ローマ帝国の元となる)、それぞれに正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)を置くという体制である。
ここで、アウグストゥスとカエサルという帝政の創始者の名が、二つの役職に分かれたのは興味深い。もはやこの時代では、その遺志を継ぐべき個人名ではなく、単なる役職という感覚だったのだろう。
結局ディオクレティアヌスの見込みは外れ、正帝と副帝、東と西で内乱を繰り返し、コンスタンティヌスによる再統一を待たねばならなくなる。
ここでも帝位継承のシステムが形成できなかったことが問題だった。
おそらく、継承のための順位などを法で定めたところで、無意味だったのだろうと思われる。ローマで皇帝の選定に影響力を持ったのは、初期は元老院、その後徐々に軍の意向が強くなり、軍人皇帝の時代には辺境の駐屯軍が、ディオクレティアヌスの時代には、皇帝指揮下の機動軍(辺境に張り付く駐屯軍ではなく、皇帝とともに領内を付き従う)が、皇帝の首を挿げ替えた。
キングメーカーが変遷していくなかで、帝位継承システムを作れないまま翻弄された歴史でもあった。
一方で、ゴート族やフン族の侵入、彼らとの妥協案として機動軍に彼ら北方民族を受け入れるという、「毒まんじゅうを食らう」行為を繰り返して弱体化していく中にもかかわらず、首都ローマにこれだけ巨大な浴場を作ってもいたのである。
この浴場は、476年の西ローマ帝国が崩壊した後、6世紀(537年)にゴート族の王が水道供給を断つまでは使われていたという。帝国崩壊後約60年間は使っていたのである。
コロッセオも、東ローマ帝国がローマを奪還していた7世紀くらいまでは猛獣狩り(おそらく現在の闘牛の先駆け)が行われていたという。
4.西ローマ帝国末期の状況
当時の生活水準や生活形態、文化レベルやその衰退の推移など、どうなっていたのだろうか。
この辺の歴史は、近年ヨーロッパで研究が最も盛んな分野のようで、多くの論争がされているという。
従来、ギボンやモムゼン(英国人とドイツ人、どちらもローマを滅ぼした辺境のゲルマン人の末裔!)の時代は、ローマは蛮族(末裔ご本人らがそう言ってる)に滅ぼされ、その後長い暗黒の時代に入った、とされた。
しかし、近年は、「いやいや、ゲルマンはローマのインフラと社会の上に成立した支配秩序であって、ローマ文明は引き継がれながらもグラデーションをもちつつゲルマン化していった」などという言説もある。
さらに、ローマ時代までの活力あふれる彫刻やフレスコ画から、一気にヘタっぽいイコンみたいなキリスト教絵画に代わっていったのも、「いやいや、あれは写実の時代から精神の時代に代わっただけだから、あえてのヘタさだから」的な解釈もされる。
前者(ゲルマン化の経緯)については、やはりEU共通の歴史研究、歴史観というところで、ゲルマンを腐すことのない当たり障りのない史観という、政治的イデオロギー性があるようである。
後者の芸術分野についても、確かに写実こそが優性なのではなく、洋の東西でそれぞれ価値観が異なるのは当然であるものの、そうした議論に引き寄せて、かつての技巧が失われた事実を糊塗しているところはないではない。
近年では、こうした「EUみんなで仲良くやっていこうぜ」的な玉虫色の歴史観の醸成に異議を唱える歴史家もまたいるらしい。
「ローマ帝国の崩壊:文明が終わるということ」
という書籍などがそれのようで、著者のブライアン・ウォード・パーキンスは、イタリア生まれ、イタリア育ちの英国人のローマ史学者という。
生い立ちからして面白過ぎるし、しかもそんな人が(だからこそ?)ゲルマンがローマを漸進的に引き継いだという論調に真っ向から反論し、「ゲルマンは破壊者だと」舌鋒鋭く批判しているというのだから、楽しすぎる。読んでみたいものである。
日本では、中世の歴史研究が現在盛んである。従来史料が少ないとされてきたこの時代について、近年貴族の日記やふすまの裏書、考古学研究など多角的分析から、様々な実相が浮かび上がってきている。過去の人物史・政治史中心だった時代から、網野善彦らを筆頭に、社会の歴史を見るフランス・アナ―ル学派などの影響を受けた研究者らが台頭してきたから、というのもあろう。
西欧では、古代末から中世初期という、同じく資料の少ない(それはゲルマンによる破壊とキリスト教による世俗文化の抑圧ゆえか)暗黒の時代について、その実相を議論するのが、政治的背景もあって一番ホットなようである。さらにはここに、オリエント、後のイスラームとの関係も絡めて、東ローマ帝国史の研究も見直されつつあるという。
ここら辺もフォローしていったら、今後面白いだろう。