手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

フォロ・ロマーノを体感

第一日目、昼からフォロ・ロマーノ周辺へ向かった。

フォロ・ロマーノ

1.バシリカ・アエミリア

シリカ・アエミリア

フォロ・ロマーノの北側入り口から入ると、まず見えるのがバシリカ・アエミリアの跡である。

アエミリウス・レピドゥスの名を冠した公共施設バシリカ(市場や裁判所などの複合施設)である。

アエミリウス・レピドゥス共和制ローマの有力な為政者であり、ローマがハンニバルを打ち破った第二次ポエニ戦争後、膨張するローマが東方のセレウコス朝シリア(アレクサンドロス帝国の遺産である、シリアのヘレニズム国家)との軍事衝突を指揮したことでも知られる。

 

2.クリア・ユリア

クリア・ユリアのレリーフ

クリア・ユリアは建物自体が完全に現存する、フォロ・ロマーノでも珍しい建築物である。

カエサルガリア戦争と内乱を平定した後に建造開始した建物で、アウグストゥスの時代に完成したとされる。

床のタイル

元老院議会の議事堂として使われたという。

共和政時代、元老院議会を開催するための専用の建物は存在しなかった。

シリカなどの公共施設で、都度開催していたという。

ちなみに、カエサルが暗殺されたのは、フォロ・ロマーノから少し離れた、現アルジェンティーナ広場にあった、クリア・ポンペイアという、当時元老院議会をよく開いていた会議場だったとされる。名のとおり、カエサルが内乱で熾烈な争いを繰り広げた政敵にして天才的な軍事指揮官、ポンペイウス・マグヌスが建造した会議場である。

高い窓

議事堂というが、かなり狭い。
紀元前1世紀中葉のカエサル時代には、属州の増加に伴い、もともと300人ほどが定員であった元老院議員数は900人まで増えた。

アウグストゥス時代に員数が調整され、600人まで削減された。

それでも、この議事堂では全員は入れまい。

実際当時はどういう使用方法だったのか。

 

3.バシリカ・ユリア、ディウス・ユリウス神殿

神殿の跡に咲くヒナゲシ

カエサルガリア戦役の勝利の後、戦争とその後のガリア開発のために集めたカネで造ったのが、ユリウス公会堂、バシリカ・ユリアである。

そのカエサルを神として祀ったのが、バシリカユリアの向かいに建っていたディウス・ユリウス神殿である。

人の金を湯水のごとく使う、おそらく金を「借りる」と「もらう」の本質的な違いを理解しなかったであろう戦争とマネーゲームの天才、カエサルの遺構には、いまは暢気に花が咲いている。

 

4.セプティミウス・セウェルス帝の凱旋門

セウェルスの凱旋門

セウェルス帝は、ローマの最盛期であった五賢帝の世紀の後、下り坂に向かい始めた時期の皇帝である。時は2世紀末から3世紀初頭である。

五賢帝最後の皇帝、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの時代、地球全体の寒冷化が見られたという。その影響下で、東から騎馬民族フン族の移動の胎動が見られる。ローマ帝国領域外の、ゲルマンの森のさらに遠くで動き始めた動乱の萌芽がはじめに顕在化したのが、マルクス・アウレリウス帝が戦ったマルコマンニ戦争であった。ゲルマン部族のマルコマンニ族によるローマ国境線への圧迫と、それを押し返す攻防は断続的に続いた。

長く実戦から遠のいていたローマ軍は、賢帝の世紀の最後の治世に、大きく、長い戦争を経験した。

ローマ軍の指揮官の登用方法が変わったという。

従前、指揮官には実戦経験のない名家の子息、すなわち元老院議員やその子息があてがわれた。

戦争をしない軍隊ならばそれでよい。

しかし、トライアヌスによるダキア平定戦争以来の、それも攻め込む敵を追い返す戦争である。

血筋ではなく、能力での登用に切り替わっていく。

元老院議員身分=貴族階級と、軍のテクノクラートの分離が生じる。

マルクス・アウレリウスの子で、次代の皇帝であったコンモドゥスを経て、ローマ軍の専門化、元老院との分離が進む。

愚帝とされるコンモドゥスの暗殺により、空白となった帝位をめぐる騒乱が発生する。

これを勝ち抜いたのがセプティミウス・セウェルスであった。

セウェルスが帝位に就いた時、元老院議員が軍のトップを務める、ある種の文民統制は衰退していた。軍こそが、その暴力を背景に、自らの主としての皇帝を選ぶ時代に変わりつつあった。

先代のコンモドゥスは、愚帝とされるものの、12年もの治世を持った。その間、マルコマンニ戦争を終結させ、辺境諸部族との和平を成立させた。ローマ史の大家モムゼンは、彼は膨張する軍事費の抑制に成功した、と評している。

他方、セウェルスはこうした努力を水泡に帰する策に出た。

兵の給与の倍増である。

いまでいえばバラマキともいえよう。

セウェルスは兵士の支持をカネで買った。これは同時に、皇帝の首を兵士に差し出し、皇帝は兵士の親玉であると同時にその下請けに成り下がったことも意味した。

その後、城壁を築いたアウレリアヌスを始めとする軍人皇帝時代の皇帝たちは、いくら有能であっても、その帝位が常に軍団兵士たちの競りにかけられることになる。

アウグストゥスによる帝政確立後、緩やかにインフレを経験してきたことから、兵士の実質賃金は目減りしていたとされる。

セウェルスの政策は、一概に非合理なバラマキではなかったかもしれない。しかし、当時中華では漢帝国が崩壊し、インドでも大月氏が衰退期に入るなど、気候変動の影響もあってか、ユーラシア交易が退潮期に入っていたと推定される。

莫大な軍事費を支えたオリエントとの交易の関税の収入も、減少していたと考えられる。そうした財政状況下での軍事費倍増は、その後のローマ帝国に重大な楔をうちむこととなった。

 

5.ティトゥス帝の凱旋門

ティトゥス凱旋門から見たフォロ・ロマーノ。奥に見えるのがヴィットーリオ・エマヌエーレ二世記念堂

ティトゥスは、セウェルスと対照的に、五賢帝の世紀に到る前のローマ帝国の隆盛期の皇帝である。1世紀後半の皇帝である。

ウェスパシアヌスは、ネロ暗殺後の動乱を平定した皇帝であり、その後を継いだのが長男であったティトゥスである。

治世わずか2年で早世したが、その間にネロのドムス・アウレア事業の大幅改定版であるコロッセウムが竣工。他方、ネアポリスナポリ)近辺でウェスビウス火山の噴火が起こり、ポンペイの街が消滅した。

被災地の時限付きの租税免除など、復興に奔走する中での死であった。

凱旋門は、属州パレスティナにおける第一次ユダヤ戦争の勝利を祝してのものであった。

中でも、マサダ要塞攻防戦は、城内のユダヤ兵が集団自決した玉砕戦と伝えられ、猖獗を極めた戦いであったとされる。

この戦争を機に、ユダヤ人はパレスティナ(彼らのいう約束の地、カナン)から追放され、世界を放浪することとなった。

一つの民族を離散(ディアスポラ)させ、その後の数々の歴史上の悲劇(中世におけるユダヤ人差別であり、近代以降のシオニズムホロコーストにも繋がる)の一つのトリガーとなった出来事を、戦勝記念として祝った。しかもその戦いは、史上稀に見る殲滅戦であった。実にいわく因縁の多い凱旋門である。パリの凱旋門など、いかに能天気なことか。

この戦争については、ユダヤ人の歴史家フラウィウス・ヨセフスの著作に詳しい。ヨセフスの姓フラウィウスは、ウェスパシアヌス、テイトゥス、ドミティアヌスと続くフラウィウス朝の皇帝の姓を下賜されたものである。

 

6.ファルネーゼのテラス

ホッレア・ウェスパシアニ

テラスからはフォロ・ロマーノを一望できる。目の前に見える巨大建造物は、ティトゥス帝の父、ウェスパシアヌスが建造したとされる巨大食糧貯蔵庫である。

ローマ帝国の穀倉は、ポエニ戦役以前はイタリア半島、第一次ポエニ戦争後にシチリア、第二次ポエニ戦争後に北アフリカオクタウィアヌス(のちのアウグストゥス)とアントニウスの内戦後はエジプト、と遷移していった。

ウェスパシアヌスの時代、ローマ市民に「パンとサーカス」として配給されたエジプトや北アフリカの小麦が、ここに貯蔵されていたようである。

貯蔵庫の小麦とコロッセウムでの競技大会、隆盛期のローマの「パンとサーカス」である。

テラスからの風景

 

7.現代のローマ

知人の英国人は、日本の歴史は、狭くしかし深いといった。京都の地には多くの戦乱の、文化の歴史が積層している。

ローマに積み重ねられた歴史は、深く、そして広い。その歴史は血塗られたというのも生易しい、民族一つ、国一つを消し去ることが造作もなく行われるスケールで進んだ。

古代のみならず、中世のカトリック教会の時代も、この街に鎮座する権力が十字軍、アメリカ征服などを嚮導した点では、その苛烈さにおいて大差はない。

フォロ・ロマーノの前のタンポポ

かつてと比べて、この街は世界の権力の中枢の座からは降りた。しかしそれゆえに、気の短い、同時に暢気なローマの街は、その史上最も平和な時期を迎えているのかもしれない。