手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

映画「聲の形」の解釈についての駄文

koenokatachi-movie.com

 

1 序:「聲の形」という映画作品 (以下ネタバレあり)

 

ゴールデンウィーク中に、京都アニメーション制作の映画、聲の形の地上波放送があった。たまたまテレビで流れていて途中から見始めたのだが、本作品を見るのはこれが3回目(1度目は劇場、2度目はBD)であった。

 

どのような内容かは、書くと面倒なので、Wikipediaのリンクを貼っておきます。

ja.wikipedia.org

 

この作品は公開当時から賛否が分かれており、やれ「感動的だ」などという発言者の語彙力を柄にもなく心配したくなるような感想から、「感動ポルノだ」などというプロの批評家としての読解能力のなさを恥も外聞もなく公言して憚らない勇気ある御仁たちの唾棄すべき発言まで、皆々方が数多くをネット上に遺棄してくれたものである。

ほかならぬこの論考も、等しくまた遺棄されるごみである。

 

2−1 本:この作品に対する反応

 

この作品に関して、最もフェアな批評をなさっているのは、杉本穂高氏と思う。引用しておく。

hotakasugi-jp.com

 

そもそも本作品は、聴覚障害者と健常者の相互理解への道を描いた感動作でもなければ、障害者へのいじめの問題を主題とした作品ではない、ということが、上記杉本氏などごく一部の批評家を除いて、ほとんど理解されていないのではなかろうか。

つまり、ほとんどの自称映画批評家たちが、出発点において本作品を誤読しているのである。私はこの作品を誤読した批評家の批評眼を、今後も信用することはない。

どういった誤解か。

以下、引用する。

togetter.com

 

特に杉田俊介氏の見解は、典型的なものであろう。以下での検討のため引用する。

加害者がどんなに反省し苦しみ贖罪しようが、そのことと被害者が赦すかどうかは全く別事であり、その不可能性ゆえに赦しは赦しでありうる。謝罪と赦しとは完全に非対称。被害者が加害者と友達や恋人になるのが悪いのではない(それは被害者の自由)。その断絶に対峙する物語的な論理を考えつくしてない」

との発言である。

根本的に、本作品の前提を読み違えているように思う。

彼自身の著作は拝読したことはないため、決めつけたことを言うつもりはない。しかし、論じるに際して、自身の問題意識に作品を(それも彼の問題意識と関係のない作品を)勝手に引き寄せ過ぎている嫌いがある。

 

2−2 本:理解と無理解を分つポイント

 

上述のフェアな批評をされる杉本穂高氏が指摘するように、本作品は主人公の石田将也の一人称告白体を基軸として描かれる。この点を理解できるかが、この作品を読み解けるのか否かを分かつ決定的なポイントである。

一応、物語の重要な点のみ拾っておこう。

石田将也は、聴覚障害者である西宮硝子に対する小学校時代のいじめ加害者で、そのいじめが元で自らがいじめ被害者に転じ、高校生になってから自殺未遂事件を起こす。ここから物語は始まる。

自殺未遂後に西宮と再開した将也は、彼女と交流を重ね徐々に他人と関わりを持つようになる。しかし、西宮やその家族と将也が花火大会に行った日の夜、突如姿を消した西宮は、一人自殺を図る(未遂に終わる)。そこから物語は終盤に向かっていく。

本作品を批判する批評家たちが指摘するのは、以下の点である。

1.かつてのいじめ加害者だった将也に対して、西宮(京都アニメーション的な柔らかく優しいルックスのヒロイン)が恋心を抱くのは、都合が良すぎる。

2.いじめ被害者が、実は虐められたのは自分のせいで、だから自殺を図るところまで追い詰められておきながら、彼女に対する救済が物語上はかられないのはおかしい。

云々・・・。

あまりきついことは言いたくないし申し訳ないのだが、批評家であるからにはその批評が批評されることも覚悟している、それで飯を食っているプロであろうからあえていう。

頭痛がしてくる。

これほどまでに皮相的な解釈、というより非解釈しかできないものか。

 

2−3 本:本作品の解釈の前提

 

まず、この物語は将也の一人称告白体が基軸であり、それ故に見える景色も将也の主観をベースにしたものなのである。

だから、将也が人に心を閉ざしている時は、表現手法として他のキャラクターの顔に❌が貼られ、心を開くと、彼らの顔が生き生きと見えてくるのである。

(細かいことであるが、この作品の「カメラ」は画面中央に焦点が合っているが、画面周辺にいくにれて淡いボケみが出てくるように「撮影」されている。レンズの被写界深度の浅い、絞り値を下げたレンズ設定での撮影である。同時に、意図的に「像面湾曲」や「非点収差」と言ったレンズに生じる光学的ノイズが付けられているのがわかる。いわゆるザイデル収差というやつである。これは、将也の視点が中央に合い、そこからなだらかに情報を捨象していくことで、彼の主観的視点をより強調しようとする意図があるのかもしれない。三回見て初めて気づいた点であり、やはり京アニ作品は奥深い)

 

そして、西宮が自責の念に駆られていたり、自殺願望を持っているというこの不可解さは、この将也の一人称告白体という表現手法によって仕掛けられたワナなのである。

我々視聴者は、将也の一人称告白体によって、彼の視覚を共有することを強要される。

彼の主観を共有している我々は、当然他の登場人物が何を考えているのかは、神でもないのだから分かろうはずもない。

 

ここで、西宮の不可解さという問題が浮かび上がる。

重要な点として述べておくべきは、彼女は、将也によるいじめ被害の前後に関係なく、生きていることに辛さを感じていた、ということである。

それは、西宮の自殺未遂後に語った、彼女の妹・結弦の発言に裏打ちされる。

 

2−4 本:解釈の手がかり

 

結弦は、ずっと学校に行かず姉の世話ばかり焼き、傍らで動物の死骸の写真ばかりを撮り、それを家中に貼り付けているという、これだけ書くとだいぶヤバイ娘である。

彼女が動物の死骸の写真を貼りまくっていた理由が、件の発言で明かされる。

曰く、姉ちゃんは昔から突然死んでしまいそうだったから、心配でずっと目が離せなかった。動物の死体の写真を見せれば、死ぬのが嫌になって思いとどまってくれるかと思った、というのである。

(再び話が逸れるが、結弦が構えるカメラは、NikonのおそらくD5000番台かD3000番台と思われる。Canonの追求する「記憶色」=人の脳裏に残る印象の色に対して、Nikonが目指すのは「自然色」=被写体の持つ本来の色を再現する、である。結弦の被写体の持つ生々しい写実性を表現し伝えるためには、CanonよりNikonが相応しかったという判断なのだと、勝手に納得しておこう)

 

西宮硝子は、いじめの前後関係なく、死を希求していたようなのである。彼女は、常に生きることの辛さに打ちひしがれそれでも必死で人と関わろうとしていた。その過程で起こった事件が、石田将也らによるいじめ事件だったのである。

本作では、冒頭で苛烈ないじめシーンが描かれる。それ故に多くの人が、このいじめの加害者と被害者の和解と救済の物語を、勝手に物語に期待してしまうのではないか?

読み手が作品を享受する際に、その物語に読み手が抱く勝手な期待は、常に心の隅に生じて我々を侵食するものである。この欲望は完全には防ぎ得ないものの、それをいかに手懐けいなせるかが、読み手の理性の真髄である、と思う。

我々は、鰻屋に美味しいラーメンを出すことを期待するようなマネは、厳に慎まねばならない。

私としては、前掲引用のような素晴らしき誤読、愛すべき読解力の欠缺を披露された評者たち(無論、杉本穂高氏は除く)が、土用の丑の日鰻屋冷やし中華が出ないことに猛抗議するが如き愚挙に出たのには、きっとやむにやまれぬ理由があったのだろうと、確信しようと努めている次第である。

きっとかの誤読の名手たちは、揃いも揃って上映時期の酷暑にやられて熱中症に苛まれ意識朦朧たる中にもかかわらず使命にかけて知性を振り絞って、論評を呟き呟きものしたのであろうと願ってやまないし、そう願うことが私の持てるなけなしの寛容の精神の発露である。

 

下らぬ話はやめて本筋に戻ろう。

いじめ事件は西宮にとって大変な出来事であったことは間違い無いが、しかし西宮にとって「生きづらさ」を強める出来事ではあっても、彼女にとっての生きづらさの原点=エピソードゼロではなかったはずなのである。

私が劇場で鑑賞した際に特典としてもらった短編漫画には、西宮の厳しい母親の思いが描かれていた。母は、西宮硝子が聴覚障害を持ちながらも、「普通の子」として他の子ができることをなんでも当たり前にできる子になることを願った。故に聾学校にはいかせず、普通小学校に行かせた、云々。

サイドストーリーではあるが、こういった母親の厳しい教育方針、それに思うように答えられない自分、関わろうとしたクラスメイトとうまく友好関係を築けない自分、という思うに任せない状況が、彼女の生きづらさを醸成し、自殺願望へと追いやったのではないか。

 

視聴者は、あえて将也の目線からしか物語を見ることが許されない。それ故にこうした断片的な情報からしか、西宮硝子の内面を推し量れないように、この映画は設計されているのである。

西宮硝子の不可解さは、この映画に仕組まれた仕掛けであり、それこそがこの映画の最も伝えたいことなのではないか?

 

2−5 本:解釈、いよいよ大詰め

 

こういうことである。

この映画では、視聴者は主人公と視点を共有させられ、故にヒロインの突然の自殺未遂や彼女のうちに抱えた悲しみに、狼狽を禁じ得ない(西宮が自殺未遂後必死に謝罪をして泣き崩れるシーンがあるが、彼女は自分の声が十分には聞こえず発話が不自由なため、我々は十分には聞き取れないのである)。

しかし、周辺状況から洗い直すと、どうやら彼女はいじめの前後に関わりなく、ずっと生きづらさを抱えてきたことがわかる。そういった彼女の内面と、外界(を代表する将也)の視点を橋渡しするのが結弦(名前自体が、結びつける、という意味であることも重要であろう)なのである。

もし西宮にとっていじめが彼女のあり方を決めたエピソードゼロではないのならば、なぜ冒頭であそこまで苛烈ないじめが描かれなければならなかったのか、という反論が生じよう。

答えは簡単である。あのいじめ事件は、他ならぬ将也の、物語の唯一の視点にとっての、エピソードゼロだから、である。

あのいじめが、将也の転落へのきっかけとなった。あのいじめが、彼が加害者としての生きづらさを負うきっかけとなった。あのいじめが、彼を自殺へと向かわしめるきっかけとなった。

 

3−1 結:この映画の伝えたいこと

 

まとめに入ろう。

この作品は、将也の一人称告白体で描かれるが故に、西宮硝子の内面は謎に満ちている。彼女の不可解な真意は、自殺未遂という彼女の内面が表出する最後の最大の事件によって露見し、視聴者はここで初めて、彼女のことを何も理解していなかったことに気づかされる。

自分が見ていた世界が、実は他人からすれば全く違う色に見えている、ということを我々に突如として投げつけるのが、この映画の仕掛けである。

この映画は、障害者とのコミュニケーションや、いじめ事件に関する謝罪や和解の問題を主題として扱った作品ではない。相互理解の困難性、一人ずつがその主観しか持ち得ない人間の、他者の視点を把握することの困難性をこそ、描いている。

 

仮に同様のテーマを文芸作品ではなく論文として論じるならば、論文のタイトルはこうなろう。

「相互理解の困難性についての一考察〜社会的阻害要因を含めた音声的コミュニケーションの困難性がある事例を中心に〜」

これが、おそらく本作品における、意思疎通、聴覚障害といった、物語的舞台装置の位置づけではなかろうか。

 

3−2 結:この映画の持つ本質的な挑戦性、挑発性

 

そしてその伝え方が、極めてトリッキーなのである(「メタ的」と言っていいものか、判断に迷う)。

視聴者が主人公と主観(視覚)を共有させられ、ヒロイン西宮の内面がブラインドの状態に置かれる。悪辣な作り手(褒め言葉である)は、そのことを露ほども感じさせずに物語を進め、突然ヒロインが自殺未遂事件を起こしたところで、視聴者をして将也と共に恐慌をきたさしめるのである。

登場人物同士が理解し合えないすれ違いを神の視点で視聴者に見させるのが、通常のエンタメとしての作劇であろう。しかし本作品は、視聴者にも登場人物と同じ生の感情を、それこそ物語の中に入ったように、視聴者に味わわせるのである。

それこそがこの物語の本質であり、ある意味叙述トリック的である。

ナボコフの、「青白い炎」という作品を思い出す。

極めて難解な作品であり、私自身しっかりと理解できていないので詳述は避けるが、あの作品も表層的な物語の下に、実は読者が思い描いていたのとは全く異なった意味合いが隠されているのではないか、という考察の嵐を巻き起こした作品である。

ナボコフは、文学とは「作者と読者の遊戯的闘争の場」と言ったそうである。日本の中でも指折りの世界文学的知性を有する作家の一人である、佐藤亜紀氏の著作からの伝聞である。

本作品も、主人公将也の視点に視聴者を縛り付けた上で、「コミュニケーションの困難性とはまさにこういうことではないのか」と問いかけ、さらに「あなたはこの仕掛け(西宮の内面は、彼女にしかわからない)に気付けるか」と問う、挑戦状なのではないか?

挑戦を受けた我々は、彼ら作り手の意図を読み切れるのか、と試されているのである。

2時間オーバーの映画まるまる一本を以って、京都アニメーションは、山田尚子監督は、我々に問いかけるのである。

 

4 補遺:クレイジーなまでにハイレベルな、京アニというクリエーター集団

 

深読みしすぎだ、作り手を買いかぶりすぎだという向きは、京アニ、そしてそのエースであり日本のクリエイター界きっての天才である山田尚子監督の、創造的解釈能力を舐め過ぎである。

彼ら京アニは、過去の作品を見ても、表面的な技術のみならず、文芸全体の歴史的なコンテクストに相当造詣が深いことがわかる。

涼宮ハルヒの憂鬱」という作品がある。2006年に放映された際には、原作小説の時系列をシャッフル、エピソードの完全組替えをして放送したことが話題となった。私は、あれはアレホ・カルペンティエールなどにより20世紀中葉に形作られた、人呼んで「マジックリアリズム」のテレビアニメ的表現なのではないか、と理解している。

マジックリアリズムは、元々SFとの相性は良く、日本文学では筒井康隆の「ヨッパ谷への降下」、池澤夏樹の「マシアス・ギリの失脚」などによりその手法が導入、内実化されていった(マシアス・ギリはSFではないが)。

京アニは、そういったコンテクストを踏まえた上で、マジックリアリズムが持つ「時間軸の混濁」(これはカルペンティエールに代表され、ガルシア・マルケスの「族長の秋」などにも見られる、マジックリアリズムの十八番である)を、まさに日本のジュブナイルSFの総決算的作品である「涼宮ハルヒ」において、アニメのエピソード組み替えという、極めてテレビアニメ的再解釈を施して実践したのであろう。

京アニとは、こういったことを鼻歌まじりでやってのける連中である。

なお、こういった技芸は、涼宮ハルヒの監督である石原立也氏の、それこそ「ボルヘスの図書館もかくや」と言うべき無尽蔵の知の泉があってこそ可能になったであろうことは、付言しておかねばならない。

 

話は逸れたが、本作品は事ほど左様に、極めてトリッキーに、視聴者自身を主人公と同じコミュニケーションの罠に陥れる。「仮想化された実体験として」相互理解の困難性を味わせ、その後味の悪さを身をもって体験させることで、主題の伝達を成し遂げる作品なのである。

理解ができない、後味の悪い感じは、この作品が狙ったものであり、それを感じた時点で、我々は創作者の意図にハマり、彼らの掌に転がされることになるのである。

遊戯的闘争の「敵」として、極めて手強い存在であることがわかる。

エンタメ的カタルシスではなく、後味の悪さをこそ感じさせることまで狙った(こういう点で言えば、京アニには前例、というか前科がある。涼宮ハルヒの憂鬱エンドレスエイト」である。この話は、機会があればまた。)本作品は、エンタメの皮を被った挑戦的作品といえるであろう。

 

我々は彼らの遊戯的闘争の挑戦を受けて、勝利を収めることができたのだろうか?

彼ら京都アニメーションの、溌剌たる繊細美麗な超絶技巧の画で紡がれる挑戦を、その底意地の悪くしかし端倪すべからざる膂力に裏打ちされた挑発を、これからもずっと受けて立ち続けたいと切に願いながら、この考察のような駄文をやめることにしよう。