個別作品の文芸批評をやるにも、どうも比較的若い世代の小説は少ない。
ということで、比較的若い世代が表現者として前面に出てきやすい、アニメ・マンガ作品の乱暴な世代論である。
- 1.つくしあきひとの「メイドインアビス 烈日の黄金郷」におけるヒルコ
- 2.田中靖規の「サマータイムレンダ」におけるヒルコ
- 3.虚淵玄の作品群における「人であった者たち」の存在
- 4.共通項
- 5.ほかの方向性
- 6.補遺・留意点
1.つくしあきひとの「メイドインアビス 烈日の黄金郷」におけるヒルコ
今年の7月から10月にかけて放映された、大人気作のシーズン2。
丸っこいかわいらしいキャラクターデザインと、宮崎駿並みの細密な画力、壮大な世界観設定を持つ作品。
しかし、物語そのものはあまりに残酷でおぞましい。
ある島に開く大きな竪穴「アビス」には、深淵に到るほどに古代文明の遺物が残されているが、竪穴に深く潜れば潜るほど、戻るための上昇に強烈な負荷=アビスの呪いを受ける。
「第六層」といわれる深層に到ると、階段を数段上る程度で肉体が崩壊するという、還らずの深淵、という世界だ。
伝説の探窟家である母を探しに深淵への旅に導かれたヒロインのリコと、深淵から現れた特級遺物とされるロボットの少年レグの探検の物語だが、先述のように物語があまりに過酷で、同作シリーズの映画「深き魂の黎明」はR15指定を受けている。
「烈日の黄金郷」では、表の世界から異端者として放逐され、還らずの第六層に村を築いた人々が描かれた。
子が生めない体ゆえに放逐された少女、イルミューイをめぐる村の成り立ちの話である。
異端者たちの決死隊(ガンジャ)は、第六層にたどり着き定住を試みる。昇ることなく得られる水場が唯一であったため、その水源から水をくみ上げ生活を始める。ところが水源は汚染されており、流行り病が発生する。
ガンジャのリーダーで「預言者」の能力を持つワズキャンは、隊に加わった少女イルミューイに「欲望の揺籃」というアビスにある遺物を手渡す。
持つ者の深層心理にある欲望を体現させる遺物である。
これを得たイルミューイは、決死隊の面々が流行り病で倒れ行く中、突然子を産み始める。
しかしその姿は人ではなく、口も目も鼻もなく、食べることも息をすることさえもできない、1日で亡くなってしまう肉塊であった。
イルミューイ自身の肉体も崩壊していく。
預言者ワズキャンは、彼女の産んだ子を取り上げて、切り刻んでスープにして、流行り病に倒れた決死隊の人々に飲ませる。
すると、皆次々に回復していく・・・。
ワズキャンは、インスピレーションを得てこのすべてを見通し、イルミューイに呪いの遺物を抱かせたのだった。
一人の少女の人間性の崩壊と、その子が生んだヒルコの生命の尊厳の蹂躙という犠牲によって、他の者の命が救われる。
イルミューイは見る影もなく変質し、ガンジャの人々を体内に取り込んで出られなくして、さらにはその人々を化け物の姿に変えてしまう。
外に出られなくなった人々は、かつてイルミューイだったものの体内を村として、そこで生きていく。
イルミューイはその後もヒルコを生み続けたが、最後に生まれたのが、ファプタという不滅の命を持つ「荒ぶる神」だった。
ファプタは、母を蹂躙し兄弟を殺した村人への復讐、母であった村を破壊し母を解放することを自らの存在意義とした・・・。
この話の流れは、日本神話と同じである。
アマテラス、ツクヨミとスサノオは姉弟であるが、実は他にも兄弟がいる。ヒルコである。
ヒルコは生まれるも肉塊で、感覚器官がなく何もできなかったため、海に流された。
不遇なヒルコ(蛭子)は、オノゴロ島にたどり着く。ここからは仏教説話に接続され、極楽にたどり着き往生してエビス(蛭子、戎)となった、とされる。
イルミューイは多くのヒルコを生み、皆殺され食べられた。その最後に、運命に復讐する荒神(スサノオ)であるファプタが生まれた。
ファプタは母の体を基にした村を破壊し日の光を射し入れる烈日の神(アマテラス)でもあった。
ファプタは、物語上スサノオとアマテラスを合一した存在として描かれてもいる。
作者のつくしあきひとは、1979年生まれの鬼才である。
彼と同じ就職氷河期世代の作者の作品には、何もすることができない、することが許されない「ヒルコ」という存在がよく描かれるように思う。
2.田中靖規の「サマータイムレンダ」におけるヒルコ
こちらの作品では、そのもの「ヒルコ」という存在が登場する。
人の影を食らい、本人に成りすます異形の存在「ヒルコ」は、これまた自身は黒い影で、肉塊のような形をしている。
和歌山県のある島に江戸時代に流れ着き、以来ひそかに島民を食って成り代わり生きてきた。
物語は、主人公がタイムリープしてヒルコと島民のファーストコンタクトを阻止し、消滅させる(=成仏させる?)ことによって終わりを迎える。
島にたどり着いたヒルコが成仏して変化(へんげ)するところは、ヒルコ伝承の仏法説話の方に近い。
作者の田中靖規は1982年生まれのようで、つくしあきひとと同じく就職氷河期世代といえる。
3.虚淵玄の作品群における「人であった者たち」の存在
少し年が上の世代(1972年生まれ)になるが、彼の作品にはよく、かつて人であったがその存在をやめた/奪われた者が登場する。
「魔法少女まどか☆マギカ」の「魔女」は、魔法少女であった者の魂が汚染されて生じる、自然災害などとして描かれる。
「翆星のガルガンティア」でも、人の生きる場所が空の上と水の中に分かれて行き、遺伝子工学によって自らの姿を水棲生物に変えてしまった人間が描かれる。
4.共通項
以上のように、「かつて人であったもの」や「人になることができなかったもの」というモチーフは、よく描かれるものとはいえ、特に上記の就職氷河期やその前後の世代にはよくみられるように思う。
私自身は就職氷河期世代の少し後の世代とされるが、就職活動が過酷をきわめて、企業側のパワハラ要求が横行していた世代である。何より、就職氷河期の絶望的な先輩世代を目の当たりにしてきた*1。
就職氷河期世代のみならず我々バブル後の世代は、たまたま時勢が悪いというだけで社会から不要とされ、何者にもなることを許されずに年を重ねさせられる、新卒一括採用という日本社会のゆがみの犠牲者である。
こうした深層意識が、作品に現れている可能性は非常に大きいと思う。
5.ほかの方向性
他にも注目すべき方向性がある。
「真実の探求」である。
私と同じ年齢の天才・諌山創の「進撃の巨人」は自分の眼で真実を見ることを求める物語である。
つくしあきひとのメイドインアビスも、アビスの深層にある秘密を追い求めるリコの物語が根幹にある。
就職氷河期世代に当たる野田サトルの傑作「ゴールデンカムイ」は、戦争により人間性を欠落させられた男たちがアイヌの遺した金塊の真相、あるべき理想郷の姿を巡って相争う物語である。
特に、薩長の暴力革命の敗残者・土方歳三は、学生運動が崩壊した後も理想を追い求めた団塊世代を、主人公の杉本ら日露戦争帰還兵たちは就職氷河期世代を表しているようにも見える。
ヒルコとして自らの存在を否定され、奪われた人々は、奪い取っていった世界の本当の仕組みを自らの眼で見ることを欲する(メイドインアビス、ゴールデンカムイ)。そして、その世界そのものを破壊し、奪っていた者たちへの復讐を果たそうとする(進撃の巨人)。
こうした物語の運動の共通項が見られ、こうした作品がつくられ、また支持されることには、一定の時代背景があると推察される。
しかし残念なことに、こうしたメッセージ、私たちの「怒り」は、上の世代には届いてはいないのだろう。
だが、構わない。
バブル世代の能足りんどもはもうすぐ退場する。
6.補遺・留意点
以上の戯作的雑文は、世代論に合わせて物語を作るのが正しい、などという話ではなく、ある社会的背景の中でいかにしてどのような作品が生み出されてくるのか、という視点である。
この点、過去記事で批判した対象とは立ち位置が異なることは留意されたい。
社会背景から作品を読み解く技法は、芸術作品等の批評において存在する一手法とのことである。
*1:前の職場の先輩はまさに氷河期の直撃世代で、何とか私と同職の国家資格を得て職を手に付けた。