手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」と京都アニメーションの歩み

 

1.ヴァイオレット・エヴァーガーデンに関する過去記事

 

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2.内容の整理

今回は、ヴァイオレット・エヴァーガーデンのストーリー構成について多少の分析を試みる。

まずは、各話エピソードの概要から。

第1話・第2話:ギルベルトを失った戦争が終わり、クラウディアに伴われてCH郵便社に身を寄せる。手紙と出会い、ドールを目指す。「愛」の意味を探す旅が始まる。

第3話:ドールになるための学校に入る。級友ルクリア・モールバラの、兄への手紙を代筆する。ここで、兄と妹の「愛」というテーマが表出する。ヴァイオレットとギルベルトの疑似兄妹的な形の愛のアナロジーとして、「愛」のという語の意味の一つの「型」が描かれる。なお、ルクリア(ニオイザクラ、湿潤な高地の低木)の花言葉は優美、清純、しとやかさ。

第4話:郵便社の同僚アイリスの里帰りへの同行。田舎の大家族と、幼馴染との縁談と破談をめぐる話。家族愛と縁談をめぐる失恋の話を交える。これを通して「愛」という語の重さを知る。アイリスの花言葉は吉報、希望とのこと。

第5話:王室間の政略結婚のための儀式、公開恋文の代筆。年の離れた王女と、異国の王太子の間の縁談が、政略結婚でありながら心が通じるに至るまでを描く。ヴァイオレットとギルベルトの年の離れた疑似(?)恋愛的側面のアナロジーとしても描かれる。ヴァイオレットのギルベルトへの思いの中に、こうした側面がある可能性も付与される。

第6話:天文台の文献の解読と整理。天文学者であり帰ってくることのない両親を追い、自らも天文学の道に進むリオン。彼の傍らで古文書の解読と整理を手伝うヴァイオレット。失った者への追慕を持つ二人の話であり、リオンはヴァイオレットに対して淡い恋愛感情を抱く。ここで描かれるのは「想われる」立場に立つヴァイオレット(しかし本人はそれに気づいていない)。

第7話:劇作家オスカー・ウェブスターの新作脚本の執筆補助。妻と娘を病で失ったオスカーに寄り添いながら、娘の夢を劇の中で叶える冒険譚を書き上げる。オスカーはヴァイオレットに、生きていれば在ったかもしれない娘の姿を見る。ヴァイオレットは、自らが失われた誰かの幻として想われることで、自らの主観として誰かを失ったことの痛みではなく、自分が誰かを遺して先立つことのつらさ、想われる側としての自分の存在にも気づく。本話数の最後に、失う者の苦しみを知ったヴァイオレットは、自分がそうして誰かに想われていた人を殺めてきたことに気づく。自らの心が、ひどく火傷し傷ついていることに思い至る。

第8話・第9話:戦場で出会ったヴァイオレットとギルベルトの過去譚、エピソード・ゼロへの回帰。それまでの各話の兄弟愛、家族愛、恋愛といった形と、遺される側、想われる側のそれぞれの立場や内面を知り、「愛」という語の意味の内実が彼女の中に湛えられる。「罪人」である自分がその過去と折り合いをつけて、想いを届ける代筆業を続けていくことを決意する。「愛」の語の意味を充実させつつ、想いを届ける仕事の意味と役割をはっきりと自覚することで、自動手記人形として完成された姿に近づいていく。

第10話:クラーラからアンへの、未来の手紙の話。「愛」の語の「型」としては親子愛。第7話と対称となる形を有している。第7話が子に先立たれた親(未来を失った親)の話であったのに対して、第10話は親を失った子の話となる。母親のクラーラは、自らの死後も毎年アンの誕生日に、向こう50年間に亘って手紙が届くように、ヴァイオレットに代筆を依頼する。未来の子に寄り添い、時に導く想いの物語となっている。このエピソードは、人として「愛」の意味を充実させ、ドールとして思いを届けることに一つのプリンシプルを得た、いわば人格として完成の域に達しつつあるヴァイオレットの、最初の仕事でもある。また、この話数は完結編となる劇場版でも重要な俯瞰点となる。このエピソードがもたらした50年という時間と、そこに受け継がれた家族の愛の物語が、作品に一気に壮大な時間的奥行きを与え、繊細な本作品を大河物語へと押し上げるに至っている。アンとクラーラ親子の姓「マグノリア」の花言葉は壮大、持続性とのこと。

第11話・第12話:今も散発的に続く戦闘―戦争の残滓。辺境の競合地帯(コンテスト・エリア)に残された兵士エイダン・フィールドの恋人への手紙の執筆依頼。ここからの2話は、自らの心の中の「愛」の意味を充実させ、想いを届ける代筆業の意味を確信しつつある完成されたドール、ヴァイオレットが、内面的のみならず、外面的・行動的な意味でも戦争と「片をつける」ための物語。基本的には指示に従って仕事をしていたヴァイオレットは、第8話・第9話で自らの罪の意識に苛まれて勝手に飛び出す。しかしこのエピソードでは、自動手記人形としての使命感から、自らの意志で手紙を書くために、戦場に在る依頼者のもとへ飛び出していく。そこで果たせたのは、依頼者の最期の看取りと、その最後を遺された恋人に伝える役割であった。二人を引き裂いた戦闘の原因となった抵抗する部隊を、自らを憎悪するギルベルトの兄・ディートフリートとともに倒し、ともにギルベルトを失った遺された者として歩み寄る。

第13話:航空祭。届けられなかった手紙や失われた者への思いを、空に向かって届ける戦後に始まった祭り。ヴァイオレットは、様々な形、様々な立ち位置からの「愛」の 意味を知り、そのすべてを込めてギルベルトに届かぬ手紙を書く。

 

※第14話、劇場外伝は割愛。

 

劇場版:物語のメインストーリーはヴァイオレットとギルベルトの再開、ギルベルトの再生の物語。サブストリームとして余命宣告をされた少年ユリスと、親友リュカの最期の別れ。ここでは、電話の登場によって移り行く社会と、想いを伝える手段の在り様の変化も描く。その全体を俯瞰し、時代を超えた「不滅の愛の物語」=大河物語へと昇華させる視点として、アン・マグノリアの孫、デイジーによる「伝説のドール」ヴァイオレット・エヴァーガーデンの足跡をたどる旅路が描かれる。

 

3.ヴァイオレット・エヴァーガーデン

各話で、ヴァイオレットは様々な「愛」と出会い、それを向ける側、向けられる側、かなわない苦しさ、などを獲得していく。

ここからわかるのは、最終的にギルベルトに対するヴァイオレットの「愛」は、これらすべてを包含するもの、名前のないただ一つの「愛」と、物語上解釈することができる。

想いを伝える自らの使命はギルベルトに「愛」を伝えることで成就し、物語で明示される電話などの代替手段に後を託して、ヴァイオレットはドールを引退し、物語は幕を引く。

余談ではあるが、今まで「ヴァイオレット」が「菫」であることから見落としていたが、彼女の名は「むらさき」という色も意味している。どうやら彼女は、光源氏に幼き日に拾われてフェア・レディに育て上げられた「紫の上」の引き写しでもあるのかもしれない。

 

4.概観

全体として「喪失と再生」の物語だが、特に死別というテーマは反復され、そこでは手紙を通じて「死者との別れ」という関係性の構築が行われる。別離というものは関係性自体の喪失ではなく、別離という新たな関係性の構築であり、これは仏教においても別れという「結縁(けちえん)」と説明される。別離という結縁のテーマは、村上春樹の「ノルウェイの森」などを始め、その影響下にある新海誠作品など多くで描かれており、現代日本文芸の一大テーマともいえる。この別離という結縁となんとしても回避したいという強い願望、一縷の望みが生み出す派生種が、これもまた日本の文芸が得意とする「タイムリープもの」であろう。

本作は、完成の域に達したドール(自動手記人形)ヴァイオレットが、最後の「依頼者」となるギルベルトの救いとなり、絶海の島にある集落で共に生きていくまでを描く。

最後の最後は別離の物語ではなく再会の物語となった。

 

 

5.京都アニメーション・クロニクル

1)年代表

特にエポックメイキングな作品だけピックアップして、時系列で整理すると以下のようになる。

2003:「フルメタル・パニック

2005:「Air

2006:「涼宮ハルヒの憂鬱 第一期」「Kanon

2007:「らき☆すた」「CLANNAD

2009:「けいおん!」「涼宮ハルヒの憂鬱 第二期」

2010:「けいおん!!(第二期)」「涼宮ハルヒの消失」(劇場作品)

2011:「日常」映画けいおん!」(劇場作品)

2012:「氷菓」「中二病でも恋がしたい!

2013:「たまこまーけっと」「Free!」「境界の彼方

2014:「タマコラブストーリー」(劇場作品)

2015:「響け!ユーフォニアム

2016:「響け!ユーフォニアム2」「聲の形」(劇場作品)

2017:「小林さんちのメイドラゴン

2018:「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」「リズと青い鳥」(劇場作品)

2019:「響け!ユーフォニアム 誓いのフィナーレ」(劇場作品)「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝 永遠と自動手記人形」(劇場作品)

2020:「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」(劇場作品)

 

2)概観

京都アニメーションは、思えば「別離という結縁」を制作のテーマとして常に掲げてきたスタジオであった。

同じく京アニが原作小説を募集したプロジェクトからの作品である「中二病でも恋がしたい!」は、一見ラブコメディでありながら、通貫するテーマとしてヒロイン・六花の死別した父との結縁があり、「別離という結縁」の物語でもあった。

同様に原作小説プロジェクト第二弾としてアニメ化された「境界の彼方」も然りである。

漫画家の山田玲司は、アニメ・マンガ作品を「覚醒コンテンツ」と「麻酔コンテンツ」に分類する。戦うために奮い立たせる「進撃の巨人」や「チェンソーマン」などは前者、厳しい社会に倦みつかれた者の癒しとなるものとして後者があると指摘する。


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彼自身こういった時評を「芸風」として認識しており、批評ではなくお遊びとして言っていることに自覚的である。

こうした切り口を補助線にするならば、ゼロ年代以降の京都アニメーションの歩みは、いわゆる「麻酔系」に近いと言えよう。

しかし、京都アニメーションの作品群を見ていると、単純に麻酔系ともいえない。

京アニ作品の中の「麻酔系」の作品は、「人間性の再生」という大きな流れの中での、一局面でしかなかったように思われる。

山田玲司が好きな言い方に倣って分析するならば、まず大前提として、バブル崩壊後の低成長と過当競争化により、人々の精神の疲弊と荒廃という状況があるものと仮定しよう。

a)第一相:「無菌室」

具体的には、2006年からの「涼宮ハルヒ」というプロジェクトと、「らき☆すた」「けいおん!」各シリーズは、確かに無菌室のような「癒しの空間」を提供し、就職氷河期と自己責任論が蔓延する殺伐とした世相に倦んだ、あるいは疲れ果てた視聴者の心のよりどころとなった側面はある。

しかし、その後京都アニメーション作品は、徐々に「無菌室」から自覚的に脱し始める。

b)第二相:「現実への回帰の志向」

この局面転換が明確に意識されたのは、直木賞作家・米澤穂信の小説をアニメ化した「氷菓」であった。この作品は、自らの夢や目標と才能の有無、才能のない自分と才能のある友人、夢を目指す動機づけの有無、それらから生じる嫉妬や挫折といった思うに任せない感情たちを、非常に繊細にかつソフトに描いた。

新海誠の影響を受けたと思われる、2Dアニメへの光の表現の本格的導入(フェルメール的な光の「粒子」的表現や、柔らかな陰影)など、テレビアニメシリーズとして異次元の高品質をもって、技術面でも画期となった作品の一つといえる。

ネット上の雰囲気から得た主観的印象でしかないが、従前「ハルヒ」「らき☆すた」「けいおん」で京アニ信者となった人々の一部は、こうした現実のやるせなさをも繊細に描くようになった京アニに落胆したようで、離れるかアンチになるかしていったようである。

京アニ作品の来し方を俯瞰すると、これは京アニが中長期的に「人間性の再生」という表現運動を見据えたうえでの、最初の局面転換であったように思う。

すなわち、無菌室としての優しい世界から、そこで培われた表現技術をもって、ネガティブな感情もポジティブな感情も、激しい表現に走らずに繊細に、かつソフトに描いていく段階に進んだといえる。「いま胸にある感情は何か」を丁寧に確認する作業をすることで、「いま自分は傷ついているのか」「何が愛おしいのか」を大切に感じ取る「リハビリ」段階に入ったといえる。

氷菓の後に続く「中二病でも恋がしたい!」や「境界の彼方」などの「京アニ小説大賞」の優秀作のアニメ化作品も、こうした要素を持っているとみることができる。

c)第三相:「再び立ち上がる人たち」

現実の様々な感情を取り戻すことで精神性を取り戻しつつ、次に向かったのは立ち上がる身体性の再獲得である。

境界の彼方」という、京アニとしては珍しい妖怪とのバトルものとオーバーラップして登場したのは、これまた初の試みといえる高校競泳部のスポーツもの「Free!」である。

立て続いて、吹奏楽部が全国コンクールを目指す「響け!ユーフォニアム」が制作される。

いずれもポイントは、きちんと「全国を目指す」というスポ根の王道を物語的な目標に据えてはいるものの、「大事なのは結果ではなく、過程である」という部分である。

「全国を目指す」だけのスポ根であれば、それはただの優勝劣敗の物語でしかない。そうした人間性を殺しかねない世界に背を向けた人々の再生を志向することが京アニの持ってきたテーマであろう。だとすれば、描かれるべきはその目標に向かって再び動き出した人々の、そのプロセスを積んでいく一つひとつのステップのかけがえのなさである。

響け!ユーフォニアム」などは、想いが音色になり、音色は人を勇気づけ、その人の心に灯をともす物語、といえる。そう、コンクールに勝つことが大事なのではないのである。

現実の世界が競争を求めること自体に違いはないが、その中にあっても、自分の心にしっかりと感情が生きていることを確かめ、大事なものを一つ一つ拾っていくことで、「生の実感」を大切にしながら生きていく。もはや私たちにはそれができる、と歌い上げていく。

再び余談だが、先日の2022サッカーワールドカップのドイツ戦後のインタビューで、2点目を入れた浅野拓磨は、ゴールを決められたことについて、「4年間このためにやって来た。たまたま決められたが、それは偶然。もし決められなかったとしても、今までやってきたことは変わらない」という趣旨の発言をしていた。挫折も成功も、全て努力で乗り越えてきた人だからこそ言える発言である。「結果がすべて」などと安易なことをいうのではなく、そのプロセスがあったからこそ今があるし、もし結果が運悪く出なかったとしても、過去の自分の歩みは間違いではなかった、と。非常に成熟した世界観だったと思う。

d)第四相:「聲の形」という快作にして怪作

 

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以前この作品については解説した。

現代芸術のような実験性をも兼ね備えた作品として、自分の感じる感覚、見ている現実の正しさを根底から揺さぶって見せた。

e)第五相:そして、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」へ

以上の京アニ作品群を「人間性の再生・回復」の一大プロジェクトとして見た時、その掉尾を飾る作品が、現時点では「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」である。

ヒロイン・ヴァイオレットの歩みは、京アニが示してきた「人間性の回復」の歩みと二重写しになることがわかるだろう。

 

6.今後はどうなるのか?「リコリス・リコイル」と「ぼっち・ざ・ろっく!」からみえるもの

人間性の再生のプロジェクトとして、京都アニメーションを「一個の表現活動」ととらえてみてきた。

進撃の巨人」の登場以来、表現の潮流として「世界の本当の姿を自分の目で確かめる、そのために戦う」という物語が多くなってきた。他方で麻酔系の極致といえる「異世界転生モノ」など、二極化が見られる。こうした流れをにらみつつ、世界の欺瞞性や自らを磨り潰そうとする世界など歯牙にもかけず、銃撃時の遊底のようにしなやかにいなし、自らの生きる道を歩み続けようとする「リコリス・リコイル」などは、新しい潮流の萌芽ともいえる。

現在筆者が注目しているのは、京アニ作品ではなく「リコリス・リコイル」と同じスタジオ(A-1 Pictures/Clover Works)が担当する「ぼっち・ざ・ろっく!」である。

bocchi.rocks

京アニの「けいおん!」と同じマンガ雑誌「きらら」掲載の原作をアニメ化したものである。「きらら」は麻酔系コンテンツの総本山ともいうべきものであるが、「ぼっち・ざ・ろっく!」は様相を異にする。

優しい世界にとどまり緩やかに再生する主人公ではない。

引っ込み思案で友達が一人もいないがギターの超絶技巧を持つ主人公「後藤一人」が、行きがかり上バンドの助っ人ギタリストをやったことからバンドに参加するようになる話だが、まったく世界は優しくないのである。少なくとも引っ込み思案のヒロイン「ひとり」にとっては。

やれライブハウスで演奏するために怖そうな店長の前でオーディションをやらされたり、やれライブ出場のためにチケットノルマを課せられたり、アル中のベーシストに絡まれたり・・・

しかし、怖くて仕方がなかった世界の陽の当たる場所に、恐る恐る手を引かれて入っていくと、「世界は思っているほど怖くない、ちゃんと関われるようになる」と知り、徐々に成長していく物語である。

コミカルな話であるにもかかわらず、不覚にも目頭が熱くなる。

こうした局面転換を志向する作品群が次々登場する中で、人間性の再生を志向してきた京アニは、次にどのような局面展開を見せるのだろうか。