手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

リコリス・リコイルを斬る批評を斬る

しつこく、リコリコの話を続けます。

語尾、変えてみました。

試しに書いてみると、毒舌もマイルドになって上品になるのでいいですね。

これからは日常生活でも、はんなりボロクソ言うように心がけたいと思います。

11月になりますが、これを今年の目標にします。

今回は、リコリコという作品そのものもさることながら、この作品に対する論評を行っている「識者」の言説などから、作品批評というものの在り方を考えてみたいと思います。

 

1.過去記事

結構しつこく何回も採り上げていますな。

過去、ここまで反復して採り上げ、注目した作品は、少なくともブログ開始後ありません。

 

maitreyakaruna.hatenablog.com

 

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2.今回俎上に乗るものは

今回採り上げるのは、リコリコ放映終了後にこの作品について語った批評家座談会です。

youtu.be

途中から有料動画となるため、無料の部分のみを言及対象とします。

突っ込んで言えば、有料部分を見る必要性をあまり感じなかった、というところです。

メンバーは、ニッポン放送のアナウンサーでアニメ作品に造詣が深い吉田アナ、早稲田大学准教授石岡氏、ドラマ評論家成馬氏、批評家の宇野氏。アニメ・マンガなどのカルチャーに関する言論空間ではおなじみの人たちでしょう。

動画の冒頭から、近年はSNS等の影響もあって、第三者による作品の批評等の言論空間が細っているということが述べられています。特に、SNSやネットラジオなどで監督などの制作者の直接の発言に触れる機会が増えたことで、制作者の意見が「絶対的な真理」として受け止められ、それ以上の批評の空間が生まれなくなっているとの指摘がされます。

宇野氏はこうした風潮に対して、第三者の意見こそ傾聴すべきで、なぜならば制作者は自らの主観で語り、彼らに「自らの後頭部は見えない」からだ、という趣旨の発言をしています。

制作者の発言を絶対視すべきではない点については、後述する別記事での谷口悟朗監督の発言とも共通するし、正鵠を射ているのであろうと思われます。

1)批評ぶりは?

では、こうして大見得を切っている彼ら四者の批評ぶりは、どうでしょうか?

話としては面白いし、的を射ている部分もあるが、しかし根本的に「作品批評ではないのではないか」というのが、私が得た印象です。それゆえに、有料部分を視聴する必要性を感じなかったといえます。

どういうことか。

ア)作品というより世の中論

彼らは四人とも、現代社会、というよりまさに現在という極めて短い時間的スコープの範囲での「現状」と作品のリンケージについてばかり語ろうとしています。

成馬氏が口火を切ったのが、「安倍暗殺事件」です。いわゆる自分がどうなろうとかまわない「窮鼠猫を噛む」式のテロリスト、「無敵の人」の存在とかけて解こうとしています。成馬氏などは、自身の切り口を社会的な観点からの作品の位置づけをする批評、いわば「そういう芸風」として自己定義しています。

宇野氏は、真島を「陰謀論者」としてトランピズムの信奉者などになぞらえて言及します。そうした指摘をしたうえで、千束をよい側の無敵の人、「ホワイト・ジョーカー」と評して、それに対する真島の思想性が弱い、現代社会の在り方に対する制作者のアンサーとして練磨が足りない、という趣旨の指摘をしています。

確かに面白い指摘ではありますが、これ、「作品批評」といえるのか?という疑問が湧きます。もっと言えば、じゃぁこの人たちの言った通りにして、果たして作品はより面白くなるのか?と*1

彼らは、作品を通して今の社会がどう見えるのか、制作者がどの程度それを作品に込められたのか、というところを語りたいのでしょう。しかしこれは作品批評ではなく、ただの「世の中時評」で、それに「リコリコという作品をかけて○○と解きます」という大喜利に過ぎません。

確かに「大喜利」としてはそこそこ面白い指摘もしているし、そうした点での芸は素人よりは上といえます。しかし、えてして「作品を酒のアテにして世の中を切る」方式の「批評」なるものは、一番ラクして面白おかしく語るお手軽手法なのではないでしょうか。それは話を聞いていればそれなりに面白いし、自分て真似ごとをやってみれば大したリソースがなくても簡単にできることから、すぐにわかるでしょう。

こうしたお手軽時評をしながら、「本作は安済知佳松岡禎丞の素晴らしい芝居で乗り切っているが、彼らがいなければガバガバな作品でもっと不出来だっただろう」という趣旨の、尤もらしい批評をしている風な発言まで飛び出しています。具体的に何を根拠に言っているのかわかりませんが、流石にこういったことを安易に言うと、自身の批評の出来が俎上に載せられたときに、刺し返されることは覚悟はしておかねばならないでしょう。批判には相応の根拠が必要です。特にそれで飯を食うのであれば。

こうした彼らの姿勢が制作者や作品に対して失礼だというつもりはないですが、少なくとも「作品」の「批評」というにはあまりにもお手軽な、勤勉さに欠ける姿勢であることは肯んじざるを得ないでしょう。

イ)このブログの芸風

このブログでも、時評的な切方をしてみたことはあります。

 

maitreyakaruna.hatenablog.com

タイトルそのものからしてその通りで、私自身はこれを、このブログ全体を、作品批評としてではなくただの安い雑談として位置付けています。収益化もしていないし。

ここで興味深いのは、宇野氏が真島を「陰謀論者の代表格」として、DAが何かを隠しているんじゃないかと疑って何かを暴こうとする人、と受け取っていますが、私はほぼ正反対の見方だという点です。

上記私の記事でも言及した通り、DAが真実を隠蔽しているのは作品上は事実で、「事件は事故になり、悲劇は美談になる」と、作中で千束がどこか物悲しく語ることからも、それ自体が問題であるというスタンスが暗示がされます。

真島は、こうした隠蔽された事実を明るみに出す立場なわけですから、「ありもしない陰謀論を吹聴するトランピスト」に擬するのは筋目が悪いように思われます。

むしろ、こうした「世の中時評」的には、私は「DA」と「真島」の在り様を、「安倍・菅政権の隠蔽体質で慣らされてしまい、かつフラストレーションもため込んだ状況に対する物語的カタルシス」というものと見ました。

まぁ見方は多面的でいいとは思いますが。

 

ウ)作品に対する「批判」?

石岡氏は終盤での真島によるタワー占拠事件に向けての展開を、「真島連打」として批判とプラス評価の双方混ざった言及をします。特に、よく他のYouTube動画上でも言われている通り展開が「ガバガバ」だと。ただそのガバガバさがかえっていい働きをしている場合もある、と。

「ガバガバ」「安直」「練磨が足りない」といいうのはよく聞く言葉ではありますが、では具体的にどこがどう「ガバガバ」なのか、彼らはあまり具体的に指摘せず、ふわっとした雰囲気で語って終わっています。批評の方が「ガバガバ」です。

私自身は、ストーリーの厳密な辻褄が合うか否かということは、必ずしも重要ではないと考えます。創作物には、エンタメから芸術性志向型のもの、書籍などの鑑賞に時間のかかるものから映像作品まで、さまざまあるわけです。それぞれに「リーダビリティの戦略」は違っていいし、違うべきだと思います*2

特にエンタメ作品や映像では、テンポやスピード感が求められます。ラジオですら、3秒黙れば放送事故なわけですから。そのためにストーリーの辻褄を犠牲にしたり、辻褄合わせを裏設定に回してでも、表に現れている物語自体がカタルシスをきちんと生む、つまり辻褄の合わない気持ち悪さを快楽が十分に上回る状態であれば、それでストラテジーとしては成功だと考えます。

例えば、上記YouTubeではないですが、リコリコ第2話のクルミが登場する回で、着ぐるみを着たクライアントが依頼者だと思っていたら、実はその人が持っていたスーツケースの中にクライアントのクルミが隠れていた、というオチについて、「逃走時のリスクになるし、合理的に考えて必要のない展開だった」という、さるゲーム業界の人間と思しき人の指摘がありました。

こういうことを言っていたら、おそらく面白い作品など何も作れなくなるでしょう。人間は、現実ですら常に合理的に振る舞うわけでは全くないわけです。どれほど大規模な戦争でも指揮官の過ちで多くの将兵が死ぬことだって当たり前に起こってきたことを見れば、合理性が徹底されていなことがむしろ世の当たり前とわかろうものです。

「完全に合理的でスキのないストーリーでない限りガバガバだ」というのは、もはやこれも批評ではなく、パラノイア的な合理性と予測可能性の信奉者の弁としか言いようがありません。現実を生きるのすら息苦しいのではないでしょうか。

創作物、分けても「物語」は根本的に「ウソ」なわけで、その嘘をなぜつくかといえば、その嘘でもって「美しさ」を感じたり、「楽しさ」を感じたりしたいからなわけです。

極めて西洋的なセンスの思考方法になりはしますが、こうした最終目標を達するための戦略・戦術が物語として展開され、かつその目標たるカタルシスを受け手が十分に享受できるのであれば、それをもって作品というプログラムは成功した、と私は考えます。なお、受け手としてカタルシスを享受できるかどうかは受け手によって異なるので、「ガバガバ潔癖勢」の人などは作品許容の閾値が極めて高い(許容度が低い)ということになります。

こうした閾値の異なる不特定多数の受け手の中で、どのパーセンテージのまで閾値を超えてカタルシスの供給を達成できるのかという、定量化できそうでかつそれが非常に難しい部分を追い求めるのが、制作者=監督らでありマーケティング担当者=プロデューサーなわけでしょう。

話を戻しますと、「ガバガバ」であること自体をもって批判するというのは、文芸作品等の創作物の批評の在り方としては視野狭窄(否定はしない。ただ「狭い」だけ)であって、より広い「カタルシスの運動の装置」というパースペクティヴから作品を俯瞰し、その運動装置の中でいかに機能しているのか、カタルシスを達成し得ているのかを客観的に評価するほうが、より公平で賢明なやり方だと思います。もっと言えば、いったい何が「ガバガバ」なのかさえ語らないというのは、もはや怠慢としか言えないでしょう。

 

3.批評という企み

1)藤津亮太谷口悟朗の対談

ここで、アニメ批評の第一人者である藤津亮太氏と、コードギアスや直近の「ONE PIECE FILM RED」を監督した谷口悟朗氏の対談から見えてくる、作り手と批評家、制作と批評という営為を見てみましょう。

animageplus.jp

作り手の言説をそのまま信じ込むことの無意味さは、制作者である谷口氏自身が強く主張しています。他方、批判を展開することが制作者によいフィードバックをもたらさないことは、批評家の藤津氏から指摘されます。

対談で言及されるチェーホフトルストイの挿話などからしても、両者が作劇論や文芸理論、批評理論など文芸に関する該博な知見を有したうえで語っていることが推察されます。そのうえで、多くのリソース(先行作品や制作者の発言なども含めて)を渉猟したうえで、演出意図などを分析していく藤津氏の姿勢が示されています。

こうした、作品を無闇に世相論に引き寄せたり、あるいは作品から作者の政治的社会的な信条を読み解こうとしたりするのではなく、ただただ作品と向き合って、その意図することろを読み解き、それをいかに達成するかのプロセスを分析することに重きを置くことが、まず文芸批評の最も原則的な姿でしょう。

2)佐藤亜紀のストラテジー

 

圧倒的な筆力をもち、同時にフランス文学の専門家でもある小説家・佐藤亜紀氏による文芸批評の基礎=作品の読み方・書き方論を記した名著「小説のストラテジー」という作品があります。

彼女は本著作の最終章タイトルを「作品がすべて、人間は無」と銘打って、作品を締めくくっています。この章では、ウラディーミル・ナボコフの個人的な政治信条を作品から読み解く行為をナボコフ批評として展開しようとした批評家エドマンド・ウィルソンの姿勢を批判的に検討し、西洋の文芸が辿ってきた古代ギリシャプラトンから20世紀後半までの歩みを総括します。

こうして、作品の背後に作者の顔があったとしても、まずは作品と向き合い、客観的に論じるという姿勢が大原則として求められるのが、現代においても基本的な「批評」のルールといえるでしょう。

ただし、こうした批評のルールが「唯一絶対の真理」なのではなく、西洋文学理論の中で形成されてきた一種の「ゲームのルール」であるという留保は付さねばなりません。

ですから、上記のYouTube動画のような与太話も「間違い」なわけではありません。ただ、西洋正統の文芸批評と与太話的作品論では、その言論を裏打ちする基層の分厚さに歴然とした差があるといえます。それは渉猟したリソースの量、批評の技法として長年かけて確立されてきたその技法の充実度といった、言説の展開者の積んできた研鑽の量の差として、容易に眼前に展開するのです。

3)藤津氏の批評

ではここで、藤津氏が直近で展開した批評を見てみましょう。

残念ながら、彼のリコリス・リコイル評は(まだ?)ありませんので、2010年代最大のヒット作「君の名は。」に寄せた最新の批評を見ることにします。

bunshun.jp

中でも、新海誠作品の根本テーゼを「関係性が定まる前に失った相手」を「再度失うために会いに行く」物語として総括した2ページ目は圧巻です。

新海が「君の名は。」を世に出す二つ前に「星を追う子ども」という作品があります。この作品は酷評されました。アニメ批評の腕が確かな朝日新聞文芸部の小原篤氏ですら酷評していたのを覚えています。つまり、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」の新海版焼き直しだ、と。

しかし、こうした表層的なストーリーから見えてくる作品としての出来不出来の批評にとどまることなく、藤津氏はこの作品を以下のように評します。

「『星を追う子ども』(2011)は、それまで叙情詩として描いてきた喪失感を、叙事ーストーリーテリングに置き換えて語ろうと試みた作品で、その点で『君の名は。』につながる直接的な転機といえる。」

作品の良し悪しは措いて、フィルモグラフィーの中でどう位置付け解釈できるか。これこそが、批評の真骨頂ではないでしょうか?

こうした位置づけ作業は確かに、制作者ではなく第三者にしかできないことかもしれず、前述の宇野氏の言う「本人に見えない後頭部を見る」作業といえます。別な言い方をすれば、ただ後頭部を見るにしても、ここまでやって初めて値打ちがある、とも言えます。

4)批評的精神

批評とは、ただ闇雲に批判すればいいというものではなく、かつ客観的に評ずべきものです。評者の「好き嫌い」ではなく、技術や構成などの「出来・不出来」を語るべきものです。

日本には、こうした正統な批評というものが根付いていないように思います。文芸理論や作劇論、その歴史というものを学ぶ機会が著しく損なわれているからでしょう。他国がどういう教育かは知りませんが、少なくとも「設問1.下線部aで○○が××な表情をした理由は何か、20字以内で答えなさい。」式の教育では、こうした批評精神は生まれないでしょう*3

このように多くの自称批評家たちは、批評という行為がマトモに出来ないから、お手軽な世相論などで作品を斬った気になってしまうのです。

ところで、藤津氏は作品をあまり批判しない、代わりに関心のある作品以外批評しない、というスタンスと思われます。しかし、批評において作品を批判すること自体が望ましくないとは思いません。批判の仕方の一つのお手本が、「文学賞メッタ斬り」です。

 

 

最近は活動の場をYouTubeに移し、大森望豊崎由美之黄金コンビは相変わらず芥川賞などを斬っています。

www.youtube.com

大森氏はどちらかというと藤津氏に近いスタンスに見えます。

斬るのはもっぱら豊崎社長の担当なわけですが、彼女の斬り方がフェアなのは、きちんと作品を読み込んで、作品の文芸としての出来不出来を斬っているからです。

一方、彼女は嫌いなジャンルである「時代小説」については、自分が「読めない」と自覚して意識的に遠ざけているため、批判も高評価も口にしません。好き嫌いでなく、客観的に評価しようという真摯な姿勢を感じます。

批判するにしても絶賛するにしても、まずは好き嫌い、という主観をできるだけ切り離して、かつ安易な世相論や政治論争に堕することなく、作品を中心に据えて評価できる。これが批評の基本的姿勢であり、これ自体が技芸でもあります。

日本では、残念ながら現代的な批評というゲームが西洋の由来であることもあってか、多くの者がこの本質を理解していないのが現状でしょう。

しかし、こうした客観的で理性的な評価は、文芸批評を超えて対人評価の技法そのものであり、またさらには対話により新しい物事を発見していく技術ですらあります。批評・対話の確かな技法があって、より洗練された議論ができるでしょう。

外国は知りませんが、少なくとも日において批評的精神という側面で貧弱に映るのは、文芸批評にとどまらない、他の多くの社会事象・社会インフラの脆弱性の原因ともつながっている可能性があります。

4.今後のリコリコ批評

今回はリコリコの話ではなく、リコリコを起点にした批評理論の比較検討になりました。

最後に、リコリコという作品について言及しておきます。

lycoris-recoil.com

 

1)この作品には「核」がない

YouTubeの四者の話を見ていても面白いなと感じるのですが、彼ら自身この作品を捉えきれていないと思われます。まぁ、世相論のアテにするために一編通り観ただけでしょうから、捉えるのは無理でしょう。ナボコフが、「2回以上読む」読者こそ善き読者だと言ったわけです。

この作品は、当初から私が感じている印象としても、非常に「捉えどころがない」といえます。

例えば、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」などの京アニ作品は、テーマ性や表現技法の使い方などで、非常にコアテーマ、モチーフがわかりやすい作品が多いですが、この作品からはそれがなかなかわかりません。

虚心坦懐に見るとわかってくるのは、この作品には「核」といえるテーマがない、ないながらも成立している、という、当たり前ながらあり得ないような結論でした。

2)3本のライン

この作品には、三つのラインがあります。

一つは、過去の英雄である千束の「最後の仕事の物語」

二つ目は、たきなの成長の物語

最後に、真島の「ピカレスクヒーローの物語」

たきなの肩越しの視点をメインにして、残り僅かなかけがえのない日常を生きようとする千束と、彼女に手を引かれて新しい世界を知るたきなの物語が、日常のかけがえのなさ、尊さとして描かれます。

それを突き崩す「狂気の善意」としての吉松、欺瞞のかたまりであるDA。そしてその世界をすべて突き崩そうとするピカレスクヒーローとしての真島。

それぞれの持つテーマとそれに牽引されたストーリーラインの結節点で、新たな展開が生まれ視聴者を引き付けます。

コア・アイデア→世界観・登場人物→ストーリーというわかりやすいピラミッド構造ではありません。複数のストーリーがごった煮の中で互いに関与しあい一つの物語を紡ぐ形式です。

極めて相関関係的な、仏教用語でいう「相依性(そうえしょう)」を思わせるような、西洋的なピラミッド型の思考方法とは全く異なる、非常に東洋的でチューニングの困難なストーリー構造となっていることがわかります。

3)リコリコの今後

以上のように特殊なストーリー生成過程を経ていると思われるリコリコですが、注目すべきはその三つのストーリーラインの中身です。

特に、最も重要なラインでもある「ラストヒーローの最後の仕事」という千束のフェーズは、彼女が新しい心臓を得て、今後の話の継続が難しくなりそうです。

千束は、自らの命があと僅かだからと懸命に生きていたわけで、その行動原理のタガが外れた時に、どこまで強度のある物語を展開できるのかがポイントとなります。

単純に考えて、「千束が長い人生を得た事実に戸惑いつつ、普通の人として生きる意味を見つける」などの方法も考えられますが、これでは単なる「自分探し物語」に終わる可能性もあります。

そこでカギになるのが、「ミカは新しい心臓をいかにして吉松から奪取したのか?」です。誰かの命を奪って得た命であった場合、千束はそれを受け入れられないでしょう。いわゆる「トロッコ問題」のような究極の選択を迫られる場面まで展開できるのであれば、千束側にもまだ物語を展開する余地があるといえます。

こうした重いテーマも、「天ぷらうな重カレーハンバーグ乗せ」のような全部乗せ特盛満漢全席の様相の中でいかに軽やかに料理できるかが、今後の見どころとなってくると思われます。

*1:宇野氏や石岡氏の、真島の位置や内容が弱いという指摘については、すかさず視聴者メッセージで、真島の存在を重くし過ぎると、ライトな内容にしか耐えられない視聴者が逃げることまで慮ったのでは、との指摘がされました。まさにその通りで、そうしたマーケティング戦略上の判断が働いた可能性は大いにあるでしょう。

*2:以前エイティシックスの記事でも述べた通り、小説作品を映像化する際には、その媒体の転換=翻案のために必要なストーリーテリングの技法の換装が必要なことがあります。

 

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*3:

最悪なのは、自称文学者で大学でそれなりの職を得ている人間ですら、批評の本質を遂行できず、唾棄すべき世相論でネガティブな議論をまき散らしていることです。

小谷野敦という自称文学者か某かが、この最悪の例です。

彼のカスタマーレビューはしばしばアマゾンで目に入ることがありましたが、どれも本職の文学者かと疑うほどです。

こともあろうにそんなものを本にして出しているのですから、悪趣味もとどまるところを知りません。