手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

上富良野/日の出公園の夕景

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日の出公園展望台近くから

HDR撮影二回目である。

日を改めて、今度は上富良野町日の出公園からの撮影である。

今回もかなり歩留まりが悪く、写真選びに苦労した。

前回と異なり、SSのみをいじって複数露光したものと、ISOをLv 0.3 - 800の間で変化させたものの2パターンを作ったが、後者はすべてボツになった。理由は、極めて初歩的なピントの問題である。

撮影中はAFで、カメラもきちんと狙った場所に合焦したと認識していたらしく、何枚もシャッターを押した。しかし持ち帰ってみてみると、特に暗くなってきた時間帯から、盛大なピンボケ写真が量産されていた。

どうやら、暗すぎたせいでカメラ自身が合焦距離を誤認識していたようだ。一枚ごとにピント位置がばらばらで、合成するとゴーストとエラーだらけになった。

暗くなってからの夜景撮影や星景撮影の基本である、マニュアルフォーカスを徹底しなければいけなかった。Zシステムの暗所での合焦能力も、過信すると駄目なようだ。

比較的明るい時間帯に撮った写真は、ピントも正解を出しているため、何とか合成できた。それが上の一枚である。

 

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日の出公園から見る上富良野町

さっきの撮影ポイントから数十メートル移動したところである。

富良野市の北の峰から連なる山々に抱かれて、紫雲たなびく街が優しく灯りをともす。

夜景の美しさは、灯りの量ではない。

いくら都会でも、ハッキリ言って札幌の夜景など撮影しても何の面白みもない。

日本の3大夜景に札幌などが選ばれたことがあるらしいが、どうも展望台の数やそこへのアクセスの良さ、もともとの観光地として規模の大きさなどでスコアリングした結果らしい。

観光振興のためにやっていることなので、まぁそれはそれで勝手にやればよろしい。しかし、ランドスケープの写真を撮る中で強く感じるのは、地形が作り出す画面上の図形と、光が作り出す色合いこそが大事、ということである。

その点で、札幌や京都を展望台から見た風景は、ただただズンベラボウの土地に町が広がっているだけの、何の起伏も変化もない面白みのないものでしかないように思うのだが。

強いていうならば、京都は望遠レンズで撮影すれば、平安神宮の鳥居、八坂の塔、東寺の塔、南禅寺の山門、神護寺の大階段、京都駅ビルなど、ランドマークをミニチュアのように強調することができる面白さがある(京都タワーは断じて認めない。あれはさっさとゴジラに破壊させるべきである)。札幌は、テレビ塔以外そういったものも特にない(北洋銀行のビルや駅ビル、大同ビルなど撮っても、どうということにはならないだろう)。

札幌ディスりになってしまったが(汗)、言いたいのは、北海道には夜景一つ撮るにしても、札幌よりもっと魅力的な所はいくらでもあるということである。

関西人として北海道民を見ていると、非札幌民が異常に札幌に対してコンプレックス(憧憬と嫉妬)を抱いているように見えるが、まるで分らない。文化的な薫りの強さという点では、富良野や函館のほうがはるかに薫り高く、魅力的であることは、今後私は断言してはばかるまい。

私には札幌は、ただの大きい住宅地にしか見えない。そこに文化の薫りを、未だに感じることがない。感じた印象としては、本州の大都市では、名古屋(日本最大の田舎と揶揄されたりもする。愛知県出身の私が言うのだから、非難は免じられたい。)が少し近いかもしれない。

札幌には、確かに映画館もでかい本屋もある。しかし、北海道地方の中心都市として200万の人口を擁するにしては、貧弱にすぎる。それにそもそも、便利であることと文化的な面白さは別である。ある札幌在住の知人が言っていたのは、札幌は博物館・美術館が弱く、それに伴い画廊なども少ない。演劇関係も、都市の規模に比して開催が少ないという。公設美術館の少なさ、特別展貧弱さは、確かに強く感じる。特に道立美術館のひどさは、目を覆いたくなる。他地方の公設美術館は、今攻めに攻めているというのに(金沢21世紀美術館青森県立美術館富山県立美術館、などなど)。

以上から、仕事では用事はあるものの、文化的な関心度でいえば、この北海道の200万都市は私の関心の対象外である。これはもともと北海道に無関係で、札幌に何のコンプレックスもない関西人故の感覚だろう。

ただ人口がデカイだけの都市ならほかにいくらでもある(関東の膨張するベッドタウン、それに伴い馬鹿の一つ覚えのように増えていく政令指定都市の数を見ればいい)。それがどうした、都市の魅力にとって大事なのはそこでいかなる文化が育まれるかだろう?という感覚が、私にはある。

翻って、富良野上富良野、美瑛には目を瞠るものがある。富良野は演劇工場を中心とした活動や、遠く本州から学者を招いて地域の歴史などについて勉強会が頻繁に開催されるなど、市民による文化活動が非常に盛んな地域である。富良野市役所や南富良野町役場などの行政も、福祉から観光振興まで、施策に熱心である。

大都市に比べれば、映画館も大規模書店もない。しかし、そこで文化を育む人がおり、そこにしかないものが地に根を張っている。

夜景に話を戻すと、これ一つとっても、この小さな上富良野の街を見下ろす丘からの眺めには、唯一無二の美しさがある。規模は大きくないが、ここにしかない美しさがある。

日の出公園から見た山並みに抱かれるこの町の夜景や、そのほかにも例えば、海に臨む小樽の夜景(以下)がいかに魅力的なことか。

 わざわざズンベラボウ平地の夜景を見ようとは、もはや思えない。

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小樽/天狗山

経済的に札幌が中心で、北海道における「ミニ東京」のように周辺からの富の集積(これを収奪構造と呼ぶ)を行うという仕組み自体は容易に変えることはできないだろう。また必ずしも当事者がその変更を望むわけではないのかもしれない。それは彼らの問題である。

札幌は、その収奪構造で東京の下位に序せられ、さらに下位の「地方」から人を収奪する中間機構とみることもできる。

中央集権的収奪構造は、持続可能性があるとは思われない。

G7を見ても、ここまで行政と経済を一都市(東京)に集中させた国は、少数派である。アメリカは合衆国であり、連邦政府は連邦全体に亘る治安・経済、国防・外交をつかさどるに過ぎない。英国は、もともと国家合同により生じた国である。ドイツやイタリアは、統一されたのが日本の開国とさして変わらない時期である。強力な集権化を教科書の理論モデルのように勧めた国としては、フランスくらいのものであろう。このフランスも、もともと地方に農業(全土)や、貿易(マルセイユ等)などの強固な産業基盤があり、地方が中央の収奪に対抗しうる実力を有しているともいえる。

他方、日本はどうか?

江戸期の日本は、いわば日本列島内に小さな華夷秩序を設け、ミニ中華としての徳川幕府、周辺諸侯、荊蛮の地としての外様、さらに化外としての周縁部、という分け方をしていたと見える。つまり中央集権的一国家ではなく、各地の自律を認めたうえで、一つの秩序圏として徳川に従わせたといえる。

分権国家でさえなく、一つの小さな世界といえる。だから、薩摩と津軽では言葉も通じぬ多様性があったのである。

お互いに得意なものが違い、それに互いが価値を認めるから交易が興り、経済は発展するのである。北前交易やお伊勢参りの観光旅行がいい例である。多様性こそは、持続可能な経済の原動力ではないか。

中央集権的収奪構造は、それを薙ぎ払いかねないものである。

田舎でもネットが整備され通販もでき、さらにこれからリモート化が進んで、ただ人が多くて図体がでかいだけの「大都市」の価値が相対化され、各都市の持つ文化的なパフォーマンスがより重視され、いびつな収奪構造と人口の偏在が多少とも是正されれば、この国が応仁の乱以降明治以前に持っていた「自立した地方のモザイク」というありし姿に、多少近づくかもしれない。