最近NYタイムズで、世界の行くべき52か所の中に、日本から福岡と並んで選出され多のが盛岡で、一躍脚光を浴びている。
前から盛岡城は見たかったので、ちょうどいい機会だった。
1.盛岡駅から盛岡城へ
アーケードのある古い商店街が白を囲むように幾筋かあり、風情がある町である。
しかしご多聞に漏れず、郊外に大型のイオンモールが二つもあるせいで、地元の同業者曰く駐車場のない中心市街地は空洞化が進んでいるようである。
駅から商店街を歩いていくと、盛岡城に到る。
2.櫻山神社
盛岡城の縄張り内に桜山神社という社があるが、この周辺がこうした商店街になっている。
もともと戦後の闇市だったところで、建築基準法上建て替えができないため、古い建物のまま営業が続いている。
神社の参道に道が横切っており、さらに鳥居の周りに商店がある。
この環境は、京都の寺町・新京極に似ている。
あちらも、寺社の境内地の真ん中をぶった切る様に新京極商店街ができたため、鳥居が商店に食い込んでいる景色などが見られる。
雨の日はこれはこれで、地面のリフレクションという「効果」が得られるため写真としてはとりやすい。
また、Olympus OM-D I-M5 Mark IIは発色がよく、特に色をいじることなくそのままでもRAW現像ができるのがいい。
3.盛岡城
盛岡城は東北の城でありながら、弘前城と同様、執拗に石垣にこだわった城である。
仙台城、盛岡城、弘前城と、東北の外様大名は、その権勢と技術の誇示のために、東北の城が従来石垣になじみがなかったがゆえにいっそう、石垣にこだわったとみえる。
みると、硬質で密度の高そうな、青黒い石である。
仙台城に似た印象を受ける。
この近くで採れる花崗岩だそうだ。
櫻山という岩盤の小高い丘を縄張りとして成型した城である。
雫石川、中津川、北上川の参戦合流の地で、川を防壁として活用している。南部藩の主産業は馬産と材木であったという。山間部からの木材なども集積できたであろう。
縄張りとしては、1615年の大坂夏の陣の都市に完成している。
城郭図によると、河川流域ではない城郭北辺には、三の丸の外郭、市域全体を覆う堀がめぐらされている。総構えである。
総構え構築が可能だったのには、おそらく、大坂夏の陣前の時期の築城であったこと(徳川による外様への統制が強化される前)が一つある。徳川の江戸を守るうえで、仮想敵となる外様の大藩・仙台伊達藩を背後から挟撃すべき位置にあったことも重要であろう。
さらには、蝦夷地への備えである。江戸の幕府にとっての異域である蝦夷は、当時大陸と地続きと考えられており、通商のコントロール(これは武力のない松前氏の巧妙なハッタリ外交により、事実上松前の独占となって行く)以上に、北辺からの大陸勢力の侵攻を警戒する必要があった。
ところで、以前からずっと不可解に感じているのが、この南部氏の蝦夷地との交渉関係の歴史についてである。
基本的に蝦夷交易に強かったのは中世以来、日本海側、津軽十三湊の安藤氏であった。安藤氏に従属していた蠣崎氏がその地位を襲い、重心を道南十二館、特にその後松前に移し、松前氏を名乗るに至った。
蠣崎=松前氏が道南に移ったのは、南部氏の一派である津軽氏(のちに南部氏から離反し独立)により津軽の地から追い出されたから、と言っていい。
つまり、安藤・蠣崎という、蝦夷交易にもともと強く、道南十二館により津軽海峡交易を支配した系統は、南部氏・津軽氏両派により本州から駆逐されたのである。
江戸期になり、徳川は松前氏に蝦夷の交易を許可する。松前氏は、アイヌに対してこの「許可」を、蝦夷交易の「独占権」であると誇張して布告し、他の勢力との交易を一方的に禁じた。これにより、松前による商場交易制、場所請負制へと変化し、アイヌの労働力の搾取が広がっていく。
馬産や材木生産が中心であったことからも、南部氏が陸の民であったことは想像されるが、それにしても彼らは東回り航路の港湾をいくつも領有していたのである。
また蝦夷で反乱がおこると、仙台藩とともに蝦夷地派兵や物資供与が幕府から命じられる立場でもあった。
加えて、徳川幕府は松前氏に蝦夷交易の独占を命じたのではなく許可したのみで、独占とは松前がアイヌに僭称した詐術である。
こうした状況下で、交易の許可がないならば密貿易になるとはいえ、南部が蝦夷交易に直接的に関与していなかったといえるだろうか。
盛岡市歴史資料館の展示でも、やはり、というべきか、近江商人の勢力が大きかったことがわかる。
近江商人がその販路を拡大したのは、日本海交易路である。その延長上に東回り航路がある。
蝦夷地の商場にも多くの近江商人が出入りしていたわけで、そのネットワークが直接か間接かに関わらず、ここにも至っていたことはわかる。
4.市内散策
滞在二日目にガイド付きの市内散策に参加した。
残念ながら、有料のガイドとしては物足りなかった。
こちらからの質問にはだいたい答えに窮していたので、純粋に知識不足である。ボランティアガイドならば仕方がないが、有料であれば・・・
ちなみに、ボランティアガイドの場合は本当に町や歴史が好きでやっている熱心な人が多いため、彼らの方がなまじ有料ガイドをバイトでやっている学生よりも詳しいというのは、皮肉なものである。
盛岡八幡宮など、行きたいところには行けず、生煮えの解説を聞かされて街を回った。散策したければ自分一人で歩くべきである。
町中に手のかかるであろうハンギングバスケット、そして花壇があった。
町の美化に並々ならぬ力の入れようである。
一日目に自分で歩いて見た盛岡城の、鶴ヶ池という堀が、今回の写真の中の目玉となった。
アジサイの季節の雨の日の風情が似合う景色だった。
その後はいつも通り車で自宅に帰る行程となった。