手軽な一揆の起こし方

エセ評論家の生活と意見

緊急寄稿:無関心の極北

 

1)経緯

今日、安倍晋三が銃殺されたらしい。

忙しく、当然ネットニュースを見る間も無く仕事をしていたので、詳細を知ったのは死亡した後の夜7時過ぎだった。

刑法上は、故意性・犯罪の構成要件該当性・違法性阻却事由の不存在・責任能力の全てを充足すれば、犯罪として成立する。

その点で、現行犯である本事案は、「責任阻却事由=責任能力の不存在」がない限り、有罪であるに違いなく、あとは量刑の問題のみとなる。

動機は、刑法上全く意味を持たない。

しかし、本件は刑事犯としての側面よりも、社会事象としての側面が遥かに大きい。構成要件該当性云々よりも、動機は社会的関心事となる。

まだほとんど全容は解らぬが、私がニュースに触れて2−3分で感じた第一印象を、新しいうちに備忘録としてまとめておく。

 

2)民主主義は冒涜するに値するか

早速、「民主主義の冒涜」などという、ロマン主義がかった非難声明が出されている。違うと思う。

この犯行は、民主主義に対する冒涜ですらない。

犯人(現行犯で自供もしているから、刑事手続上の「被疑者」と呼ぶ必要はないだろう)は、「安倍晋三に不満があり殺そうと思ってやった」「政治的信条に対する恨みではない」と述べている。

多くの記事の中から上記の趣旨のリードを見た瞬間、妙に納得した。

彼は、安倍の政治思想に対する攻撃を加えていないのである。不満の内容が彼の政治行動の帰結に対するものなのかどうかは不明だが、少なくとも時代がかったロマン主義者たちが垂涎する「思想犯」ではない。

ここからは現段階での想像だが、為政者としての安倍の行動に対する不満であったとしても、あくまでそれは「犯人と安倍の間の問題」に完結していたのではないか。そこだけ切り取れば、ただの怨恨殺人と全く同じ性質のものだったのではないか。

換言するならば、犯人にとっては、本事案はあくまで「社会的事件」ではなくただの「刑事犯」なのではないか。

つまり、犯人には、その事件を起こすことで社会にどのようなインパクトを与えるか、あるいは与えることができるか、といったことは眼中になかったのではないか。

そうだとすれば、犯人は民主主義を冒涜することにすら関心はなかったと言える。なぜならば、「彼と私の間の問題」を暴力的に解決しようとしただけであり、彼と私の間に存在するはずの社会を完全にまたぎこしているからである。

彼は民主主義を冒涜したのではなかろう。民主主義は、犯行の過程で注意の対象にすら入らなかったし、民主主義は冒涜されるにすら値しなかったのではないか。

 

3)無視された民主主義

安倍の政治家としての行動の帰結が、犯人の言う「不満」の原因である可能性はある。しかし、それに対するアンサーとして犯人が用意した暴力は、民主主義の有無と無関係であったと思われる。例えばそれが、江戸時代の苛政を敷いた悪代官に対する百姓のテロリズムであったとしても同じなのだろう。

民主主義は政治プロセスであり、政治行動の結果ではない。

犯人の意図は政治行動の結果か、あるいはもっと悪くすれば、政治家としてですらない安倍晋三個人への恨みなのかもしれない。そこに民主主義という政治プロセスに対する攻撃の指向性があるようには、私には一貫して感じられない。

彼は、彼の犯行が「民主主義への冒涜だ」などと言われることすら考えていないかもしれない。そこに、今の日本の「絶望的」ではない、「失望的」状況があるように思う。

 

4)空気のように当たり前にある、しかし不能に見えるメカニズム

民主党政権が、その初期に為替政策で過ちを犯し、軌道修正もままならぬままに起こった東日本大震災で、日本人は政治に、民主主義に失望した。

その失望の上に築かれた8−9年間が、安倍・菅政権だった。

日本人は、ポスト小泉政権民主党政権というたった一度の、それもたった数年の政治的フラストレーションで、民主主義を見放した。見限るという、積極的に放棄をする行動すらもすることなく、ただそこにあるままに見放し、放置した。

見放すという贅沢な行為は、民主主義が社会に制度として根付いて、暴力的侵食を受けることもなく存在し続ける幸運(能動的に勝ち取られる幸福ではない。ただ経済状況や地政学リスクその他の状況に恵まれただけの幸運である)に支えられた、ある意味でのラッキーな民主主義体制の盤石性があってこそ可能なものである。

多少揺さぶってもそこにあり続ける、当たり前すぎる存在。しかしそれが十全に機能せず、不能感をもたらすとき、人はひどく無関心になるものだ。

日本人が贅沢にも、民主主義を見放す真似をして、失望を気取っていられるのは、こうした恵まれすぎた不能感ゆえである。

戦前の日本であれば、昭和に入っても冷害による飢饉があれば、豊作による価格下落で豊作飢饉が起こったという。その度に田舎の娘は都会に売られ、子は人知れず間引かれ戸籍に載せられなかった。そうした切迫した社会状況は、現状に対する強い不満からくる暴力革命への憧憬を生む。軍部による犬養らへのテロリズムや、満州事変前後の日本政府の「防共」への異常な執念は、そうした「本当の貧しさ」を国内に抱えているが故の危機感や焦燥感のの愚かな表出でもあった。

翻って、安倍を殺した犯人はどうか。10年間鉄筋のアパートに住んでいたようである。独身であろう。革命プロセスを経て、社会を改変しようという意図すらあったようには思えない。あくまで推測だが。そもそも、先述のように、「社会」という存在に関心がなく、気づきもせず、無視して、安倍という「私に対する彼」を、「ごくごく個人的に」殺しに行っただけではないか。

 

5)安倍政権に至った過程

思えば、安倍晋三という首相は日本人の失望が負託された存在であった、といえば言い過ぎだろうか。リーマンショック前後の自民党政権に落胆し、政権交代が全てを変えるなどという安易で愚劣な考えに乗って勝手に失望し、無気力になって政治を「どうでもいいもの」にして行った国民の上に、十年一日の如く時を止めることのみを目的とした安倍が登壇した。

無理からぬことのように思うし、非難はできない。日本人は人口減少という、人類史あるいはエコシステムの動態上は極めて健全な、しかし資本主義という場当たり的なシステムを維持する上では極めて致命的な、目に見えぬ病魔に侵され30年以上を生きてきた。

徐々に圧迫する原因不明の閉塞感の中で、小泉のパフォーマンスに溜飲を下げ、政権交代に落胆し、果てに東日本大震災を経て、もうたくさんだと感じたというのが、国民の総体としての意志に、当たらずとも遠からずのものではないか。

その中で、「ちょっとタンマ。もういいから。」という意志の上に成り立ち、知ってか知らずかそれを反映したのが、安倍と菅の9年間だったように思う。

かくして、十年を一日のごとく時を止める政権が誕生した。

私は彼がアベノミクスと言い出した時から、彼の去った後の日本は何も残らない焼け野原になると思った。直感的に強く感じた。一貫して彼を支持しなかった。彼が去って後、事実そうなっている。

なんでもそうだが、経済政策とて明暗両面ある。

インフレターゲットをインフレ率上昇のために使おうなどという黒田の愚策には閉口せざるを得なかったが、円安誘導は観光産業を中心としたインバウンドの勃興をもたらした。これは、日本の基幹産業にするにはあまりにも脆弱ではあるが、間違いなく新しい産業分野の創出ではあった。

さらに、円安状況が生んだ日本の景況感の踊り場は、なんとか消費税を10%にすることを可能にもした。

しかし、円安は日本の多くの産業セクター、特に製造業に「無用に楽をさせ」、彼らのイノベーションをサボらせた。社会インフラの更新も、特にオンライン化を中心に大幅に遅れをとった。そして、コロナ禍を経て見えてきたのは、日本の今や後進性ともいうべき現状である。

さらに日銀が国債の50%を買い入れ、せっかくの消費増税でも財政の健全化など霧消するような、将来世代への借金が残った。

我々は十年を一日のごとく過ごすための代償として、未来を食い潰してきたのではないか?

これらは、安倍晋三の功罪ではない。単に、それを望み、あるいは追認した日本国民の功罪である。

安倍晋三の八年は、もういい加減に時を止めたかった日本人と、その期待に応え、代わりに悪魔との契約よろしくその代償に将来を差し出すという、彼が去ったのちにその全容が徐々に明らかになる「取引」によって成立した時間だったように思う。

人口減少という抗することができない「死」への圧力に苛まれ、30年のうちに二度ずつの経済の崩壊と大震災に襲われ、未来を取引の対価にしてでも今をとどめたいと願った日本の漠然とした意志に暗黙の付託を受けたのが、安倍晋三の政権であった。時を止めることを求めたが故にそれは、社会の根本的な変革を招くタイプの政権ではなかった。

 

6)冒涜するにすら値しない

「もうたくさん」という倦みの上に、「時を止める」ことを負託され、無関心による追認の上に成立したのが安倍晋三の政権であった。

彼が森友学園加計学園問題を起こそうが、桜を見る会問題を起こそうが、いい加減な国民投票法案を通そうが、集団的自衛権の屁理屈のような解釈変更をしようが、黒川を無理矢理検事総長に据えようが、いくら何をどうお手盛りでやっても、国民はどうでもいいものとして放っておいた。どうせどうにもできないし、政治について語るのとかダセーし。

こうした社会の状況に、先週のプライムニュースに出演した白井聡と先崎彰容、特に前者は強い危機感を述べておられた。

https://www.fnn.jp/articles/-/383617

政治プロセスへの著しい無関心の上に政治権力を行使する空間を得た安倍は、偶然か必然か、政治的プロセスに著しく無関心である輩に、「極めて政治的ではない動機で」殺されたと思われる。

因果応報というつもりはない。

それは故人に対して失礼な物言いである。

この犯行は愚劣な犯人の殺人衝動に発するものであり、安倍晋三の行為の必然的帰結でも何でもない。

しかし間違いなく、社会に政治プロセスへの失望と無関心は充溢していた。安倍政権は、自らを支えるためにそれを武器にし利用もしていた。彼の政権の経済金融を中心とした「時を止める」諸政策の、それが本質であった。

今回の犯行という一帰結は、政治に失望し、プロセスに関心を失い、放置して、気が向けば暴力で不満をぶつければいい、というあまりにも愚劣な犯人の登場は、政治プロセスの育成に堪え性がない国民と、その国民の三日坊主的無関心の上に居座った政権(これは仲間内の論理や小泉のパフォーマンスなどで乗り切り説明責任を放棄してきた自民党政権と稚拙な民主党政権、そしてその結果として時を止めた安倍政権の全ての共犯とも言える)の双方が醸成した悪弊に起因するのではないか。

繰り返すが、私は今回の犯行が思想性のないであろうこと、そして思想性を真っ先に犯人が否定していることに、非常に納得したし、極めて現代的だとも思った。

そこに、民主主義は冒涜されるにすらも値していないという、無関心の極北を見た。

しかし、いくら犯人が、国民が無関心の極北を決め込もうとも、そのこと自体が民主主義という政治プロセスを、そしてその先にある我が国の統治能力を、本当は存在せざるを得ないのにあえて皆が無視しようとする社会という「プロセス」を、穿ち、あるいは腐らせるであろう。

この事件は、我々が招いた結果である。

まだ止められるだろうか。もう遅いだろうか。